返歌

 戦争が終わり、晴れて従軍記者の任を解かれた私が今から書くのは、記事ではなく、単なる私的な記録である。或いはとりとめのない思い出話だ。

 かつて私は海外駐屯のとある部隊に密着していた。初めて入国した八月の終わり、迎えの車に揺られ軍用施設の門をくぐったとき、取材道具の検査を受けた。検査を担当した傷面の男は、それらの価値を知っているかのように、カメラや取材手帳、いろいろの資料やら論文やらを丁重に調べ上げ、少し笑って返却された。私個人の趣味で、一冊だけ持ち歩いている小説を渡す時だけ、何かに引っかかるようにごく少しだけ力が強かった。いくら引っ張っても離れないといったようなのではなく、こちらも少し力を加えれば手を解けるような力の強さであった。

「何か?」

「いや、少し、気になったもので」

「はぁ…」

 その後、夕方まで施設の案内や国軍肝入りの新兵器の説明を受け、いざ支社へ向かおうとした矢先、背後から声をかけられたのであった。

「あの、もし」

「はい?」

「その、もし、構わなければ、読み終えてからでよいので、本を貸してもらえませんか」

 それが私と長谷川の出会いであった。長谷川は、時代が時代でなければ、また右頬の創傷痕に目を瞑れば、銃や薄汚れた背嚢よりも西洋の楽器や、マイクや、あるいは台本をもっているのが似合いの、要するに舞台映えする美丈夫であった。その上様々なことに造詣が深く、少しロマンチストで、無礼を承知で言うなれば、軍服の似合わぬ青年であった。ゆえに部隊の中では孤立していたのであるが、その異質性に惹かれてか、ともかく私たちは取材の度に話すようになったのだった。

 その日は季節性のスコール雨が景気良く降っては休み、一日中蒸籠の中にいるかのようだった。東南亜の雨はまるで濁流だ。豪雨を逃れて駆け込んだ軒下で私は長谷川と鉢合わせた。軍の敷地外で顔を合わせるのは初めてであった。

「奇遇だな、長谷川君」

「水島さんも雨宿りですか」

「あぁ、これではさすがになぁ…」

 雨に打たれていたのは僅かの間なれど、私が濡れ鼠の状態を取るのには十分な時間であった。ぐしょぐしょに濡れた鳥打帽を脱ぎ前髪から垂れる雨粒を手のひらで乱暴に払うと、隣に姿勢よく立つ長谷川も習って、ばさばさと軍人にしては長い髪を払った。髪の隙間から右頬の古傷が見え隠れするのに目を奪われて、この勲章に彫り込まれた背景を勝手に想像し、死線を潜り抜けてきたのだろうと、軽率であるのは重々承知の上でほんのいくらかの憧憬交じりに不動の視線を送っていた。

「…この傷、気になりますか?」

「すまない、無遠慮だったな」

 長谷川が視線に気づきこちらへ両眼を寄越したので、まずいことをやったと思い、私はあわてて目を反らした。視線を隠そうと左手に持っていた鳥打帽を勢いよく被ると、しみ込んでいた雨水が湧きだすように冷たく、雨粒を振り払ったばかりの私の髪は再び濡れ鼠の毛皮へとなり果てた。

「構いませんよ」

「どうやってついたものなのか、聞いてもいいかい。さぞ激闘だったのだろう」

「激闘は激闘でしたが、これは褒められたものではありませんよ」

「そうなのかい…?それはまた、どうして」

「従軍前についたものなのです。父に西洋趣味を咎められまして」

 呆気に取られ言葉を失って、沈黙は雨音で埋まった。全ては私の勝手な想像が招いた差異であるのだが、少しの間を経て、どうにも笑いがこみあげてくる。戦争のあれこれの激戦と、言ってしまえば親子喧嘩では、それこそ提灯に釣り鐘の大違いである。

「…はは、君らしいな」

「そうでしょうか」

「隠せていないからね。本を貸してくれなんて言う奴は、それこそ軍医でもない限り見たことがない。よりによって、恋愛小説だからな……、読み終えたらきっと君は馬鹿にするものかと思っていたんだが、なにせ息巻いて感想を言うときた」

「そのことはくれぐれもご内密に」

「誰が言うものか。それで。因みに、その時は何がきっかけだったんだい?」

「これは、その、特別、情けない話ではありますが、」

 そうして彼は壊れ物を取り扱うように語り始めたのであった。

 聞けば彼は女学校に通っていたころの奥方に一目ぼれの恋愛結婚らしい。ロマンス好きの彼女を振り向かせるべく学友どもと四苦八苦、全く見当違いのゲーテに始まり、ギリシア神話、星座、徐々に恋愛小説、まじない、甘味等々可愛らしく、ロマンスとは何たるかを学び出し、花言葉にたどり着いたころにはこの眼前のロマンチストが出来上がっていたとのことである。そんな種々様々の軟派な本が息子の書架に増えていくのを見かねた御父上の怒り用は凄まじかったらしく、口論の末勘当を言い放った際に吹っ飛んできたガラス瓶が彼の頬に傷跡を残したのだった。

 結局、駆け落ち同然にはなりましたが、私は幸せ者でしたよ。と、長谷川は薄ら笑っていた。

「おや、雨、上がりましたね」

「あぁ」

 せいぜいそれくらいの、短い会話である。

 翌日、小康状態が続いていた現地の民衆反乱はとある一市民の殺害事件をきっかけに再燃し、私は任地を転々とし、挙句の果てには強制送還、その後も結局従軍記者の体裁を整えて何度か外国に足を運んだものの、長谷川と顔を合わせることは二度となかった。一時帰国の度に、彼に教わった住所を訪ね、例の奥方に名前と、住所までは覚えてもらった。2年と幾許かの任期は知らぬ間に伸び、一報も寄越さぬ彼の話を聞いた奥方の喜び様はそれこそ花が咲いた様であった。

 やがて戦争が閉じ、直後の動乱もとうに静まり、年も明け、春の若芽が焼けた山野に萌える出した今では、息ひそやかに復興の動きが続いている。軍は解体し、あらゆるものが任を解かれ、生きたものは次々と日本へ帰ってきた。彼はロマンチストであるから、きっとバラか、バラがなければクローバーでも持って彼女のもとへ帰っているのだろう。何せ、訃報はまだ聞かぬままだ。

 横須賀の独身寮では、すぐ脇を轟々と電車の駆け抜けていく音がする。地鳴りのような其の音に、かの国の濁流の様な雨を追懐して、少しだけ彼の声が聴きたくなった。

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ねもはも 八京間 @irohani1682

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