ロペルカ
ロペルカに成り代わられたくなければ、その影を踏んではいけない。もし踏んでしまったのなら、偽者だと自覚させてやればいい。奴らは自分が本物だと思っているから、平気で成り代わりなんてするのだ。
♧
両耳にしっかり水が満ちていなければ、たとえ水底にいようとも静寂には程遠い。浅瀬にいれば尚更だ。小川のせせらぎが深い轟音に姿を変えて、耳の中へ出たり入ったりしている。べたべたと頬にまとわりつく髪の毛が川の青臭い匂いを帯びていて、どうやら長い時間こうして川の浅瀬に寝そべっていたらしいと思った。目を開く。ぽかぽかと真上に白んじて、春の陽気が染み出たような薄青の空が、森の木々の隙間に満ちているだけである。目を瞑っているうちに、もうずいぶんと日が高く昇ってしまったようだった。眩しさに目線を横へずらすと、左側には川の小石が、右側には黄色い花を宿したカタバミがあった。
「こら、メレメレ、そっちの岩場は滑るから行かないで」
言葉では叱りつけていながらも、どこか優しい澄んだ声が近づいてくる。それでも、真っ先に潤んだ視界に入り込んだのは、声の主ではなくて、ふわふわの毛とは正反対の、化石のように固く重厚な羊の角、そして羊の鼻先であった。生暖かい息が肌に触れて、草の匂いがした。
数秒遅れて声の主が現れる。飴玉の様な赤い目に見止められて、動かし方の分からん体がいよいよ緊張するような心地がした。二つに縛った彼女の黒髪が柳のように降りて、己の顔にかかりそうでかからず、触れていないのが分かっているのにくすぐったい。
「……あなた、どうしてこんなところで寝そべってるの?」
十二、三の少女が己を見下ろしている。
「足を滑らせたんだ。君は迷子?」
「ちゃんと道は分かってる。私はリマ。こっちは羊のメレメレと、それからあっちがメルメル、それからあそこで草を食べてるのが……」
「はははっ、全員の名前を聞いてたら日が暮れそうだ」
「ふふっ、私もそう思うわ。私たち、遊牧してここまで来たの、今年の春はここらにしばらく留まるって父様が」
「そっか。小さいのに家の手伝いをして、君は偉いね」
「あなただってそう変わらないでしょう?」
「そうかい?よくわからないな。手足がちぎれそうなぐらい冷たいんだ。僕、ちゃんと人の形してる?」
「そうね、手も足もちゃんとついてるわ。少し顔が赤いかも」
景色を白ませたのは決して陽光ばかりではない。視界は急回転。瞼の裏で星が輝いた。
♧
「あぁ、良かった。あなた、突然倒れるんだもの。あんな川べりで眠ってたら、そりゃ誰だって風邪をひくってわかるでしょう?」
目を開く。布張りの天幕がたゆんでいる。川で目が覚めた時と同じように、彼女の黒く、長い髪が己の顔にかかりそうでかからず、触れていないのが分かっているのにくすぐったい。
「ふふっ、確かにそうだ。ここは?」
「私の家よ」
「おや、目を覚ましたのかね?」
横からリマが「私の父よ」と耳打ちした。黒い髪に赤い目、どことなく似通った鼻筋やらが、それを保証するかのようだ。
「えぇ、どうやら大変お世話になったみたい。ありがとうございました」
「構わないさ。同族の者を助けるのは当たり前のことだ。顔を洗ってくるといい。外に水桶がある」
柔らかなベッドから足をおろし、家の外に出る。移動式の家とはいえ、出入り口は決められているようで、壁布の重なったところをくぐった途端、青々と草の匂いを帯びた風が全身に吹き込んでくるようだった。一面の緑の草原に、白い点描の如く羊が居り、天は高く、突き抜けるような青だ。きっと、先ほどの川から運んできたに違いない、たっぷりと水がためられた木桶に、羊の様な雲が映り込んでいる。まるで写し取ったかのようだ。隙間から、飴玉の様な真ん丸で赤い目がこちらを見ている。黒々と艶やかな長髪を下ろした少女。それが己の顔であることに気づくのに少し時間がかかった。
その日は一日、お礼の代わりにリマの家の手伝いをして、結局もう何日かお世話になることになった。
♧
「ねぇ!」
「わっ、どうしたの?リマ」
「今日は一緒に向こうの丘まで行きましょ!羊の好きな草が沢山あるの。退屈だから、冠作ったげる!」
言われるがままに、羊とリマの後に続いて歩く。歩くたび左右に揺れるリマの束髪をまねて、自分の髪を掴んでみる。小川の水面に映った姿がぞっとするほど似ていて、すぐに両手を離した。
「羊が好きな草って、どんなの?」
「クローバーよ。白い花が咲くの」
のんびり歩いて十数分、たどり着いた小高い丘は牛の背の様に小さくうねった曲線を描いている。一面の緑の中、地形の外に何が異なっているのかさっぱりわからないが、彼女が言うには、この辺り一帯がクローバーの群生地とのことだ。しゃがみこんでみると、なるほど、白いつぼみがちらほらと密かに日を浴びている。羊を散らばらせて、小休止。相変わらず空は底なしの青色をしていて、地面にはぼんやりと羊とリマの影が落ちる以外に変化はなく、違いといえば、時折吹き抜ける風に草原が揺れるのと、のどかに雲が流れるのぐらいだ。もう咲いているシロツメクサを摘み集めて、彼女は器用に冠を編んでいる。背中に目でも付いているのか、振り向きもせず遠くへ行こうとする羊を呼び止めては、編んでいる。不意に、すぐ隣で地面を食んでいる羊の顔を他所へ押しやった。
「こら、メルメル、その草は食べちゃダメ」
「羊が食べちゃいけない草なんてあるの?」
「えぇ。これよ」
完成した冠をこちらの頭に寄越し、その手で彼女はハート型の葉が三つ集まったものを摘み上げる。
「それ、クローバーでしょ?あなたがさっき、羊の好きな草って言ってた」
「違うわ。これはカタバミっていって、ほら、さっきのと違って白い模様がないでしょう?花も黄色いわ。よく似ているけど、これを食べると病気になったりするの。性質の悪い偽物よ」
「へぇ。偽物」
ぱっと落ちた冠が草原を窪ませた。
「なんだ、そうか」
そう言ったきり泡のように消えて、ロペルカは地面に浮かぶ小さな影に戻った。
何度か緩い風が吹いて、夜の闇に溶けて見えなくなってからは、誰もかれもが忘れてしまって、ほんの少しも思い出せやしない。
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