玖・鬼衣
鬼から生ずば鬼の
藍染めでなく、墨染めでもない、
只一切れの
父御は児の身に幾巻きもして着させ、児は手も足も見えぬ姿となった。
丸まるとした
頭髪は未だなく、
頬は赤く、熟れた実を思わす。
ふくふくしい唇の向こうに、僅か、白いものが覗けている。
既に
産まれて幾月も経たぬというに恐れ入る。
夜長の月の円く満ち足り輝く頃には
迎えに来てやろうほどに
それ迄どうか忍んでお呉れ
父御は去りざま言い捨てて、衣に包んだ我が子を捨てた。
*
びょうびょうと、風が吹いた。
松籟に似た響きである。
けれどもずっと寒々しい。
名月の夜はとうに過ぎ、吹く風は木枯らし。
震えていた。
寒くはなかった。
我が身を包む
風も雨もつらくはなかった。
けれども酷く寒々しい。
虚しい
と、その寒々しさは謂うのだと、
その時は未だ知らなんだ。
寒くて寒くて震えていた。
震えると、音が鳴る。
巻いた衣が
ピイピイと笛に似た音も聞こえていた。
カチャカチャと硬いものの触れ合う音もする。
夜長に騒ぐ秋虫の羽の調べを思った。
この頃はもう鳴かない。
秋虫の命はとうに潰えた。
びょうびょうと吹く風に、
揺られながら待ち侘びる。
ととさまは未だ来ない。
かかさまは健やかだろうか。
立ち枯れの木立の細い幹の先で
吊られた一匹の蓑虫が
細々と泣いている。
*
官職にありつけていた頃は
学識高く、
わたくしなどは
夫の他には父を除いて殿方の顔を見も知らぬような
贅も風情も
斯様に
傍目にはつまらぬ生き様であったやもしれませぬ。
深窓の
やがては退屈な
宮仕えを勧められたこともありました。
けれども
わたくしのような女には
中宮様の無聊を慰める博識などあろうはずがなく
豊かな経験も人との関りも持たぬ身。
ただ静々と邸の中でつつがない日を過ごしておりました。
つつがない日々と思うておりました。
身の回りの世話をする家人の姿が減ってゆき
出される食事の器の数も減ってゆき
春も夏も同じ衣で、秋も冬も
牛の鳴く声も聞こえなくなって
夫が常々邸に居座り、伺候に出向く様子がなくなっても
世慣れぬ身のわたくしは日々はただ続いてゆくものと
つつがなく繰り返してゆくものと
そう思うていたのです。
その頃はまだ、夫の身形は美しかった。
紅や鶯、浅葱などの襲の見える衣を着ていた。
ですがそれも古びてはいたのでしょう。
絹は柔らかく、香でない匂いが沁みて
わたくしの膚を包むのでした。
獣の
神さびた姫と
いつしか家人の失せた邸で
初めて身を
日毎、夜毎、飽くことなく。
わたくしたちは交わった。
やがて邸の土塀は崩れ
屋根の上には草が吹き
蓮池は濁って緑深く
錦の鯉の腹なぞが禽に突かれるまま浮かんでおりました。
その頃になって
嗚呼、わたくしの夫は職を失し
今日、明日を生きる手立てもなく
獣性に耽る他には時を遣り過ごすすべもないのだと。
ふと見れば、互いの衣は酷く穢れて
まるで土色の襤褸切れのよう
それを纏いつかせた
垢に黒ずみ、臭気を発しているのでした。
髪なぞとうに乱れ絡まり、ちぎれ、逆立ち、鬼のよう。
なんと恐ろしいことか。
わたくしは怯えました。
いいえ、厭いました。
己と夫の有様を、忌み嫌い、拒んだのです。
水は深く
とうに蓮はなかったけれど
せめて其処なら御仏のもとへ辿り着けようと
わたくしは池に身を沈めたのです。
あれから――
幾月――
目が
十五夜か十六夜か
いずれ秋の名月でありましょう。
赤子の泣く声を聞いたように思います。
朽ちた邸を取り囲む芒が。
百鬼夢幻 刎ネ魚 @haneuo2011
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