捌・河童

――そりゃ、可哀そうだとは思うけどねえ


云って女は眉根を寄せた

苦悩、或いは苦渋を表現したのだろう


――けど、背に腹は代えられないっていうかさあ


一々語尾を間延びさせるのは

迷いや後悔の意味合いだろうか


――まあさ、こういう土地だから


仕方がない

言外に云って女はおんぼろな我が家を見た


いや、その向こうにある流れへと

視線を移したのであろう


汚濁があった


流れ

とは、おおきなもののことを云う

人間には抗いがたい巨きな圧力ちからのことだ


そこにある流れは

川のかたちをしていた


一見して穏やかな川だ

清流と呼べるであろう

ところどころに突き出す石塊いわお飛沫しぶきがあがっているが

白く泡立つほどではなく

水は左右に分流わかれて、またひとつに戻る


触れればさぞや冷たかろう

底には田螺たにしが這っていよう

それをつつ小魚いさなも居よう


そう思わせる美しい川だ

水草がゆらゆら揺らめいている


――常時いつもああならいんだけどねえ


余韻を残して女はあばら家へと引っ込んでいった

中から赤ん坊の泣く声が漏れ聞こえている

入り口に女の抱えていた洗濯桶が置き去られている

山と盛られた布切れは赤ん坊のであろう


川は暴れ川であった


平素は清く穏やかにせせらぎ

人の営みの助けとなる

けれど

一度ひとたび雨が降り続けば

山肌を削った濁流が注ぎ

溢れ暴れて木立も家もみな呑み込んでしまう


ならば、こんな近くに住まわなければよさそうなものだ

川から離れて家を構えるが賢かろう


しかしながらこの土地は

山深く、田も引けぬ

僅かに拓けた川べりに集い住むより他がない


つまり


――仕方がない


仕方がないのだ

流れであるのだ

汚濁であろうと

流れているのだ


故に、

流されたのだ





河童というのは恐ろしいものでね

いやまあ、膚が緑色だってんだから

そりゃ恐ろしいわな

そんななあヒトでなかろうよ


けどまあそういうことではなくてね

え?

ああ、そうそう、確かにね

ありゃ尻子玉持ってくって謂われるね


尻子玉ってな、なんだろうね

やっぱりあれかね

魂だとかなんだとか

そういうヒトの真ん中ら辺の何かかね

尻子玉抜かれると腑抜けちまうって話だしね

ガキの時分はそりゃ怖かったよね

厠で屈んでいるとさ、こうヌッと

ヌウッと腕が伸びてきて……

なんて想像を働かせたもんだよね


え?

ああ、はいはい、それも聞くねえ

河原で相撲とるってんだろ

それで負けたら川に引きずり込まれるって

おや、違ったかねえ

ありゃ何のために相撲をとるんだろうねえ

よっぽど力自慢なのか

それにしちゃ河童ってのは貧相な体つきのが多いやね


え?

見たことがあるのかって?

そりゃあるだろうよ

絵草子えほんによく出てくるからね

手遊おもちゃ屋でお面も見たことがあるよ

まあ、人気はなかろうがねえ


ええっとそれでなんだったっけか?

ああ、河童が恐いって話だね


え?

恐くない?


相撲をとりたがる緑色の痩せたガキなんぞ

気色は悪いが恐ろしくはないって?

ヒトのからだに尻子玉なんぞないし

無いものは取れもしないから恐がる必要もないって?


あんた、よくよく話の腰を折るねえ

ま、そう云うんだったらいいけどね

ならまあひとつ、お譲りしますか

よそでは手に入らない秘蔵の品ですよ

そりゃあそうだ

河童の腕なんぞそうそう売ってるもんじゃあないよね





河童の川流れ

という言葉を聞いたことがある

意味は知らん

おれは無学だから

誰かの口にした言葉は聞けても

意味の載った本は読めん

云った大人に尋ねたところで

おれと同じに無学だから知らん


ただおれは、こう思ったのだ

河童でも川を流れるもんか、と

川を流れるというのは要するに

川で溺れる、ということだろう

河童は川の生き物で

川に人を溺れさすことがあると聞くが

そんな河童でも溺れてしまうとは

川とは随分恐ろしいものだと


その時は思ったのだ

今は違う

河童の川流れとは

文字通り

文字は読めんが、つまり言葉通りに

河童が川を流れることを云うんだろうと

今のおれは思っている


思って

いるのだろうか

思う余裕はないはずなのだが


おれは川を流れている

おれは河童ではなく人の小童こども

川で溺れているのではない

溺れているが

溺れているのではなくて

おれは川に流されている

おれは人に流されたから

人の手で川に流されたのだ


あそこの岩塊いわおに掴まれば

もしかして助かるだろうか

助かったら

殺されるだろうか

何に

人に

おれを流した大人たちに

ならば掴んではいかんのだろう


暴れ川には龍が棲む

おれは龍神様のもとへ

龍の棲み処を流され流れ


腹が水でいっぱいだ

久方ぶりにひもじくない

痩せた手足と膨れた腹と

藻の絡んだ緑の體と

まるで河童だ

おれは小童から河童になった


誰か遊んでくれるだろうか

誰かこの手をとってくれるか





『猿の手』を知ってるか

名の通りに猿の手によく似たものだ

『猿の腕』と云うこともあるらしい

が、それでは単に肘の可動域の広い人の腕を指すことばに聞こえる

だからもっぱら『猿の手』だろう

肘から先の腕の木乃伊みいら

恐らく木乃伊なんだろう

枯れ枝みたいに乾いているのだから、剥製とかではないんだろう


『猿の手』には指がある

まあ手なんだから指も生えていよう

これをポキリと折りながら願いを告げると叶うと云う

ひとつ願えばひとつの指がポキリと折れて願いが叶うと云うこともあるようだ

どっちが先だかは知れぬ

試した者だけが知るのだろう


『猿の手』は痩せさらばえている

ふくよかな木乃伊もなかろうから、それは勿論そうなのだろうが

そうと云うより痩せた腕の木乃伊だ

肘より前のからだはない

あれば『猿の手』とは呼ばぬわな


しかし體はあったのだ

今は離れているだけで

元は胴なり脚なり頭なりのある體に生えていた腕だ

それはそうだろう

腕だけが初めからあったとしたら

それはもう腕ではなくてそれ自体が體だろうから


では體は何処へ行ったか

何故、腕だけが残っているのか

如何してその『手』は願いをきくのか


思うに、

『猿の手』は體を捜しているのであろう

捜そうにも手懸てがかりがとんとないから

それこそ『手』を使って

懸けられる願いに指を折り曲げ、辿り着くのを待っているのだろう


『猿の手』を人が使うのではない

人が『猿の手』に使われているのだ

ならばさしずめ、それを使う者こそ『猿の手』の體だろう


時に、

猿猴えんこうというのを知っているか

猿によく似た水辺の

まあ有り体に云って妖怪の類であろう

毛むくじゃらの小童で

腹がぽんと突き出して

手足がひょろ長く痩せており

水辺にやってきた人を底深くヘ引きずり込むそうな


つまるところ河童である

河童は全身緑色で頭のてっぺんに皿があり

相撲をとったり尻子玉を取ると云うが

そうでない河童もおるのだろう


それに河童は腕が長い

どのくらい長いかと云うと

片側の腕を引っ張ると

もう片側の腕が引っ込んで

引っ張られた腕が二倍に伸びるほど長い

この腕をり落として手に入れると

満願成就するお守りとなるのだそうだ


伐られた河童はそりゃ痛かろう

驚きもするかもしれん

恨めしくも思うだろうが

それはまあ咄嗟には難しかろう

痛さが勝って恨みつらみを考える間もなく

思わず逃げていくのではないか


そうして腕を失くした河童は……


まあ恐らくは死ぬのだろうかね

死なぬのならば

やはり恨み憎しむのだろう

それともおいおい泣くのだろうかな

返してくれと

おれの腕を返してくれと


そう云えば

河童は川で溺れた子供の成れの果てとも聞き及ぶ

必死でもがいて掴もうとしたのかね

何か

こう助けになるものを

助けてくれる者を


或いは『猿の手』というのも

何かを掴みたくてひとつ、ふたつ、みっつ、よっつと、

指を折っているのやもしれんね

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