漆・転換点ー倭鬼白夜行ー

 その頃は、戦乱の世であった。猫も杓子もいくさに耽る。武家であれ公家であれ百姓であれ、武功を上げれば取り立てられる。誰に? 己より優れた武将に、か。どうあれ暮らしが豊かになる。窮屈さも如何ばかりか増えるが、耐え難ければそこはそれ、世に倣って下剋上なりすれば善い。自身が誰の家来であるか、誰と誰が敵味方かなど、どうせ流転する如何でもよいことなのだ。武器を取らぬは男の恥、とは言わぬまでも、戦わぬ者は虐げられる。戦禍と無縁の者はおらぬ。ならば自ら戦火に身を投じ、戦果を挙げるが生き道だろう。

 恐らく、その程度のことだったのだ。考えてみたことはなかったけれど。なんとはなしに時流に乗せられ、運ばれるまま戦っていただけだけれども。当時の考えなしの状況を、あえて考えたように語るのならば、きっとその程度のものだったのだ。

 だから、本当はそれが誰であっても良かったのだろう。尋ねたのは、いかにもそうらしく思えたからで、違っていたなら他を当たれば良かった。別に、どうしても討ちたいわけでもなかった。

 劫火の中である。燃えているのは寺だった。大将首は炎の向こうだ。さすがに立ち入る気はしなかった。そうまでして得たい名誉はなかった。首を獲れば武功はあがるが、命を落としてはなんのことはない。どれだけ禄を貰おうと、死んでは飯も食えはしまいて。元より武士の一分など持ってはいない性分なのだ。ただ流されるに任せただけ。息巻いていた時分もあるにはあったのだろうが、勢いだけではどうにも、生きるのは思う程簡単ではない。命はいとも呆気ない。

 だから、その時の自身は、逃げる最中だったと思う。もうはっきりとは覚えていないが。炎上する寺の逆巻く熱気に、中てられて駆け込む連中も居たが、逃げ惑う者も少なくなかった。自身もそうしたうちの一人だったのだ。取り立ててどうこういえた存在ではない。凡夫であった。

 そこに――。

 偶々たまたま行きった。

 一見して美童であった。やけに白い膚をしていた。それが炎の赤さを映して、橙色に染まっていた。幾らか煤けていたかもしれない。それでもはやり、白かった。

 肌の白さと対比してか、大きく黒々とした瞳、長い黒髪が美しく、豊かであった。美童は墨染めの衣を着ていた。僧形に見えた。

 ならば、きっとそうなのだろうと思って声を投げた。

「森乱法師とはお前のことか」

 否、とこどもは答えた。確かに、幾らか幼過ぎる気はした。かの者の齢は十七か十八か、いずれ若武者と呼べる年齢だったはず。行き遇った美童はまだ元服するかしないかのわかさに見えた。

 が、この場にそう幾人も見目好い童子などおるまい。噂に聞く森乱法師は、稚児だの蛍小姓だのと渾名あだなされるほどの美顔の持ち主ということだった。尤も、どこぞの姫であるならまだしも、男が見栄えだ房中術だだけで主に取り立てられる世ではなかろうから、実際には相応の才気があってのことだろう。勇ましいのか、忠実なのか、そこのところは知らないが、強者を目指す主人が欲すのは強者と呼べる臣下に違いない。ただまあそうしたことも単に当て推量に過ぎないのだ。

何故なにゆえこの身を森乱と判ずる」

 美童が尋ねたので、思ったままを答えた。すると美童は仄かに哂った。口元は笑んでいたが、眼差しはどこか侘しげであった。黒い瞳はこちらを向いているのに、どこをも見ていないように思えた。

あれは確かに、美しかった」

 あれ、と言うからは、の者とこの者は別人なのだろう。

「美しく、且つ、強靭であった」

 すいとその目が寺を振り返った。美童は寺の門から逃げ落ちてきたのだった。

「故に儚い。真っ直ぐに、生きて死によった。忠も義も、誠も信も、情も欲も、一途に定めて遂げよった。鬼をも畏れぬ剛毅のくせに健気なことよ」

 語り聞かせるようでいて、こちらに構っていないのは佇む風情と表情からわかった。

「死なばみな、ついえるだけのことであるのに」

 愚かな。と、言った気がした。声は聞き取れなかった。どこかで物の崩れる音がして、業炎に呑み込まれる風の響きに搔き消された。ただ唇が、そう言って笑みを深めたように見えただけだ。卑屈めいた笑みだった。いや、単に寂しそうに見えた。遠いところで誰かが誰かを呼ぶ声がしていた。兄者と叫んでいるようだった。勝鬨の声であるかもしれなかった。今なお闘う怒号であるやもしれなかった。

「気高い者は美しく、強いけれども、脆いものだな」

 なあ、お前。と、美童は目線をこちらへ寄越した。間があった。返事を待たれているのだと、気づくのに時間を要した。問わず語りではなかったのか。

 そもそもどうして自身はこんな話に付き合っているのかと思う。寺は激しく燃えている。勇ましく飛び込まぬなら、一刻も早く離れねばなるまい。巻き込まれて焼け死ぬことになる。行き遇ったのが森乱法師でないのなら、討ち取る必要は特にない。随分な美童であり、僧形でもあるから、それこそ寺稚児か何かなのだろう。謀反の業火に煽りを食って逃げのびてゆくところだったのだろうと思われる。どうやらの者と懇意であった口ぶりだが、その言が事実ならその者は主に殉じて散ったのだろう。いずれにせよ、炎の勢いに怖じて戦場から遁走しようという自身には結局関係ないことだ。

「時にお前」

 応えずに居たからだろう、相手はそれまでと声色を変えて、話しかける口ぶりで言葉を投げてきた。

「生きか死ぬかならどちらを選ぶ」

 意味がわからなかった。

「この世はかくも生きづらい。生きぬか死ぬか、どちらを選ぶ」

 生きぬとは、死ぬことではないのか。生きるか死ぬかと問われるならまだしも、その問いの答えはどちらを選んでも同じではないのか。

「生きぬ、とは」

「文字通り、生きないことだ。死に続けることとも言えよう」

「そんなのは――」

 厭だ。

 否、死に続けるなど不可能だ。死んだらしまい。それこそ先に美童が自ら言ったことではなかったか。

 我知らず、一歩後退りしていた。急に怖気おぞけが走った。すぐ傍らでは地獄絵図の如く灼炎に寺が燃え盛っており、敷地に飛び込むまでもなく、衣に火の手が移りそうなほど熱を膚に感じているというのに、寒気を覚えた。

 自身が対峙しているのはなんであろうか。

 鬼、という言葉が脳裏に浮かんだ。先刻、美童が口走った言葉の一部だったか。

 死に続ける、とは、もしや屍のことではないか。生きている者の如く、動く屍があるならば、それは死に続けていると言えるのではないか。

 馬鹿馬鹿しい。

 だがもし、真実ほんとうにそんなことがあり得たなら――今、自身の目が捉えているのはそうしたものなのではないか。

 生ける屍。動く骸。それは――。

「鬼……なのか。お前は、もしや、森乱法師の亡霊――」

 ククッ、と美童は愉快気に笑った。否、実に不愉快そうに嗤った。

「斯様なものにアレがなるか。そのくらいなら……」

 むしろ嬉しかったのだがなあ。

 そう呟いたように感じた。もの侘し気に感じられた。恐ろし気に思えた美童が、急に弱々しく哀れな生き物に見えてきた。我ながら混乱した思考である。多分、考えてなどいないのだ。ただ雰囲気に流されている。そんな生き方ばかりだなあと、どこか遠いところで暢気に思った。死にたくないから生きてきた、突き詰めればそれだけのことだったのかもしれない。

「死ぬよりは、生きぬ方を」

 選ぶ、と謂うよりは、まだそちらになら流され得るかもしれない。と、応えようとした気がする。

 言い終わらぬうちに声を失った。同時に視界も奪われていた。

 唇に噛みつかれたのだと気づいたのは、一瞬の鋭い痛みの後の、ずくずくとした疼痛を感じ始めてからだった。

「何の真似だッ」

 と叫んだはずの詰問は、相手の口の中に呑み込まれていた。どろりとしたものに息をも塞がれる。

 目が眩んだ。元より既に視界は昏かった。相手の顔がかぶさっているからだ。行き遇った時はそれほど間近な距離ではなかった。あれを会話と呼べるかは知れないが、話している間も距離は縮まっていなかったはずだった。それだのに、気づけば口を、唇を、噛まれ、逃げ場もなく胴に腕を巻き付けられていたのだった。

 いったい何が起きたのか。有無をも言わせぬとはまさにこのこと。問答無用で――


 ――俺は生きぬ者へと変えられていた。



 いや、問答はあったのか。最後まで言い切らせてもらえなかっただけで。言い切ったところで、どうせ締まりのない言葉でしかなかったのだけれども。

 昔むかしの思い出が、ふと蘇って吟味してみたところ、そんなどうでもよい結論に達した。心底どうでもよい。経緯はどうあれ、現状には満足しているのだから。

 あの夜、もとの歴史は大きく転換しようとしていた。

 もっとも、歴史の転換点などは長い時代の流れの中では幾つも存在していて、そのいずれもが重大で、且つ些細な行き違いにも似たものであろう。そんなことは、それこそどうでもいいことなのだ。彼――岳千穂たけちほにとって重要なのは、あの日、あの夜、あの場所で、出合うべき者に出合えたという一点のみである。

 お陰様で悠久とも呼べる時を岳千穂は手にした。生きものとは即ち死に続ける者と、あの晩、森乱法師と見紛った少年は告げたが、実際は生き続けるに等しかった。終わらぬ命、不滅の肉体。当時の言葉で表せばそれは鬼とか妖怪であろうが、現代では広く一般に知られる語がある。ヴァンパイアだ。

 少年は名を倭彦わひこと云った。ドラキュラ伯爵の物語が伝来するよりずっと以前から、血を糧とする鬼であったらしい。物語と違っているのは、倭彦は日光を苦手としない。言わずもがな、ニンニクも十字架も恐ろしくはないし、銀に触れれば火傷するなどということもない。それらのアイテムは西洋における「聖」の象徴であり、和の吸血鬼には無関係のもののようだ。と言って、お釈迦様の像に怯えるわけでもない。陽光に滅ぼされないのは、単に血統が違っているのだと倭彦は言っていた。ヴァンパイアにはヴァンパイアの種別分類があるらしい。これもまた、岳千穂にとってはさしてどうでもよいことではある。但し、日光はよくとも炎はよくない。人間とて火に触れれば火傷はしようが、ヴァンパイアの場合それで済まない。灰燼に帰すと云う。あの晩、倭彦が寺内から飛び出してきたのは、火の手を逃れてのことであった。尤も、焼死が恐ろしいのはヴァンパイアに限ったことではないだろう。結局、程度の差こそあれ大差はないのやもしれぬ。

 あれからざっと五百年が経とうとしていた。

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