陸・凌駕ー開戦ー
ごうん、ごうん、ごうん――……
何か、大きな
警鐘のようである。
しかし、警鐘にしてはゆったりとして、緊迫感のない拍子である。むしろ、寺院にある釣り鐘が、除夜に百八回、響き渡るのに似ている。だが打ち鳴らされるというよりは、鐘そのものが大きく前へ後ろへ、或いは右へ左へかもしれないが、大きく揺らいで鳴っているような趣を感じる。
延々と、延々と音が響いている。急かすように、警告するように。
であればやはり、それは警鐘なのであろう。緊迫感のない拍子だが、危機を伝える響きがある。
ごうん、ごうん、ごうん、ごうん――……
まるで何やらの開幕を、伝えているようでもあると思った。
(思った?)
そこで急にハッとした。つまりは我に返った。
彼は
唖然とした。呆然としながら、彼は自身を取り巻く
実際、呆けているのやも知れぬ。でなくてどうして、こんな場所に居るのか。見当もつかぬ。見当もつかぬ所へ自ら赴いたのなら、それは呆けていたのだろう。自ら赴いた覚えもないのだから、なおさら呆けているとしか言い様がない。
(なんなのだこれは)
自ら赴いたのでないとしたら、運ばれたということだ。誰に、何故、如何にして。
分からぬことばかりだった。
(夢、か? おれは寝惑っているのか?)
だとすれば、呆けているのも悪くないかもしれぬと考えた。見上げる空は高かった。夜空であった。ぽっかりと穴の空いたような月が浮かんでいる。風にさやぐ穂を銀に染めているのはその
はて、今は
なれば、心行くまで呆けていよう。彼は心地よさに身を委ね、
*
彼は息を切らして走る。走り続ける。もはや心の臓は鼓動を早めすぎて止まっているかのようであったし、口内には鉄錆びた味がして、こめかみの辺りの脈は膨張し、肥大して、はちきれそうに感じられ、また手足はこれ以上なく疲弊しきって丸太か何かのように重く不自由に思われたが、それでも走り続けねばならなかった。
止まったら殺される。
そう信じるが故に。
そしてそれは迷妄などではなく事実であった。迫り来る現実が、彼を逃走に駆り立てている。
そう、すでにしてそれは逃走以外のなにものでもなかった。当初は彼も刃を振るった。自身が逃げを打つのでなく、相手を退かせようと対峙した。けれどもそれは長く保ちはしなかった。歴然と劣勢を意識したとき、彼は逃走に転じた。
負けるわけにはいかない。逃げること自体が負けを認めた行動のようでもあったが、それは完敗ではなかった。少なくとも彼の思考においては。逃げ延びれば、勝ちでなくとも負けにはならない。次の勝機を狙えばいいだけのこと。ある種、彼の思考は非常に前向きであり、であればこそ、逃げ続ける必要があった。
走って走って、死にもの狂いででも逃げ切らねばならない。彼の逃走は後退ではなく、前進である。
速度を緩めぬままちらと背後を見ると、彼を追う影は随分と遠のいていた。彼はほっと安堵の息を吐く。しかし気を抜くには至らない。安易な楽観は命取りである。彼はそれほど愚かではなかった。相応の場数を踏んでいる。でなくてどうして今も生き延びていられようか。望んだことではないといえ、ここは戦場だった。
そう、戦場なのである。
どうしてこんなことになってしまったのか、彼にもわからない。自ら赴いた覚えもなかった。気づけばここに居た、というのが彼の印象である。そんな道理はないわけで、何かしらの理由があってここに赴いたか或いは連れてこられたはずなのであるが、そうした記憶は一切なかった。直前に自身が何をしていたかも明確には覚えていない。家にいたような気もするし、寝ていたような気もすれば、外に出ていた気もするという曖昧なものだった。
いずれにせよ、ここが戦場であることは間違いない。何故なら敵が居るからだ。どうしてそれが敵なのか、そのことすらもよくわからなかったが、相手が襲ってきたからきっとそうである。それも単に強盗や
彼の思考は至って前向き且つ現実的であった。
どのくらい走ったか。遠いところで鐘の音が鳴っている。警鐘のように感じられるのは、自身が今まさに危機に瀕して追われる立場だからだろう。重たげな響き具合といい、鳴る速さといい、火事の際などに打ち鳴らされる警鐘とは似ても似つかない。それよりは寺の
確かめてみたい気はした。あの響きには何か意味がある。警鐘と感じる自身の感覚も、あながち状況によるものだけではないかもしれぬ。いずれ行く当てのない逃走の身なれば、目指す方向を定めるに役立つ。
そう考えてはみたものの、行く
走る。走る。ひたすらに逃走する。
いい加減背後を振り向いても追ってくる影が見えなくなったところで、彼は疾走する足を止めた。具合の良いことに近くに茂みがある。奥は藪のようだ。背高い竹と低い熊笹とが、交互に入り乱れて繁茂している。
彼はそこに身を潜めた。とは言えまだ安心はできない。否、この地において心底安まる瞬間などないのやもしれぬ。何せ敵は先ほど彼を追っていた一団のみではないのだ。
敵は有象無象であった。
文字通りの意味だ。それ以上も以下もない。形あるもの形なきもの。あれをなんと呼べばいいのか彼は知らない。影のような希薄に思える存在もあれば、確固たる質量を感じさす者もあった。
恐らくだが生き物には違いない。意志を持ち、襲いかかってくるのだからそれは
だが彼の知るどの動物ともそれらは一致しない。或いは似通っている場合もあるにはあったが、完全に同一とは言えなかった。犬のような雄牛のような、鷹のような大熊のような、奇怪な獣のこともあれば、何か闇が
あえて一言で表すなら魑魅魍魎である。もっとも、そんな実在も怪しい存在を目にした経験などこれまでないので、果たしてその表現が実際と合致しているかは不明だ。自分は魑魅魍魎を見たことがある、という人にでも会えば確認できるかもしれないが、生憎と彼にそんな奇特な知り合いは居ない。
「見つけた……!」
不意に耳を打った声に、彼はびくりと肩を跳ねさせた。
彼は茂みの影に身を潜め、今し方自身が走ってきたほうを警戒していたのである。しかし声がしたのは背後の竹藪からだった。彼は素早く顔を向ける。
「こっちだ」
どこからか彼の様子を窺っているらしき声の主が、彼の振り返る仕草にそう応じた。目を凝らすと笹葉の重なり合う間から、白い手がのぞいているのがわかる。白く浮かんで見えるそれは、手の平を上に指を二、三度折り曲げる動作をした。手招きである。
彼は今一度、顔を前に戻して追っ手がないのを確かめると、腰を曲げて姿勢を低く保ちつつ急ぎ足で声の方へ向かった。
「良かった、
「到着」
奄月というのが彼の名である。彼は疑問符付きに言葉を繰り返した。さらに重ねて問う。
「何の話だ、
「偶々!」
みなまで言わせず、今度は相手が鸚鵡返しをした。それも素っ頓狂な大声で。取り急ぎ奄月は相手の口を塞いだ。
せっかく敵を振り切ったというのにまた見つかったらどうしてくれるのか。ようやっと息が整ったばかりというところで再び戦ったり逃げ回ったりしたくはない。憤りを込めて相手を睨む。相手は「降参」というように
一瞬彼をひやりとさせた声の主は、彼のよくよく見知った相手であった。
見知っているどころではない。彼の人生において殆ど大半の時を共に過ごしてきた相手である。兄弟のようにして育った間柄だ。もっとも、どちらが兄で弟というわけではない。互いに対等な友人同士である。ただし歳は奄月が上だった。といって半年も違わないのであるが。彼らの
「北の林でと言ってあったのに、聞いていなかったのか」
またぞろ大きな声を出してはくれるなよと、彼が恐る恐る口を塞いでいた手を離すと、吏闇はさも不満げに詰ってきた。これを受けて奄月もまた顔をしかめる。
「それだけで場所が特定できるか。そもそも北も南もわかったものではない。」
憮然とした。
どのくらい前のことであったか、彼らは不意にこの地で目覚めた。否、場所は違っている。二人が目覚めたのはこのような竹林ではなく、
二人は互いに互いの顔を見合わせた。
まず初めに驚いたのは、自身が「目覚めた」ということだった。彼らには最前までの記憶が抜け落ちていた。故に寝た覚えもなかった。今し方目覚めたことで、自身等が寝ていたことを知り、驚いたのだった。辺りはしんと静かな闇に覆われている。
はて、今は夜であったろうかと奄月は首を傾げた。そもそも自身は何をしていたのだろう、そう考え、直前までの一切を覚えていないことに気づいた。彼とほぼ同時に吏闇もまた同じ事実に行き当たったようで、考えるような仕草のまま
二人一緒に居るということは、最前までも一緒に過ごしていたということのように思えた。だからといって何をしていたかはわからない。うんうんと唸って記憶がぽんと蘇るものなら有り難いが、どうもそんな様子はない。考えるだけ無意味そうだと、そこで奄月は思考を切り替えた。
立ち上がり、周囲を見回す。見知らぬ土地であった。
広大な
まったくといって道理がわからなかった。だがそうしたことを互いに言葉にして確かめ合い、この先を検討するより前に、過酷な状況が彼らに襲いかかった。
敵である。あの有象無象の魑魅魍魎とも謂うべき謎の存在が、前触れもなく姿を現したのだ。
当然に彼らは困惑した。だが戸惑う暇も与えず、敵は彼らに襲いかかってきた。そこからは遮二無二である。幸いなことに彼らは戦う術を心得ていたし、武器となる刀もそれぞれの寝ていたそばに落ちていた。それについては幾らか出来すぎの感はあったが迷っている場合ではない。すぐさま二人は刀を取り、襲い来るものどもと戦った。
刃は酷く切れ味がよかった。
それとも奇怪な敵の肉体――およそ肉体と呼んでいいのかも不明であるが恐らくは――が見た目以上に脆弱なのか。スパスパと蝋燭の火を払うかの如く、なんとも軽やかに二人は戦うことが出来た。が、それも初めのうちだけだった。
敵は次々と現れる。まるで際限がない。
遥か地平線の向こうまで敵軍が確認できる、というわけではない。比喩としての
段々と二人の息は上がり、刀を振る腕もずり下がってきた。切れ味は変わらず鋭かったが、仮にそれがどれほどの名刀であれ、使い手が振るわなければ切れるものも切れない。いくら腕に覚えがあると言っても、体力は無尽蔵ではないのだ。
奄月は限界を感じて友に声を投げた。
「逃げよう。これ以上は無理だ」
実際には、まだまだ限界までは遠かった。だが劣勢は歴然、真に限界が差し迫ってからでは手遅れである。いずれ限界が来る、それまでに勝利は掴めない。そう感じた時点が限界、いや、限度なのである。
彼の提案に吏闇は一も二もなく
「二手に分かれよう。俺は右手に、奄月は左手だ。北の林で落ち合おう」
言うなり、吏闇は返事も待たずに駆けだした。
――と、そうした経緯の先の今である。
どうやらこの竹藪が「北の林」であったらしい。運が良かったと彼は思った。
友と一緒であったことも幸運である。まったくわけのわからぬことに、突如として戦場に放り出されるはめにはなったが、一人よりずっと心強い。
「それにしても、よくここを見つけたな」
再会し、合流できたことに少々緊張の糸をほぐし、彼は太く頑強そうな竹の一本の根本に腰を落としながら話しかけた。
咄嗟の状況下で逃げ隠れのできる場所を見いだした友の機転に感心する。多少、言葉足らずであった気もするが。そもそも見ず知らずの土地で方角を言われても困る。
彼がそれを言うと、吏闇は幾分呆れたような顔をした。
「そんなもの、星の形を読めばわかるだろう」
吏闇は彼の隣に尻を落ち着け、白い手を天に向けて指さす。その真っ直ぐに伸びた健やかな腕の
幾重にも細長い葉が折り重なって夜空を塞いでいる。透かし見る空は黒く、確かに目を凝らせば白い星の光がぽつぽつあるにはあるようだが、形を結べるほどの数はない。どちらかと言えば、星もない夜空、と表現するほうが実際に近い。
目を
「奄月は目がよくないからな」
と、吏闇は肩をすくめて揶揄した。
「そっちが良過ぎるのだろ」
多少むっとして言い返しつつも、奄月は一理あるのかもしれないと思う。彼はさほど目が良いほうではなかった。
と言って、けして盲目ではないし弱視でもない。目はしっかりと見えている。せいぜいが小弓を射る際に、的の同心円の中心が捉えづらいくらいだ。しかしあんなのは
重要なのは狙った場所に狙った通り矢を飛ばす技術だ。標的がはっきり見えるかどうかなどさしたる問題ではない。
少なくとも彼にとってはそうだった。
と、常々奄月がそう言うと、友の吏闇はとんでもないと首を左右するのであるが。
吏闇の言うには、例え流鏑馬の
どうやら吏闇は人一倍目が優れているらしい。逆に言えば、奄月の目が劣っているとも考えられる。
殆ど黒く塗りつぶされているようにしか見えない葉ずれ越しの空を見つめ、彼は吏闇の目にはどのような夜空が映っているのだろうかと思った。
同じものを見ているようでも、それぞれの目に見えるものは違っている。まったく同じ視界を共有することは不可能だ。それは視覚に限らず、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、語感のすべてに同様であろう。人は同じ世界に生きながら、それぞれの感じる別な世界を生きている。
薄ら寂しい。
彼は我知らず肩を抱いた。
「少し冷えるな」
吏闇が呟く。何か同じの感覚を得たようで、奄月はふっと笑みを漏らした。
同じ五感を、もっと言うなら同じ感情、同じ心を他人同士は共有できない。であればこそ他者は他者であり自身は自身である。だが共通させることは、恐らく不可能ではない。言葉を尽くし、行動で示し、感情や感覚を伝えあうことで、互いに理解し通じ合うことはできる。それこそが自身と他者とが別個であることの喜びに他ならないのかもしれなかった。別々のものが一つに近づく楽しさ。差違は驚きであっても不快ではない。
「随分汗をかかされたからな。お陰でさっきまでは暑かったが……」
夜風が冷える。
と言いかけて、彼はふと疑問を抱いた。今はいつであろうか。
昼夜という意味ではない。季節である。そんなことすら思い出せないことに身震いが走った。
「おいおい、本当に風邪を引いたとか言わないでくれよ。病人を抱えて戦うなんてごめんだ。その場合は捨て置くからな」
ぶるりとする彼を見やって、吏闇がなんとも薄情なことを言う。奄月は今し方覚えた戦慄を相手には伝えないことにした。
予想以上に事態は深刻且つ恐るべきもののようである。もっとも、予想と言えるほどの予想など彼はしていなかったのであるが。そんな暇などこれまでなかったのである。
とは言え、多少の憶測は不可能ではなかった。例えばなんらかの意図を持つ何者かに不意の襲撃を受け、頭を鈍器で殴られるかして二人は昏倒、その間にこの見知らぬ地に運ばれたとか。それならば、前後の記憶が定まらないのも殴られた衝撃で飛んでしまったと説明できなくもない。だが時節さえも見失ったとなれば話が違ってくる。
ただ、いずれにせよ言うだけ無意味と彼は判じた。わからぬものはわからぬ。答えのない不安要素だけを伝えて友を怖がらせる必要はない。
大事なのはこの危険な戦場を生きて脱出することである。その為には、この奇怪な状況に陥った元凶を知ることは重要と言えるのかもしれなかったが、わからぬことに頭を使っても時間の無駄にしかならない。解けない問題は棚上げである。
彼の思考は浅慮であったが、同時に、素早い決断と実行という戦いに欠かせない武器を彼に与えるものでもあった。一長一短であろう。
彼はひとまずこの後の行動について吏闇と話し合うことにした。
戦場を抜けるにしても何処へ向かったものやらわからない。あてどなくさまよって行き倒れになるくらいなら、この場を脱することは一旦諦め、生き抜く術を模索せねばならない。
「どこかに建物でもあればいいんだけどな」
吏闇は立てた片膝に肘をつき、頬杖をしながら言う。風雨を凌げ、安全に眠れる場所は、確かに欲しいところである。しかしそれを口に出すと言うことは、つまりこの林に至るまでの
「せめて水場か。飲み水も必要だし、汗も流したい」
彼が言うのに、
「まずはそれだな」
と吏闇も同意した。
草原や竹藪があるからは、どこかに水源もあるはずである。まさか雨だけで大地が潤い草木が芽吹いているわけではないだろう。
方針が決まったところで、奄月にはもう一つ気がかりがあった。
「俺たちの他に誰かは居ないのかな」
まったく彼の思うのと同じ内容を吏闇が口にする。
それだった。
ここまで、彼らはあの謎めいた怪物の群以外、およそ生き物と呼べるものに出会っていない。さして長い時間ではなかったから偶々出会わなかっただけか、それとも或いは――
その想像は薄ら寒いどころではなかった。二人は互いに顔を見合わせて、奇妙に口元を歪める。まさかな、そんな苦笑であった。自分たち以外に人間が存在しないなどあり得ない。だが人里離れた地であるのは確かなようだ。
「水場に行けば近くに小屋でもあるかもしれない」
それは酷く都合のいい希望的観測ではあったが、可能性がないでもなかった。ともかくいつまでも休んでいたのではどうにもならない。
二人は熊笹の茂みから腰をあげ、肩を並べて奥へと進んでみることにした。最悪の場合でも、竹を切れば多少なりの水分は得られよう。林立する竹はどれも太く高く旺盛である。青青として、耳を澄ませばその内側を流れる水音さえも聞こえそうだった。初めに居た草原に比べれば鬱蒼とはしているものの、随分ましな光景である。あの荒涼とした地にはもう行きたくないものだと、ふと奄月は思った。
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