第3話 少女は上に居る


 しばらく経ち、すっかりあの日の恐怖が薄れた、部活帰りの夜。


 ドラマが中盤を迎えて盛り上がりを見せていたため、今日もそれを楽しみに落ち葉だらけの地面を踏み、木々をくぐり抜ける。

 もうこの近道を通るのも慣れ、多少ゆっくり歩いても目的の電車に間に合うほどになっていた。


 俯く男を見る事も時々あったが、それがミユの叔父だと分かってからは「神社の管理とかで疲れてるんだなぁ」とむしろ同情を抱くくらいだった。


「お金もそんなに貰えなさそうだしね」


 失礼な事を呟きながら、今日も神社の社の前に行くと、案の定男が無言で佇んでいた。


 もはや見慣れた光景。

 だが、今日は気分が良くて、声をかけてみようという気になり、


「あの、ミユの親戚の方、ですよね?」


 近づいて気さくに喋りかけた。


「………………」


 返ってきたのは、無言。

 声は聞こえていないはずが無い。周りがこの静けさで、この距離だ。


 …もしかしたら何らかの理由で耳が遠いのかも知れない。

 思って、もう一度声をかけた。


「あのっ」


 声を大きく上げた、瞬間。


 男の肩が震えていた。


「えっ…?」



 ――笑っていた。



 目を見開いて声も無く。歯茎を見せて、狂喜の表情で笑っていた。


 背筋がぞわりと、総毛立った。


 数歩、優奈は後ずさる。

 そのまま男から離れ、鳥居の横を駆け抜けた。


「え、えー、ど、どうしちゃったの、あの人…」


 恐怖を誤魔化すように独りごちる。

 そして、階段の前まで差し掛かった所で、


「わ!」


 スマホが鳴った。


 画面にはミユからの着信の表示。

 優奈は安堵の息を吐いて通話ボタンをタップした。


「もしも…」

『優奈!』


 耳朶に響いたのは、焦燥の声。

 背後に気を配りつつ、友人の尋常じゃない様子に眉を顰めた。


「…どうしたの、そんなに慌てて」

『今どこ?家?』

「ううん。帰ってる途中」

『どのあたり?』

「え…と、例の近道の途中」


 息を呑むような音が聞こえた。


『引き返して。今すぐ!』

「引き返してって、なんで?」

『いいから早く!』


 あまりに必死な声は、どうやら冗談やおふざけではないことを示していた。


「……本当に、どうしたの?」

『今、従姉妹…、霊感が凄い強い子が家に来てて……、優奈がそこで幽霊見たって言うから、一応、れいし…?みたいなのやってもらって、そ、したら、やば……が…る…しくて』

「…え?」


 電話口の声にノイズが走り、途中から言葉が聞き取れなかった。


『と…かく、…しせ…合わせ………め』


 ブツン。

 と、通話が切れた。


「あれ、ミユ?ミユっ?」


 呼ぶが、返事はない。

 スマホの画面を見ると真っ暗で、電源ボタンをいくら押しても再び電源が入る事はなかった。


「…………………………」


 立ち止まる。

 恐怖がじわじわと身体を這い上がった。


 何かが起きている。


 だが、一体何が起きているのか、分からない。見当もつかない。


 ただ、その渦中の中心に自分がいるのだというのは理解できて…



「――――――っ」


 襲ってきたのは、言い知れぬ恐怖。

 初めてここを通ったときに感じたものと同一のもの。

 しかしあの時とは比べ物にならないほど、はっきりとそれを感じられた。


 視線。


 そう、これは視線だ。

 何かに見られている。

 どこからかは分からない。


 じっ、と。絡みつくような視線が、その感覚が、恐怖を伴って身体を侵していた。


 背後を見る。

 呑まれるような闇が広がっているだけで、何もない。


 在るのは、凍てつくような静寂。

 時が止まってしまったのかと錯覚してしまうくらいの無音。



 ―――――――ざっ。



 …その中で、音が聞こえた。


 普通なら聞き逃してしまう微かな音。



 ――――――――ざっ。



 しかしこの無音の中でそれはやけに大きく、はっきりと聞こえて――


 ――――――――ざっ。ざっ。


 近づいてくる、土を踏むような、音。


 ――――――――ざっ。



 同時、視界の端に揺らめく影。


 俯いた姿勢のまま、ゆっくりと顔を横へ動かす。




 女がいた。




 白い着物を着た、髪の長い素足の女。


 その女が、数メートル先で


「…………………!」


 息が止まりそうになった。



 草木が生い茂る地面をゆっくりと踏みながら、しかし真っ直ぐに、確実に、こちらへ向かって後退して来る女。



 ―――――――――ざっ。ざっ。


 一歩、一歩と、また近づき…、


「ひっ―――――!」



 合うはずのない視線が、合った。



 走った。ただひたすらに、肩にかけたバッグも捨てて、恐怖に駆られるまま。

 道なき道を駆け、腕や顔に出来る擦り傷にも気づかず、土を撒き散らしながら必死に逃げた。


「はっ…!はっ…!」


 肺から空気が消えていく。どれほど走ったのか分からない。

 1分か、10分か。

 足場の悪い地面を走っていたせいか、すぐに限界が来て、倒れ込むように地面に伏した。


「…か…っ、は」


 荒い呼吸を繰り返しながらも膝をついて背後を見る。

 女はいなかった。

 辺りを見渡す。

 目の前にあったのは鳥居。どうやら遠回りをしながら神社まで戻ってきたらしい。

 息を整えてゆっくりと立ち上がる。社を見るが、さっきの男もいなかった。

 耳を澄ましても誰かの歩く音は聞こえてこない。助かった…のだろうか。


「じ、神社って、元々神聖な場所だし、ああいう幽霊とかは近づけないのかな…」


 不安を感じたが、そう納得して社へと歩いていく。


 と、


 優奈が突然、弾かれたように顔を上げた。



 ――――そうだ。



 優奈の身体を、何かが侵蝕した。



 ――――準備をしないと。



 身体が軽くなる。



 ――――何か、何か…



 だが、思考は霧がかかったように不透明で、重い。



 ――――ああ、あれなら。



 優奈は鳥居を見上げて、笑んだ。

 目に写っているのは、鳥居にかけられたしめ縄。


「準備なんて必要ないよね」


 振り返る。


 着物の女の後ろ姿。


 見えないソレの顔が、笑ったように見えた。



 ###



 それから、夜が明けて。


 丁度日が昇って白み始めた神社に、一人の少女がやってきた。

 彼女は優奈に榊原と名乗り、自身を霊能者でありミユの従姉妹だと言った。

 そう言えば昨日の電話でミユが従姉妹がどうとか言っていたかも知れない。

 ぼんやりと思っていると、


「優奈さんは昨日、アレと目を合わせてしまったんですよね」


 榊原は静かに言った。


「それがいけなかった。完全に標的にされてしまったんでしょう。アレは目が合ったものをあちらへと引き摺りこむ。そういう性質のものみたいですから」

「………………………」

「ミユの叔父さんは多分、代わりを探していました。経緯は分かりませんが、アレに好かれた彼はどうにかして自分以外にアレの興味が移ってくれるのを願ったのだと思います。そして、何か考えがあったのか、この神社を通る近道をミユちゃんに教えた」


 感情を覗かせない氷のような表情で彼女は語る。


「どうやってあなたに標的を移させたのか、方法やその他の細かい疑問も推測できますが、そんなものは些末な事です。結果として叔父さんは成功し、あなたに累が及んだ。それが一番重要なのですから」

「……………」

「……だから、ごめんなさい。私はあなたを助けられませんでした」


 榊原は頭を下げ、


「あなたのために泣いてくれる友人ひとがいる事が、唯一救いです。せめて、安らかに眠ってください」


 哀しげに呟いて、踵を返して行ってしまった。

 泣く?眠る?

 確かに、さっきから頭に靄がかかってしまったようだった。

 このまま意識を手放せば、気持ちよく眠れる気がする。


 ――――地面が、遠いなぁ


 風が吹いた。


 ――ぎ、


 ――ぎ、


 と、何かが軋む音を残して、世界は閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

俯く男 まぁち @ttlb

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ