終章
終章
「本当に、ご協力いただきまして、ありがとうございます。加藤百合さんも喜ぶと思います。」
裁判所に向かうタクシーの中で、小久保さんは、朋子に言った。
「いえ、大丈夫です。私、頑張って証言しますから。でも、正直言うと、不安という気持ちもないわけでもありません。」
「大丈夫ですよ。怖い思いをするようなことが在れば、僕が辞めさせます。」
一寸怖がっている朋子に、小久保さんは、そういったのであるが、朋子はまだ、びくびくしているような様子だ。
「法廷は、怖いところではありません。僕たちは、加藤百合さんの味方になってあげることが、何よりも大事なのですから。このままですと、百合さんが悪いということになってしまいますからね。」
小久保さんは、書類を整理しながら、にこやかに朋子を見た。
「それに、裁判員も一般の方ですから、専門用語を連発するわけではありませんので。」
二人が、裁判所につくと、何人かのひとが待っていた。傍聴券を求めている人たちである。報道関係者ばかりではなく、学校の先生と思われる、風貌をした人たちもいる。
「それでは行きましょうか。」
二人は、裁判所の中へ入った。
確かに法廷というのは、日常生活では接しない、特殊な所である。ちょっと、日常生活とはかけ離れたにおいが漂っていて、ピーンとした空気が張り詰めていた。五人くらいの人たちが、傍聴席に座っていた。被告人である加藤百合さんは、中央の席に座っていた。やがて、法服を身に着けた、裁判官が入ってきて、裁判が開始された。
まず初めに、検察官が、彼女、つまり加藤百合さんに対し、大橋優香という女性指導員の指導は行き過ぎてはおらず、何も悪気はないと主張した。加藤裕美という少年は、とにかく、素行が悪く、人を簡単に信用しようとはしなかった。小村自然学校に行っても、農作業も碌にしなかったから、体で覚えさせるしかない。そういう理由でたたいたのだと、検察官は言う。そして、このような、素行の悪い
少年には、体罰をしなければ、一般常識を教えられないといい、多少怪我をしても、当然の事だ。其れが、多少ひどくても、加藤裕美を矯正するには必要なことだと、主張する。大体の裁判員たちも、それで当たり前だというような顔をしていた。其れゆえに、母親である加藤百合さんが、有能な指導員である、大橋優香を殺害したのは、大変身勝手でいけない犯行だと、そういう風にもっていきたいようであった。誰も、加藤裕美さんや、加藤百合さんを、援護しようという人はいなかった。
「それでは、弁護人、意見を述べてください。」
裁判長に言われて、小久保さんは立ち上がった。
「はい、前回と同じように、加藤裕美さんは、小村自然学校の執拗な虐待に寄って、亡くなったと考えられます。それにより、加藤百合さんは、大橋優香さんを殺害に至ったと考えられますので、寛大な処分を求めます。今日は、加藤さんは、所属していた、小村自然学校を利用していた女性の方に、来ていただきました。」
そういって小久保さんは、朋子を証言台に立たせた。
「えーと、小村自然学校に通われていた、福山朋子さんです。加藤ひとみさんと同時期に、在籍していました。それでは、福山さんに伺います。自然学校をひとことで言うと、どんなところだったんでしょうか?」
「はい。」
小久保さんにそういわれて、朋子は一つ息を吸った。
「あそこは、あそこは、一言で言えば、地獄の館です。」
傍聴席のひとも、裁判員の人も、一瞬だけだけど動揺しているのが見えた。
「それでは、どのように地獄の館というのか、お話してもらえませんでしょうか。いきなりこういうことを聞いても、答えに困るでしょうから、一つづつ、段階的にお聞きします。それではまず初めに、小村自然学校では、農作業が行われていたそうですが、其れは、どんなものだったのでしょうか?」
と、小久保さんが聞くと、
「はい、朝八時から、日没までありました。お昼の休憩はありましたけど、暑い日も寒い日も、同じ時間でした。其れは、耐える力を身に着けるためで、暑いとか、寒いとか、そういうことを口にすると、すぐ物差しでたたかれました。」
朋子は、小さな声で言った。
「わかりました。では、食事に付いて伺います。毎日食べる食事は、何を食べていましたか?」
「畑でとった野菜と、先生方が提供してくださる、肉を食べました。お菓子は絶対に食べてはいけなくて、食事を作る調味料も、塩コショウだけで、それ以外の調味料を使いたいと言えば、直ちに物差しでたたかれました。」
小久保さんは、三度目の質問をした。
「では、次の質問です。服装は、何を着ていましたか?また、居住スペースについて、思い出せることはありますか?」
「ええ。」
と、彼女は、小さい声で言った。
「服装は、ジャージが二枚だけで、それを手洗いで洗って、乾いていなくても、着用しなければなりませんでした。十人くらい部屋に収容されて、布団も、ボロボロの体育用のマットレスのようなものでした。トイレも、洋式ではない汲み取り式で、中には食中毒を起こした子さえいました。」
「ちょっと待って!それが何だっていうんですか。だって、問題があるというか、悪いことをした若い子を、立ち直らせようという施設ですよね。立ったら、そうしてもよいんじゃありません?だって、悪いことをしたんですから。其れを鍛えなおすんじゃ、そのくらい劣悪な環境でも、いいと思うんですけどね。」
裁判員席で、ヒステリックに叫んだ女性がいた。彼女の着ているものは確かに立派だから、そういう関係の、非行少年とかには全く縁のない環境の女性なのだろう。
「ええ、このことが、なにになるのかは、私たちは知らなくても結構です。でも、加藤裕美さんは、すでに亡くなっていて、二度と帰ってこない。其れを、今回の事件では、もう一度考えてもらいたいんですけどね。」
と、小久保さんが、そういうと、
「結構ですよ。第一、悪いことをした人間なんて、どうせそれからもろくなことをしないでしょう。どうせ、親のすねかじって生きていくしかできない人たちでしょう。そんな人たちを、収容して、鍛えなおしてくれる施設であれば、喜んで事業を続けてもらいたいものですな。虐待というよりも、ありがたくそのくらいしてくれるんだと思わせないと、そういう子たちは更生なんてしないんじゃありませんか。」
又別の裁判員の男性が、そういうことを言った。
「そうだそうだ。さっきのひとが言うことが正しい。第一我々の平和な生活を乱すような、悪い子たちは、どこかの施設に閉じ込めて、矯正してもらうのが、一番いいんだ。そういうひとたちと関わらないことこそ、私たちの一番の幸せなんですよ。」
裁判員たちは、そういうことを言っている。やっぱり、問題のある人は、いてはいけないという雰囲気が、裁判所の中を支配していた。裁判官が、静粛にと言っても、彼らは、そういうことを、しなければ立ち直れないと言い合うばかりで、検察官の勝ち誇った顔が、まさしく問題のある人は、いなくなってしまえと言っているようであった。
「ちょっと待ってください。それでは、彼女のいうことも、無駄ということになりますよね?」
ふいに傍聴席から、一人の男性が、声をあげた。彼は、スーツ姿ではあるけれど、そのスーツはサイズが合っていないらしく、だぶだぶになっていて、袖が、手の甲まで隠している。裁判員たちはいっせいに彼をにらみつけたが、彼は話しをつづけた。
「私は、現在、道路工事の仕事をしております。中学生のころ、ある詐欺集団に加担したことで、逮捕されました。」
彼がそういうと、裁判員たちは、馬鹿にするように彼を見た。
「私は、学校の授業で、わからないことが在って、それを先生に質問しましたが、先生は、それにこたえてくださいませんでした。家のひとに、聞いても教えてくれませんでした。それで、大人は、信用できるのだろうかと、疑問を持つようになったのです。そんな私を、学校の先生は、悪人のレッテルを貼りました。そして、私を学校へ戻すのではなく、学校からはじき出して、そのままにしました。そんなことが在ったから、私は、非行グループのほうが、まだ、信用できると思うようになって、それで、詐欺グループに加担したんです。運よく私は逮捕され、親せきの家に引き取られて、そこで愛情深く接してもらえましたので、特殊な学校でしたけど、高校にも行かせてもらえて、何とか、この仕事に就くことができるようになりました。その時に私が得た教訓と言いますか、なんといいますか、学校の先生に教えてほしかったことは、単に授業でわからないことを聞いただけではありません。私が、ここにいてもいいという安心感だったのではないかと今では思っています。」
なるほど、そういうひとがいてくれて本当によかったと小久保さんは思った。朋子は、ほかにそういってくれる人がいてくれたという喜びからか、涙を流して泣いている。
「そうだったんだと思います。私たちが、私たちのままでいられるという安心感を得られることが、非行や引きこもりをつくらない方法ではないでしょうか。先ほどの、スパルタ式の教育をしたとしても、それが得られない限り、矯正ということは難しいでしょう。すみません、私は、学歴も何もないですけど、一寸百合さんの話を聞きたくて、こちらに参りました。どうか、そのことを、もう一度、考え直してあげて欲しいと思います。裁判を乱してしまい、失礼いたしました。ただ、どうしてもお話したいと思いましたので。申し訳ありません。」
と、その男性は、静かに傍聴席に座った。弁護人席に座っていた小久保さんは、良かった、こう言ってくれる人がまだいるのかとふっとため息をついた。裁判長も、寛大な人だったのか、彼について何か詰問することもなかった。でも、こういうひとがいてくれて、本当によかったのは、そのあとで裁判員たちが、ヒステリックな発言をせず、小久保さんの話を聞いてくれたことである。
予定時間を少しオーバーして、その日の裁判は終了した。一寸、例の男性の話が入ってしまったので、少し長引いてしまったようだ。小久保さんは、朋子を連れて、法廷を出た。
「良かったですねえ。あの男性が発言してくれなかったら、間違いなくこちらは不自由になるところでした。朋子さんも、良く証言してくれましたね。本当にありがとうございます。こちらでは処分を決めることはできませんが、ああいう発言があれば、裁判員たちも動揺したでしょうからね。あなたも、よくやってくれましたな。」
帰りのタクシーに乗りながら、小久保さんは、朋子に言った。
「いえ、ありがとうございます。でも、改めて、私たちが生きていくつらさというか、そういうものを見たような気がします。」
と朋子は、一寸緊張していたのか、大きなため息をついて言った。
「そうですね。まあでも大概のひとは、大きな苦難にぶつかることも少ない時代ですから、そう思ってしまうこともいたしかありません。でも、いずれにしても、落ちこぼれをつくってしまうことはこれからもあるでしょうから、しっかりと彼らを支えてあげられるような、強さがこちらにあればいいですね。」
と、小久保さんはそういっている。
「小久保先生。私が、あの加藤百合さん、あの、加藤裕美さんのお母さんですけど、何かしてあげられることはないでしょうか。」
と、彼女は、ふいにそういうことを言った。
「そうですね、直接お会いして、何かしてやるということは、一寸難しいと思いますけど、それ以外のやり方で、励ましてやれることできるんじゃないかなと思います。」
小久保さんは、静かに言う。
「どうしたらいいのでしょう。私は、なにも、学歴もないし、称号もないですけど。」
「そうですね。学歴がなくても、文字に書いて、何か伝えることはできるでしょう。其れは、誰でも
できますよね。」
「そうかあ、、、。」
と彼女は何か思いついたようだった。
「本を出すということはそういうことでもありますよ。不特定多数のまだ見ない人に、そうやって、合わなくても、伝えられます。」
「そうですね。」
と、朋子は、小さいけれど、でも何か決断したような顔をして、そういうことを言った。
「あたし、学歴も何もないけど、経験というものは得たと思いますから、それを何かにまとめて見ようと思います。それで私は、生きがいができるというのなら、やってみようかと思います。」
数日後。小久保さんは、またエラさんの動物病院を訪れた。
「あら、小久保先生。こんにちは。又、何か事件がおありですか?」
エラさんは、ちょうど、患者である子犬を抱っこして、飼い主さんに渡しながら、そういうことを言った。
「いえ、今回は事件ではありません。事件というか、結果報告ですね。あの、加藤百合さんの裁判が無事に終了しましたので、結果を報告しにまいりました。あなた方も、彼女の処分がどうなったか、気になるところだと思いましたからね。」
と、小久保さんは、にこやかな顔をして、エラさんに言った。
「あら、そうですか。加藤百合さんどうなりました?もう、裁判が終了したというのなら。」
と、エラさんが聞くと、
「ええ、ある程度、虐待があったということが認められて、彼女は一応懲役三年ということになりましたが、おかげさまで執行猶予が付きました。」
と、小久保さんはにこやかに笑って、結果報告をした。
「それではよかったじゃない。百合さんの主張が少しは認められたのね。」
「ええ、後で、裁判長に話を聞きましたが、裁判員の中には、あなたの話を聞いて、あの小村自然学校はひどいことが平気で行われているんだと聞かされて、本当にかわいそうだと思った人も、少なくなかったそうです。」
と、小久保さんは一つため息をついた。
「ですから、何をしたって、無駄になることはありません。真剣に生きていれば、いつか必ず、こうやって成果になるもんですよ。よかったですね、朋子さん。」
小久保さんに言われて、朋子は、はい、わかりました、とだけ言った。
「まあ、そうじゃなくて、ちゃんと誓いの言葉を立ててもらいたいものだわ。もう公園の池に飛び込もうなんて、そんなことはしないで頂戴ね。そんな、命を無駄にするようなことは、二度とやらないでよ。」
エラさんは朋子の肩をポンとたたいた。朋子は、
「はい、けっしていたしません。」
ときっぱりといった。エラさんは思わず拍手をした。そうやってすぐに祝いのしぐさが出てしまうのが、エラさんならではの特技だと思う。
「でも、よくあの裁判で、朋子さんが、発言できたものだわね。あの裁判、結構教育関係の人も、多かったそうじゃない。そんな人達って、朋子さんのような人に、偏見のある人多いから。よく彼女の
発言を邪魔しなかったなと思ったわ。」
「それはきっとね、誰かの心に、そういう人、つまり朋子さんのような人を許してやろうという、気持ちがあったからではないでしょうか。」
と、小久保さんはそういう事を言った。
「そうね。口には出さないけど、そういう気持ちは、みんな持っているのかも。あたしも、そういうことは信じるわよ。だってもしもよ、不良少年がみんないらないという主張が正しいことであれば、こんなにたくさんの動物たちが、ここへ運ばれてくるはずないでしょうが。」
エラさんは、檻の中で入院している動物たちを見た。犬や猫、小さな鳥、あるいはネズミのような小動物まで、色んな種類の動物たちが、怪我や病気などでここにきている。
「きっと、動物たちをそういう風に見ることができる日本人であれば、絶対、どこかで間違えた
誰かを許してあげようという気持ちにだってなれるわよ。」
「そうですね。願わくは、道を踏み外した人間を扱っている弁護士として、そういう心を忘れないでいてほしいものです。」
エラさんと小久保さんは、顔を見合わせて言い合っている。
「そういうことろも書いて行けたらいいなと、私思っているんです。こんな素敵な人たちがいてくれて、私のために何かしてくれたことを忘れないこと、しっかり描いていきたい。」
と、小さな声で、朋子が言った。エラさんも小久保さんも、どうかその気持ちを忘れないでくれと、いう顔つきで彼女を見た。
「原稿は、まだほんの数枚しかかけてないですけど、いつかは、本として完成させたいです。私が、躓いたこと、公園の池に飛び込もうとしたこと。そして、素敵な先輩たちに出合ったこと。それをしっかり描いて忘れないようにしたい。」
「そうですか。本が完成する時は、きっとあなたは、ものすごく成長した人になってますよ。其れは、僕たちが保証します。」
と、小久保さんは、彼女を励ました。いつの間にか、彼女の瞳が、以前より明るくなっているように見える。以前公園の池に飛び込もうとしたときの、寂しさに満ちた、可愛そうな雰囲気を与えるという瞳ではない。其れよりもうれしくて、生きる喜びに満ちたという感じの瞳なのだ。そうなってくれて、本当によかったとエラさんは思った。これからも、彼女には、いろんな苦難が待ち受けているのかもしれないが、彼女には、この体験を忘れずに、一生懸命生きていてほしいとエラさんは、思うのだった。
「さあ、動物病院の仕事が終わったら、原稿書かなくちゃ。原稿用紙足りなくなったから、買いに行かなきゃ。」
と、朋子は、そういって、仕事の片づけを始めた。本当に生き生きとして、そういう楽しそうな顔をしているのを、みんな、うれしいと思った。
これで季節も安定した季節になる。其れが続いてくれれば、彼女の精神も安定してくれるだろう。そんな日が一日でも長く続くよう、、、。エラさんは、天に祈る気持ちだった。
寂しい瞳 増田朋美 @masubuchi4996
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