第二章

第二章

朋子が、いつも通りに、エラさんの動物病院で、処方箋などを書いた書類を製作していると、又小久保さんがやってきた。

「今日も、お話してもらえないでしょうか?」

と、小久保さんは、懇願するように言う。

「そうしてもらわないと、加藤百合さんがより、不利になってしまうのですがね。」

「そうですが、、、。」

朋子は、下を向いて口をつぐんだ。

ちょうどその時、診察室のドアが開いた。確か、飼いネコの診察をしにおばさんが来ていたっけ。

「はい、大分いい傾向だから、これからも、餌の量には気を付けて、無理をさせないで生活させてね。」

「はい、わかりました。」

猫の飼い主の女性に、そんなことを言いながら、エラさんは、にこやかに、診察室を出てきた。そこへ、又小久保さんがいるのを見て、

「言ったはずですよ。朋子さんが、体調がよくなるまで、こちらへは来ないでいただきたいと、お願いしたんですが?」

と、一寸きつく言った。

「でも、しょうがないじゃないですか。できる限り、証言が取れないと、加藤百合さんの裁判は、百合さんの主張が一切認められないんですよ。やっぱり、こういう問題がある人は、日本の司法では、軽蔑されてしまうのでしょうか。どうしても、施設側のほうに皆さん肩を持ちたくなるようで。」

小久保さんは、困った顔で、朋子を見た。

「できれば、百合さんと裕美さんの日常生活についてなど、証人として、証言してもらいたいものですが、其れは、無理でしょうかねえ?」

「そんな刺激の強すぎること、彼女にはできません。」

エラさんは、強く言った。

「それでは、こちら側の主張を裏付けてくださる方は、誰もいないということになりますな。そうなると、百合さんの刑が、かなり悪いものになってしまう。」

「どういうことですか?」

と、エラさんではなく、朋子が、小久保さんに聞いた。

「ええ、現在、小村自然学校の寮生活について、調査をしています。小村自然学校では、生徒の矯正とか、治療と言いながら、生徒を、日の出から日没まで働かせるなど、強制労働させていたという、虐待をしていたと私たちは主張しています。それで、加藤君は、そのような虐待に耐え切れず、過労死したと。ですが、被告人の主張、加藤君を含め、ここに来る子どもたちは多かれ少なかれ、甘やかされて育ってきたから、多少厳しくしなければだめだと思ったという主張に共感する裁判官などが多いようでして。」

小久保さんがそういうと、

「まあ、日本というのは、道を外した子については、非常に冷たいですからね。それにまつわる、支援機関も何もないというのが、特徴なのかな。」

と、エラさんは、ため息をついた。

「それで、小村自然学校のしていることは、正しいこととされて、虐待だということには当たらないわけね。ドイツでは、そういうことしたら、間違いなく虐待が適用されるんだけどね。」

「はい、だからこそ、そうしなければならないわけですよ。本来、支援施設は、恐怖を与える場所ではないでしょう。それが、恐ろしい体験に代わってしまうのなら、支援施設とは言いません。刑務所ではないのですから。」

「そうですね。でも、彼女から証言をとるのは、もうちょっと後にしてください。彼女は、公園の池に飛び込もうとしたほど、状態が悪かったんです。そんな彼女に、その恐怖体験を語らせるのは、酷というものです。」

エラさんがきっぱりそういうと、小久保さんは、はいはいわかりましたよと言って、動物病院を後にした。

「そうですか。でも困りますねえ。ここを利用している人たちも、多かれ少なかれ、支援施設の怖さというのは、話したくはないんじゃないでしょうか。そういうことを話すのは、やっぱり難しいと

思いますよ。」

製鉄所にやってきた小久保さんに、ジョチさんは、みんなの気持ちを代弁するように言った。

「そうなんですが。」

と、小久保さんも困った顔をして言う。

「このままだと、加藤百合さんは、検察側の主張が通ってしまって、不利な刑を受けなければならなくなってしまいますし、支援施設の不祥事というものも明るみに出されないまま、ただ、加藤百合さんだけが、悪かったということになってしまうでしょう。僕はね、そうじゃないと思うんですよ。それでは、一番の被害者であった、加藤裕美さんも悪い人のレッテルを貼られたままになってしまいますし、何よりも、彼を育てた、加藤百合さんもかわいそうだと思うんですね。彼女たちは、何も悪いことはしていない。ただ、その、小村自然学校とか、小村塾とか呼ばれている、支援施設に通って、大事なものを落としてしまったんだと思うんです。其れを、もう少し裁判で強調すれば、加藤百合さんの刑も軽いもので済むだろうし、何よりも、彼女を取り巻く人達も、気持ちが軽くなると思うんですよね。」

「そうですか。そのお気持ちはよくわかりますが、利用している人たちも、学校とか、社会とか、支援施設とか、そういうところで、傷ついて、一度その場を離れなければならなかったという人たちです。彼女たちに、そのことを、話させるのは難しいのではないでしょうか。できるだけ、傷ついた部分に触れないで置いた方が良いのではないかと思うのですよ。だから、彼女たちのことは、そっとしておいていただけないでしょうか。」

ジョチさんは、お願いするように言った。

「大丈夫ですよ。理事長さん。あたしは、ちっとやそっとの事では驚きません。あたしは、その事件の被害者である、加藤君と面識があったわけではないけれど、似たようなことは、経験していますから。」

ふいに、開けっ放しにしていた応接室のドアの向こうに、若い女性の利用者が立っていた。

「でも、大丈夫なんですか。あなたが、傷ついたこととか、そういうことを思い出して、苦しくなるかもしれないんですよ。」

ジョチさんは、心配してそういうことを言ったのであるが、

「いいえ、大丈夫です。誰か、そばにいてくれる人がいれば、あたしはこう見えてもちゃんと話せます。弁護士さんだって、何かお話がないと、加藤君のお母さんの弁護はできませんよね。」

と、彼女は、にこやかに笑って言うのだった。其れを、発言するのに、一寸顔が引きつっているので、ジョチさんは心配であったが、彼女の勇気に感謝すべきなのではと思った。

「そうですか。ぜひ、お願いします。まず初めに、あなたが、支援施設を利用するようになった理由を教えていただけますでしょうか。」

と、小久保さんが手帳を取り出した。ジョチさんは、ここに座ってと、彼女を、応接室の椅子に座らせる。

「はじめはそう、何ということでなかったんです。ただ、勉強ができなくて、それでちょっと落ち込んでしまっただけの事なんですよ。それで、父と母がすぐに何とかしなきゃと思ったみたいで、精神科に私を連れて行きました。それで、薬をもらったんですけど、何かあわなかったみたいで、なんだか急に周りのひとに暴力を振るうようになっちゃったんです。それをやってから、私、急に自信を無くしちゃって、だんだん引きこもるようになっちゃって。それではいけないと思ったから、この施設に通うようになりました。」

と、彼女は静かに話し始めた。

「そうですか、わかりました。で、この施設に毎日通うようになって、何か成果というか、ご感想はありましたか?」

と、小久保さんが聞くと、

「成果というものは多分ないと思います。私が、こういうことになって、いまだに精神科には通わないといけないし、家の人たちとは、たびたび衝突することもあるんですけど。でも、ここに通ってきて、変わったことは、一つだけあります。其れは、同じことをやっている仲間と、こうして話ができるようになったということです。」

と、彼女は答えた。

「それでは、同じ経験をしている仲間と出会えたということだけではなく、製鉄所のスタッフさんとか、そういうひととの間での、何かエピソードを聞かせてください。」

と、小久保さんが聞く。

「たとえば、スタッフさんと話をして何か、変わったことがあったとか、こういうことをしてくれてうれしかったとか。そういうことを聞かせてほしいんです。今回の事件は、そのスタッフであった、大橋優香という女性が、被害にあっていて、加害者が、その利用者のお母さんだったという構図が、争点になるわけですよ。そして、検察側も、矯正者である大橋優香のほうに有利に進めてしまっているので、そこを何とかしたいと思って、加害者である加藤百合さんの弁護を引き受けたんですけどね。」

「はい、そうですね。私は、今はふせてしまっているけど、水穂さんに話を聞いてもらったり、ここへお弁当を持ってきてくれる会社のひとに聞いてもらったりしました。すごく、優しい人たちで、人間は、こんなに優しい人もいるのかと、感動しました。」

小久保さんの話に、利用者はそういうことを言った。小久保さんは、しっかりと、その話を手帳にメモをする。

「わかりました。そのあたり、裁判で話してもよろしいでしょうか。あなたの名前は話しませんし、別の支援施設の話しということにはしておきますから。」

小久保さんがそういうと、女性ははい、わかりましたと言った。

「よかった。参考になるお話が、一つだけでも聞けただけでもうれしいことです。たとえ一つの証言でも、こちらに有利になることが在ればうれしいことです。出来れば、ほかの方の話しもききたいところですが、、、其れは無理だと理事長さんから、伺いましたので。」

「ちょっと、誰か手伝ってくれる?水穂さんまた咳が。」

いきなり廊下から大きな声がしたので、利用者は、もう行ってもいいですかといった。小久保さんがはいどうぞというと、利用者は、水穂さんのいる四畳半へすっ飛んでいった。

「はああ、水穂さんとおっしゃる方は、まだ具合がよくないのですか。」

と、小久保さんがいうと

「ええ、この頃は寒暖の差が激しいからでしょうか。あまり良いとはいいがたい状態です。でも、そのことによって、先ほどの彼女みたいに、役割が得られるという意味では、助かるんですけどね。最も、彼自身も、もう少しそう役に立っていることに気が付いてくれればいいんですけど。」

と、ジョチさんは答えた。

「そうですか。たしか、出身は同和地区でしたなあ。一度、同和地区の出身者だからということで、大学を受験させてもらえなかった高校生の弁護を引き受けたことが在りました。彼の場合は、当時の人権擁護の風潮もありまして、勝訴することはできましたが、そういうことが在ったのは、20年以上前です。それ以降は、同性カップルの結婚を認めてほしいとか、男性でありながら女性名に改名したいという依頼も受けました。そういうことを依頼してくる人が増えているんですから、同和問題に対しても、認識が変わっている時代になったんじゃないかなと思うのですが。」

小久保さんは、法律家らしい話を始めた。

「ええ、僕もそう思いますね。若い人であればあるほど、現在は、偏見は少なくなりつつあるのでしょうが、彼自身が、そういう気持ちになれないんでしょうね。そのあたりをご自身で外すことができるようになったら、彼自身も医療を受けようという気になってくれるとは思うんですが。其れが実現するのかは、夢のまた夢になりそうです。」

二人はドアの向こうに目をやった。向こうから激しくせき込んでいる声と、大丈夫、しっかりと声掛けをしている、利用者たちの声が聞こえてくる。

「彼は本当に、明治期に流行った伝染病に罹患したんですかね?」

と、小久保さんが言うと、

「いや、違うと思いますね。そういうものであれば、現在の医療で重症化することはまずないでしょう。それなら、数週間から、数か月で治ると思いますよ。あんなふうに、何年も寝たきりの状態が続くことはないと思います。問題は彼が、同和地区の出身者には、医療を受ける権利がないとかんがえているところだと思いますよ。」

と、ジョチさんが答えた。

「そうですねえ。僕が若い時は、まだ若干いたんですが、今の時代ですと、ああいう風になることは、まずないでしょうからねえ。それを、ほかの利用者さんから、水穂さんに話をさせるようなことはしないんですか?」

「いや、わかりませんね。彼女たちを通しても、水穂さんが思っていることを溶かすことはできないと

思いますよ。何しろ、日本の歴史がかかわっている問題ですからね。そこを変えるというのは難しいでしょうから。」

「なるほど、それで理事長さんは、次の衆議院議員選挙に立候補者を出したいわけですか。」

「まあ、其れだけではありませんけどね。」

ジョチさんと小久保さんは、にこやかに笑った。その間にも、水穂さんのせき込む声と、薬を早く飲ませてとか、顔を拭いてとか、そういうことを言い合っている若い女性の声が聞こえてきた。

「でも、彼女たちの弱い人たちへのやさしさというか、そういうところを伸ばしていける社会になったら、もうちょっと、日本社会も変わるんじゃないかなと思うんです。彼女たちが、水穂さんにしてやっていることを、この建物の外でもしてくれないかと僕は思うんですけれど、一寸この世の中では

ねえ。難しいんですよ。」

「そうですねえ。僕も、非行少年の弁護をしていると、そういう子に巡り合うことが在ります。とても

優しい子だったのに、振り込め詐欺のかけ子になったとかね。そういう子たちの居場所というものは、本当にないものですなあ。」

ジョチさんと小久保さんは、やれやれという顔で笑いあった。

「いずれにしても、加藤百合さんの弁護はしなければなりません。息子の加藤裕美さんの通っていた、支援施設がどんなものであったのか、が、今のところ情報がありませんので、加藤百合さんの話の裏が取れないんです。其れが、一寸今回の不自由なところがありますね。あの、動物病院で働いている女性が、彼の通っていた支援施設に通っていたと聞いたので、一寸お話をききに伺いましたが、まったく内容が得られませんでした。」

小久保さんは、一寸愚痴を言った。今回は、それが一番困っていることでもあるので。

「まあ確かに、支援施設のことを話すのは、僕も難しいと思いますね。先ほどの女性にしても、相当勇気が要ったんじゃないでしょうか。それに、支援施設では、どうしても、お前を愛してくれるのは俺だけだと、指導員から押し付けられる傾向がありますからね。それで、支援施設のことはあまり話したくないと言ってしまうんだろうけど。」

ジョチさんは、リーダーらしく言った。

「そうですね。其れはやめてもらいたいものですな。僕もそれはよくわかりますよ。犯罪に走った少年がよくそういうことを言っていました。自分を愛してくれるのは、この学校だけだとか、この施設だけだと言われて、余計に劣等感というか、嫌な思いをしてしまうとね。」

小久保さんもジョチさんの話に同意する。

「そこを、何とかならないかなと僕らがいつも思い続けることが大切なんじゃないでしょうか。」

ジョチさんは、一寸ため息をついた。

ジョチさんと、小久保さんがそんな話をしている間に、エラさんの動物病院では。

「はい、今回も順調よ。だいぶいい傾向ですよ。」

と、エラさんが、アメリカンショートヘアの猫を抱っこして、診察にあたっていた。

「ありがとうございます。ミーちゃんよかったわね。」

と、飼い主の女性は、エラさんから、猫のミーちゃんを受け取って、軽く一礼する。

「ミーちゃんは幸せね。」

診察室から出てきたミーちゃんを見て、朋子は、思わずそうつぶやいてしまった。

「あら、なんでそんなことを思ったんですか?」

と、エラさんが聞くと、

「い、いえ、ただミーちゃんは、いつでも愛してもらえるでしょ。何も条件を出さなくても、可愛がって、もらえるじゃない。ミーちゃんは、いるだけで愛してもらえる。でも、人間はそうじゃないわ。お金を作って働けないと、死んでくれとか、そういうことを言われちゃう。」

と、朋子は、小さな声で言った。慌てて、ミーちゃんの飼い主は、エラさんに診察料を払って、外に出て行ってしまった。多分、そういう話は聞きたくないというか、関わりたくないということであろう。

「そうね、確かにそういうことを言われちゃうわね。特に日本では。」

二人に戻ると、エラさんは、そう朋子に言った。

「でも、あたし頑張ります。先生が、ここで私を働かせてくれるから、一生懸命やることが今は一番大事だって気が付きました。」

と、朋子は、エラさんに言う。エラさんは、一寸涙をこぼして、

「そう、ありがとう。」

とだけ言った。

「大丈夫。あたしは、やり直せると思います。ここでかわいい動物たちと一緒に働けるってことが、あたしの生きがいにもなってるし。あの、猫のミーちゃんも、秋田犬の太郎君も、みんな愛されているペットだから、あたしは、その場面を見ることができるから、今は幸せよ。」

「そういうことが言えるんだったら。」

と、エラさんは、朋子に言った。

「あの、加藤百合さんが、いま裁判でさばかれている事件、あの事件のことについて、お話してあげることはできないかな?」

そういうと、朋子は、一寸考えたような顔をした。

「私のところで、働けて幸せだというのだったら、まだ幸せをつかめていない人に、それを分けてあげることも必要だと思うの。もちろん、朋子ちゃんの、体調がよかったらでいいわよ。でも、幸せをもらったんなら、まだもらっていない人に分けてあげるのが、礼儀というものではないかしら。もらい続けるだけではなくて。」

エラさんは、朋子に優しく言う。

「私はね、ドイツから、日本にきて、こっちで動物たちを診察してきて、日本で一番足りないのはそこだと思うのよ。」

「でも、先生。具体的にどうしたらいいのですか?」

と、朋子はエラさんに聞いた。

「ええ、あの小久保さんという弁護士さんに話してもいいし、彼を通して、法廷で話すことだって、できると思うわよ。」

エラさんがそういうほど、法廷は身近なものではないが、西洋人のエラさんは、ざっくばらんにそういうことを言ってしまえる利点があった。

「このままだと、やっぱり支援施設にいる人は悪い人だっていう偏見を助長してしまうことにもなるわよ。誰かが何かしなきゃね。」

そうか、それをしなければ、何も変われないんだ。世のなかをもっとよくするために、何かしなくてはと、文献で描いてあったけど、其れは、こういうことなんだろう。ただ、してもらえることを享受するだけでは、幸せというものは生まれない。何かしなければ、なにかしなければ、、、。





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