寂しい瞳
増田朋美
第一章
寂しい瞳
第一章
その日は良く晴れて、風が静かに吹き、いかにも秋らしいという一日であった。こんな日は、何も起こらないで、のんびりした時間を過ごしたいと思われるのであるが、そうはいかないというのが、日常生活というものである。そういう日々を積み重ねて生きているというのを、なかなか感じるのは難しいなあと思ってしまうのが今日この頃である。
その日、入院していた、小さな犬の散歩のため、エラさんは、公園を歩いていた。ちょうど、公園の池の近くに差し掛かったところ、やっほうという声がしたので後ろを振り向くと、
「おーい、エラさんじゃないか。何をしているんだ。」
と、杉ちゃんが、にこやかにわらって声をかけた。
「ああ杉ちゃん、どうしたの?」
「いやあ、僕は、ただ、正輔の散歩でこっちに来させてもらったんだよ。」
と、杉ちゃんは、エラさんに言った。
「エラさんも、その黒柴ちゃんの散歩?」
「ええ。この子は大分具合がよくなってきて、もう歩いてもいいかなと思ったので、散歩に連れてきたの。」
「そうかあ。まあ言ってみればリハビリだなあ。人間も動物も生き物だもんね。そうして、少しでも体をよくしてあげなくちゃ。」
杉ちゃんが、そういうと、彼の膝の上に、かまぼこ板に乗ったフェレットが、チイチイと可愛い声を出したので、思わず笑ってしまうエラさんであった。
「かわいいわねえ。いくら三本足であっても、動物は本当にかわいいわよ。」
二人と二匹は、そういうことを言いあいながら、公園の池に近づいていった。公園の池には、たくさんのマガモが、水草をたべたり、つがいで何か言い合ったりしているのだった。もう鴨が飛来する季節になったか、と杉ちゃんが、ため息をつくと、公園の池のそばに、一人の中年の女性が、立っている。おい、あの人何をやってるんだろうな、と杉ちゃんが言うと、その女性は、池に向かって歩き出したので、
「杉ちゃん、悪いけど犬を見てて。」
と、エラさんは、急いで彼女に向かって走っていった。
「待ってください。池に飛び込もうなんて、考えないで。何かあったの?決して、命を無駄にしようと考えてはだめよ。」
エラさんは、ドイツからやってきた女性である。日本にやってきて、日本の仏教を学び始めたと言っていたが、やっぱり、自殺は神を裏切る行為であるという教えが染みついているのか、そういうひとを見ると、急いで止めようとする。
「死にたいなら、私に、なんでもいいから話してみてよ。」
そういわれて女性は、エラさんが、ヨーロッパ系の顔をしているのにえらくびっくりしてしまったようだ。ざんばら髪で、服装もジャージ姿だから、年齢がしっかりわからなかったが、近くで見てみると、18歳にもならない少女だった。
「あたし、消えた方いいのよ。だって、もうこういうことをするしか、償う方法もないの。だって
私は、人殺しよ。何の罪のない子を、殺してしまったんだもの。」
「はあ、そうですかい。それでは、結果的に、そうなってしまっただけかもしれないし、お前さんが感じているより大したこともないかもよ。」
と、杉ちゃんは言うと、
「だってあたしは、、、。」
と、彼女は、涙をこぼして、泣き崩れるのだった。
「ここでは、誰かに見られたりしたら、大変だから、ペットカフェにでも行きましょう。そこのほうが、落ち着いて話ができるわ。」
と、彼女の肩に手をかけたエラさんは、そういって、無理やりペットカフェに向かって歩き出した。杉ちゃんも、急いでそのあとについていく。そうやって他人の体に直ぐ触るのは、西洋人ならではである。
ペットカフェに入ると、客は誰も居なかった。そのほうが、都合がよかった。杉ちゃんとエラさんは、一番奥の席に座る。エラさんが彼女を座席に座らせた。とりあえず、店のマスターに、とりあえず、ホットコーヒーを注文する。正輔が、心配そうな顔をして、彼女を眺めていた。
「えーと、お名まえは?」
と、エラさんが聞く。
「まず、初めて会ったときは、名前を聞くのが礼儀だからな。」
と、杉ちゃんは言うと、
「ええ、福山朋子です。」
彼女はそう名乗った。
「朋子さんね。お年は?」
「16歳。」
エラさんの質問に、彼女はそう答える。
「学校行っている?」
と、エラさんが優しく聞くと、
「いいえ。」
と一言答えた。
「それでは、どこか別の教育施設に通ってるの?」
「そうだったんですけど、それでもやめてしまいました。」
「なるほど、それで居場所なく自殺したいというわけか。其れじゃまずいな。ちゃんと、理由を
言わなきゃな。どこの支援施設に通ってたんだよ?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「小村という所でした。」
と、彼女、朋子さんは答えた。
「小村ね。聞いたことのない支援施設だな。」
と杉ちゃんがいうと、エラさんは、スマートフォンを取り出して、さっそく調べ始めた。
「多分ここではないかしら。」
彼女が示したのは小村塾と書かれている場所だった。
「一体其れは、何をする支援施設なんだよ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「ええ、なんでも問題のある子供さんを、あずかって更生させようというところではあるらしいけど。」
と、エラさんは、一つため息をついた。
「相当スパルタらしいわね。」
「そうなのねえ。」
この時は、杉ちゃんもそのくらいしか言わなかったけれど、あとで意味が分かる。
「で、そこを脱走して、こっちへ逃げてきたというわけか。」
と、杉ちゃんが言うと、
「脱走してきたというわけではありません。ただ、施設と方向性が合わなくて、脱退しました。それは、あたしの意志で脱退したんです。」
朋子さんは、そういうことを言った。
「そうなのね。で、脱退したら、急にやることなくて、それで今日、池にとびこもうとしちゃったわけね。」
杉ちゃんが明るい顔をしていった。彼女、福山朋子さんは、静かに頷いた。
「そうか、じゃあ、別の支援施設に行くのも嫌だろうし、似たようなところに又通いだすのもダメでしょう。其れならば、うちの動物病院に来ない?ちょうど、中原さんが、お母さまがなくなられたと言って、実家に帰ってしまっているので、受付係が誰もいないのよ。ね、いいでしょ。施設にいるより、実社会にいた方が、きっと楽しいだろうし、やりがいも出ると思うわ。」
ふいにエラさんが、そんなことを言った。
「何?中原さんは実家に帰ったの?」
と、杉ちゃんが言うと、
「ええ。お葬式は割と早く終わったんだけど、遺産相続とか、そういう事で、もめてるんですって。其れだから、解決するまでそっちにいた方が、いいということになって、半年くらい休みをあげたのよ。」
と、エラさんは答えた。やっぱりさすが西洋人だ。些細なことでも平気な顔をして、口に出してしまうので。
「じゃあ、其れはいい。中原さんの代理人として、エラさんの動物病院で働かせてもらえ。毎日毎日かわいい動物が、いっぱい来て、楽しい仕事だよ。よかったな。自殺なんかする必要はないってわけだ。考えてみれば、自殺をするくらい追い詰められると、面白いことが舞い込んで来ることはよくあるんだよな。ま、そういうことを考えれば、お前さんが自殺を図ろうとしたときも、決して悪い瞬間じゃなかったということになるな。めでたしめでたし。」
と、杉ちゃんは、カラカラと笑った。
其れから数日後、エラさんの動物病院に、杉ちゃんが正輔を連れてやってきた。
「あら、杉ちゃんどうしたの?正輔くん、又具合が悪くなったのかしら?まあ、確かにフェレットは、具合の悪くなりやすい動物ではあるけれど。」
と、エラさんが、出迎える。
「いやあ、そうじゃなくてね、新しいアシスタントさんの働きぶりを見たいなあと思ってさあ。」
と、杉ちゃんは、言った。
「ああ、朋子さんの事ね。彼女なら、いま、包帯を買いにドラッグストアに行ってますよ。ちょっと前に、出かけたから、もう間もなく帰ってくると思うけど。」
と、エラさんがにこやかに笑って、そういうことを言った。
「ほう、で、働きぶりはどうなんだ?」
「しっかり働いてくれていますよ。働き方もまじめだし、今時の若い女の子って感じがしないほど、真剣に仕事をやってくれますしね。今のところ、書類を作ったり、包帯とか、ばんそうこうを買いに行くとか、そういう雑用もやってもらってるけど、いやそうな顔をしないで、なんでも雑用してくれるから、優秀な、アシスタントと言えそうね。」
「そうかあ。」
杉ちゃんは、一寸ため息をついた。そういう真剣に仕事をしているような若い人が、周りのひとのいじめにあったりして、人生を終わりにしたいとか、そういうことを言いだすのである。本当は、まじめにやれて、優秀な働き手であるはずなのに。学校の成績だけで、人を判断するのは、やってはいけないことである。
「ただいま戻りました。」
と、可愛い声がして、朋子さんが戻ってきた。
「おう、元気そうじゃないか。学校に行くよりずっと生き生きしているじゃないかよ。」
杉ちゃんがからかうと、
「ええ、毎日可愛い動物と一緒で、充実した日々を過ごしていますよ。あたし、ずっとここで働こうかなとおもっちゃうくらい。」
と、朋子さんは答えた。
「そうか。其れはいいなあ。そういうふうに学校から離れて、元気に暮らしている方が、楽しいよね。かわいい動物と一緒に、仕事をして、毎日楽しいだろう。」
杉ちゃんが言うと、
「ええ、明日は、須津のテーマーパークで、牛の治療に行くんですよ。一寸具合の悪い牛がいるから、見てくれって、電話があったんです。牛の診察なんて初めてだから、一寸緊張しちゃう。」
と、エラさんはにこやかに言った。
「へえ、牛の診察かあ。牛ってかわいいよな。」
と、杉ちゃんが言うと、いきなり動物病院のドアがギイっと開いた。そして、一人の高齢の男性が、外に止まっていたタクシーから降りてきた。
「あれ?小久保さんじゃないか?」
と、杉ちゃんが言うと、まさしく老紳士は、帽子をとって、軽く一礼した。
「はい、わたくしは、弁護士の小久保哲哉と申します。ちょっと、福山朋子さんにお話を伺いたくて、こちらに来させていただきました。」
「小久保さん一体どうしたの?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「はい。実はですね。10月26日に、富士市の吉原付近で、女性が殺害されるという事件があったのは、ご存じでしょうか?」
と、小久保さんは、手帳を開きながら言った。
「ああ、僕はテレビも見ないし、新聞も読まないので、何もわからない。」
と、杉ちゃんが言うと、
「では概要を説明しましょう。富士市の吉原にある、マンションの一室で、大橋優香という女性が、殺害されているのが発見されまして、加害者、加藤百合が逮捕されました。死因は、鉄パイプで殴られたことによるもの。大橋は、長年、情緒障碍者支援施設である、小村自然学校に勤めていたそうですので、小村自然学校の関係者全員にお話を伺っております。」
と、小久保さんは刑事事件の関係者らしく、淡々と話を進める。
「加藤百合、、、。加藤裕美さんのお母さんだ。」
朋子さんは、小さな声で言う。
「で、その、小村自然学校で、何か不祥事でもあったんかいな。」
と、杉ちゃんが言うと、
「あたし、さっきのウェブサイトで見たんだけど、あの小村というところは、働くということに意味を見出させる支援施設です。勉強をどうのこうのというよりか、自分は生かされているということを教えるところみたいですね。其れって、どうかと思うわ。ただ自分は、生かしてもらうだけしか価値がないと、教えさせる施設ってことになるから。」
エラさんが、そういうことを言った。
「まあ確かに、現代では、そういうことを教えてもらうことも必要ではあるけれど、それにだまされすぎてしまいますと、自分でどうのということが、出来なくなっちまうから、難しいなと思うよ。」
と、杉ちゃんが言った。
「それでは、僕の方から、少し、質問をさせてください。大橋を殺害した、加藤百合の刑を少しでも、軽くするためです。福山朋子さん、加藤裕美さんが、いじめられていたり、何か悪いことをしたりとか、そういうことをしたのでしょうか?彼の、自然学校での生活ぶりについて、一寸教えていただけないでしょうかね。」
小久保さんはメモ用紙を開いて、そういうことを言った。
「ええ、確かに、加藤君は、ああいう施設には、向かない人だったと思います。加藤君は、農作業とかもちゃんとやっていましたが、もともと弱い体質であったんだと思います。それを、小村自然学校の人たちは、すごくダメな人だとののしっていました。そういうことでは、社会に出ても何もやっていけないって。もっと体力付けなきゃダメだって。」
と、朋子さんは、静かに言った。
「そういうわけで、あの施設では、加藤君のような人が、見せしめにされて、みんなの前で殴られるということは普通にありました。鉄パイプで殴られるとか、箒でたたかれるとか、日常茶飯事でしたよ。それに、お前たちは、何も価値はない、働いてから初めて価値が出るんだ、そうしなければ、人間ではなくて、自分をゴミだと思わなければいけないとか、そういうことを、指導員さんたちはよく話していました。」
「なるほどねえ。そういうことか。何だろう、矯正施設というのはそういう風になっちゃうよね。自分のことを、地球のゴミだとか、そういうことを思わせちゃうんだな。指導は指導なんだろうけどさ、一寸やりすぎだよな。」
杉ちゃんは、はあとため息をついた。
「そうですね。家畜とは違いますし、人間を育てるところなんですから、其れは、しっかりやってもらわないといけませんね。その加藤裕美さんという生徒さんは、どうして亡くなったんでしょうか?」
エラさんが聞くと、朋子さんは、言葉に詰まってしまった。
「まあまあ、待ってやれ。こいつが、その事件のことを話すのは難しいだろうな。だって、その子は、お前さんの前で死んだんだろ?」
と、杉ちゃんが泣き出した朋子さんに言う。
「ええ、加藤君は確かに体は弱い人だったと思います。でも、とてもやさしくて、出来の悪い生徒だった私に、道具の持ち方とか、助言してくれたりして、すごく、うれしかったです。だから私、すごくいけないことをしたというか、申しわけなくなってしまって。それで、私は、こっちへ戻ることはできたけど、加藤君は、それができなかったから。」
「はああ、なるほど。それでお前さんは、公園の池に飛び込もうとしたわけか。自分だけ、安全なところに来れたけど、加藤君という子は、戻ってこれなかったから。」
「そうですか。それでは、朋子さん、お願いなんですが、加藤君のなくなった時のことをもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。大丈夫です。こちらは、あなたのことを、悪く言うことはしませんから。」
と、小久保さんが、手帖を開いて、メモを取ろうと身構えたが、
「まあ、待ってくれ。彼女には、まだ時間がかかりそうだ。彼女が、小村自然学校のことを話すのは、一寸恐怖があるだろう。其れは、人間しょうがないことだから。もうちょっと待ってやってくれ。」
と、杉ちゃんが止めた。
「そうよ。朋子さんが言えるようになるには、まだ、時間がかかります。まずは、周りの事が落ち着いた生活を送れるようにならなければ。そういうところは、人間も動物も同じですよ。」
エラさんが、彼女の肩をたたいて支えながら、そういうことを言った。
「それでは、事件を解決させるための、情報が何も得られないんですけどね。加藤君が、どんな亡くなり方をしたのかとか、そういうことを、ちょっと教えてもらいたいなと思ったんですが。いやあ
ほかの、小村自然学校に通っていた方も、口をそろえてそういうんです。怖かったとか、鬼みたいな先生だったとか、そういうことはよく言うんですけれども、その具体的なところがまったく見えてこない。被告人である、加藤百合さんも、事件のことになると裕美さんを亡くした悲しみばかり話して、それ以外のことは何も話しません。こうなると、弁護する方も困ってしまうんですがね。」
と、小久保さんは困った顔をした。
「まあそうだねえ、事件はまだ起きたばっかりだし、もう少し時間がたってから、話させるというわけにはいかないものかなあ。でも、日本の法律ではすぐに、何かしなきゃダメということになっちゃうのか。」
「ええ、日本は、何をするにも、早すぎるところがあるわね。」
エラさんが、杉ちゃんの言葉に、確かにという顔でそう言った。
「早すぎないで、マイペースというわけにはいかないのね。弁護士の先生であっても、いきなり、事情を聴きだすのは、一寸まずいんじゃないかしら。もっと、心が落ち着くところで話した方が良いわ。」
「そうですねえ。でも、早く供述をとらないと、裁判の都合もありますので、、、。」
と、小久保さんは、頭をかじった。
「そうだけど、この女性から、話を聞くのはちょっと無理じゃないか。だったら、別の施設の誰かに聞いてみればいいと思うよ。」
と、杉ちゃんがでかい声で言ったため、みんなびっくりする。
「杉ちゃん、別の施設って何よ。」
エラさんが言うと、
「いやあな、そういう更生施設は、ほかにもあるんじゃないかなと思ってさ。そういうところの利用者に聞いて、例の小村学校が悪質だと関連付けるようにしてみたら?」
と、杉ちゃんが話をつづけた。
「ごめんなさい、、、私のせいで、、、。私、どうしても、言わなきゃいけないということはわかるんですけれども、でも、どうしても思い出すと、まだその現場にいたような気持ちになってしまう。其れはきっと加藤君のお母さんも一緒だと思います。」
と、涙をポロポロこぼしながら、福山智子さんが泣きじゃくった。まだ泣く内容を成文化できるから、彼女の障害は比較的軽いと思われるが、エラさんはそっと彼女を抱きしめる。
「わかったわ。わかったわよ。そんな無理をして真実を語って、あなたまでおかしくなったら大変だもの。其れなら、もう少し待ってもらってもいいから、落ち着いて。」
「わかりました、今日は、ここまでにしますか。」
と、小久保さんは、手帳を閉じた。
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