メサイアコンプレックス

るつぺる

微雨

 現実から遠ざかりたい。現実味のない願いは受け入れられたのか、傘をさすのも迷う微雨の夜、僕は見知らぬ街中を歩いていた。いよいよ頭がおかしくでもなったのか、それとも掛けそびれた眼鏡の所為で目が効かないのか行き交う人々の貌は魚であったり犬であったりする。それに寸分でも驚かないのが不思議ではある僕は通りを練り歩いてここが何処なのかを確かめようとしていた。

 それは朝の目覚めとともに徐々に認識するようにここが見知らぬ土地であることを自覚していた。妻子の葬儀を済ませ、仕事はしばらく休む旨を伝えた後に外の空気を吸うため家を出たところまでは覚えていた。それからどのようにしてここに辿り着いたのかはわからない。咥えたままの煙草は灰がすっかり落ちきって時間が過ぎたことだけは示されていたものの、記憶が全く空っぽになるという経験は初めてのことで思考に靄がかかっていた。妻と子を一度に亡くした時の受け入れ難きあの日でさえ僕はそれを事実として記憶しているのに、ここに至る過程だけはどうしても思い出せないのだった。

 人ならざる住人の跋扈する街で、彼女は初めて出会った人間だった。僕はそれに懐かしさとでも云うような感覚を呼び起こされ思わず声をかけてしまう。彼女は自らを糸子と名乗った。名のとおり絹糸のような細く真っ直ぐに伸びた白髪は老女のようであるものの、その貌つきはあどけなくもみえる。僕は早速この街について彼女に問うた。名前、場所、そして何故住人が一様に人の貌をしていないのか。僕に切迫感がみられたのか糸子は僕の問いに憐憫を帯びたような微笑みを浮かべ、その答えは語ることなく、疲れているようだからと宿まで案内してもらうことになった。宿の扉口の前で「また明日」と糸子は言った。別れてから彼女と連絡を取る手立てなどないことに気づくも、僕は彼女の言ったとおり随分疲弊していたようで、部屋まで通された後は飯にもありつかず眠ってしまった。

 目が覚めてみてそこが和室だと認識する。ぼやぼやする視界からか天井の木目は笑みをたたえているかのように賑やかだった。おはようございます、それほど広くない部屋に残響する挨拶。声の方に目を遣ると奇怪な女中が二人正座している。昨晩の通行人達と同じく首から下のそれは人の形をしていたが、貌は海星である。まだ夢の最中か。しかし口あらずとも海星はたしかにおはようと言い放ち、目はあらずとも僕のほうを見ているのだった。些かの不安はあったが僕は彼女達におはようございますと返した。

「わたくしはイン」

「……サワリ」

「お客様のお世話をさせていただきます」

「ます」

女中たちはそう言って寝覚めの一杯にと茶のようなものを差し出した。湯気立つそれを口に運ぶと冷えた体には沁み渡って顔が温もった。

「いかがなさいました?」

「……ました?」

「いや、すみません。少し思い出したことがあって」

 妻とは映画の撮影現場で初めて出会った。当時の彼女は女優の卵で、僕が脚本を書いた作品の演者の一人であった。特別言葉を交わす間柄でもなかったけれど撮影が終盤を迎える頃に演出について監督と口論になった僕は一人でふて腐れていた時、僕に彼女から声をかけてきた。どうぞと渡された温められたお茶。僕は気分からかあまり愛想のない返事をしたように思う。彼女はそれまでの僕と監督のやりとりを聞いていたはずではあるが、そのことには触れもせず地元の辺りでは魚が美味いだとか、飼っている犬が可愛いだとか他愛のない話をした。僕は苛立ちからか適当な相槌をうって聞き流した。それよりもたまった憂さの晴らしかたをどうしたものかと考えていた。今思い返せば瑣末なことだが、表現者の拘りというのは厄介なもので正解がないだけに直感と信念がぶつかり合うこともしばしばある。強い主張のいくつかにはそれぞれ賛同や批判が生まれ、その中で最適解というものを養っていくのだ。大勢で作り上げる映画という作品のそれも決め手であろう終盤の演出だっただけに僕自身も譲り難い意固地さを発揮してもう一歩で手が出るくらいの熱を持ってしまった。そんなもの知ったことかとお構いなしに自分の話を語る彼女はその時手渡されたお茶のようにぬるくなんだか莫迦にされたように思えた。しかしそれはかえって熱を持ち過ぎ自分を些か冷静にさせた。ただ僕は愛想もなしに無理に構ってくれなくてもいいなどと彼女を突き放すような態度を取った。そのとき彼女は笑って「好きなようにします」とだけ答えその場を去った。結局監督側の意見が総意とされ僕は苦々しい面構えで撮影風景を眺めていた。そんな中で彼女は僕が提案したとおりの演技を披露した。共演者の戸惑い。狼狽える撮影班。監督の表情は徐々に険しくなる。新人ながらある程度の期待と事務所の看板を背負った女優が監督の演出を無視したのだ。傲慢であり横暴だった。一悶着、いやそれだけでは済まなかった。監督はもちろん注意したが彼女は頑なに演技を変えようとしない。僕でさえここは引くべきだと感じたが口には出来なかった。作品の存続自体が危ぶまれた。転機はたまたまそのシーンの撮影中に立ち会った製作指揮の一言だった。いいんじゃないか。面子を失った監督は自ら降りた。残りのシーンは別の監督が引き継ぐ形で作品は仕上がった。僕はその一連の流れが一瞬で目の前を通り過ぎていくようで細かいことはほとんど記憶しない。ただ唐突に彼女が僕の提案を演じてみせたことがある種の幻想を抱かせた。僕は拘りなどと言ってそれが覆された時に諦めることしかしなかった。それがどうしてか諦めたはずの映し出されることのない情景をありありと見せつける作品に仕上がってしまったのである。単純なもので気付けば僕は彼女に男女として付き合ってくれないかと申し出た。彼女が演じた唯一の作品を二人で劇場で観た後のことだ。彼女はまた「好きなようにします」と言った。


 街は昼になっても異形の人々が闊歩していた。宿から少し離れた通りを僕はあてもなく歩いた。夢ではないのだと自覚すれば一体ここは何処なのだろうという疑念が深まっていく。糸子は人通りの中で立っていた。人の貌はこの街にあって際立つ。

「こんにちは」

「どうして僕がここにいると?」

「私には分かってしまいます」

「どういう意味だい?」

「行きましょうか」

「何処へ?」

「ついてきて」

 僕は彼ら、つまり異形の人々について糸子に尋ねた。糸子は何も変わらない、特別ではないと言うだけで明確には答えようとしない。確かに彼らからすれば僕や糸子の姿形こそが異質に思えるのだろうか。しかし僕はこれまでそうではない場所で暮らした記憶がある。だからこそどれだけ少数派であってもそれを常識として取り入れることは出来なかった。答えがないならそれは構わない。だが僕はどういうわけあってここにやって来たのか、はたまた呼ばれたのか、それだけでも知りたかった。それについても糸子は何ひとつ答えない。ただ黙々と何処かへ向かって前進するのに僕はついていくしかなかった。

 糸子が案内したのは街の外れにある廃病院だった。前半はかすれて辛うじて「院」の字だけが見える看板。大きさで言えばそれなりだがもう見るからに無人の廃屋である。

「なぜここへ」

「ここは終着駅なのです」

「駅」

「ええ。魂の行き着く場所。あの街に住む人々は皆、死ぬとここに集う」

「誰も、いないようだけれど」

「それはそうでしょう。あなたは魂をご覧になられて? 見えないものでしょう。生者には。けれど確かに、ほらあそこ」

 糸子が指差した方でカーテンが開いた。

「答えになってない。僕はなぜここに連れて来られた」

「会いたい、でしょう」

「会いたい。誰に」

「あなたが会えなくなった人達」

「よせ」

「あなたが誰よりも会いたい人達」

「やめろ」

「会わせてあげます」

「黙れ! あいつは、あの子は、もう死んだんだ。ろくでもない脇見運転の犠牲になった。僕は世の中を恨んだし、何度も返してくれと願った。でも死んだんだ。もういない。そうなんだ。それが現実なんだ」



 静

 

「あなた、嘘つきですね」

「なんだと」

「本当はそうじゃないでしょう。あなたは願っていた。彼女や子供の死を」

「馬鹿なことを言うな! なぜ僕が」

「あなたは望んだ。別離を、それも超然的な力による、自らの責任の外で。あなた、言いましたわね。"しんで、くれないかな"」

 僕は糸子の首を締めあげた。何度も「煩い」とかき消えそうな頼りない声で呟きながら、手は目一杯力を込めていた。だけれど糸子はまるで苦しそうな素振りも見せず、ただひと言「会わせてあげます」と言って突然に事切れた。僕はなぜかどうして冷静で、糸子の亡骸を廃病院の影に隠した。雨が降ってくる。僕は街の方を向いて引き返し始めた。一歩、二歩、三歩。途中振り返れば病院は遠退いているはずだった。

「なんで」

 まだそこにいた。次は走ってみる。息が切れたとこで立ち止まる。まだそこだった。頭がおかしくなりそうで一心不乱にその場から逃げた。まだそこ。逃げた。まだそこ。逃げ続けた。まだ。ついに体が動かなかった。脚はずっと震えている。まだいた。病院はまだそこにいた。隅の影には絹糸が見え隠れしている。

「やめろ」

 病院は近づいてくる。

「よせ」

 病院の入り口が開く。

「すまなかった」


 寂


「糸子さま。お帰りなさいませ」

「ませ」

「あのお客様は」

「様は」

「もうすぐ戻るわ。こちらへ」

「そうですか」

「ですか」

「あの方、何故か懐かしいにおいがしました」

「した」

「そう」

「まるで昔、共に暮していたような」

「うな?」


 

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