町工場の大おじいちゃん

上月くるを

町工場の大おじいちゃん






 中学の帰途、ホタルは曽祖父が入院している病院に寄るのが日課になっている。


 曽祖父のカズオが起こしたメッキ工場は、水銀を扱う危険な仕事をきらう息子には継がれず、一代飛び越え、孫に当たるホタルの父母が町工場の灯を守っていた。


 商社に勤めていた祖父と祖母、曾祖母も亡きいま、曽祖父の身内はホタルとその父母だけになったが、働き詰めの両親に病院へ通う余裕はなかったし、もともとが大おじいちゃんっ子のホタルは病院へ寄って曽祖父の顔を見るのが楽しみだった。

 

 

      *

 

 

 そんなある日。

 いつものように学校の出来事を話していると、曽祖父がとつぜん語り出した。


 

 ――大おじいちゃんはな、むかし「駅の子」「浮浪児」と呼ばれていたんだよ。


 

 駅の子って、なに?

 浮浪児って、モンゴルのマンホールチルドレンみたいな孤児たちのこと?

 ホタルは自分の耳を疑った。


 これまで大おじいちゃんの若いころの話は一度も聞いたことがなかった。

 曽祖父も話したがらなかったし、家族もだれひとり聞こうとしなかった。


 まして、曾孫娘のホタルは、ふつうの人と同じように、両親が揃っている家庭で大人になって、ふつうにメッキ工場を起こしたと思っていたから、いきなり孤児だったと打ち明けられても、どういうレスポンスをとればいいかわからなかった。


 ベッドに寝たまま、大おじいちゃんはどこか遠くを見るまなざしで語り始めた。


 推定三、四歳のころ、南方の戦地で父を、空襲で母を失い、それからはひとりで生きねばならなかったこと。着の身着のまま駅にたどり着き、そこで寝泊まりするうちに、同じ戦災孤児たちと集団で盗みや物乞いをするようになったこと。ある日とつぜんやって来たトラックに乗せられ、見知らぬ田舎町へ連れて行かれたこと。


 どさどさと収容された施設では、赤い三角屋根の下で鐘が鳴っていたこと。施設の職員を「父さん母さん」と呼ばされたが、夜は布団をかぶって泣いたこと。遠い親戚のいる仲間には、ごくたまに面会があったが、自分には一度もなかったこと。


 乏しい食糧をやりくりして遠足に連れて行ってもらったとき、ある少年が湖上に浮かぶ雲に「父ちゃん母ちゃん」と叫び、それをきっかけに全員大泣きしたこと。先に施設を出て行く仲間を、格子窓に縋り、泣きながら見送っていた少女のこと。規則がきびしい施設から逃げ出そうとして、そのつど近くの駅でつかまったこと。


 もつれていた糸がほぐれるように、大おじいちゃんの回想は止め処がなかった。

 


      *

 


 ふと口をつぐんだ大おじいちゃんは、枕の下から一冊の古びた本を取り出した。

 

 

 ――菊田一夫著『敗戦日記』。

 

 

 読み癖のついている頁を開いた大おじいちゃんは、目顔でホタルをうながした。

 本好きなホタルは、小学生の内から大人の本の領域に足を踏み入れていたので、さっそく興味津々で読み始めたが、その内容はとてもショッキングなものだった。

 

 

《昭和二十一年三月二十八日。上野駅地下道に浮浪児の暮らしを見にゆく。薄暗い電灯に照らされて水溜り、人ぷん、食べ残しの弁当を持ってきたらしい残骸。その他のすべての隙間はぼろ屑の塊りのような浮浪者と浮浪児に埋め尽くされている。動かないで光っているのが水溜りと人ぷんで、もごもごと動くのが浮浪児である》


《私は革ジャンパーに掃き古したズボン、毛糸の襟巻。無言で通ってゆく。だが、それでも、やがて浮浪児たちは起き上がり言葉もなく寄ってくる。私の周囲をとりまく。先日のよりもっとひどい垢。薄暗いなかに垢で黒ずんだ小さな身体が動き、目ばかりが光っている。まわりを取り囲まれ、革くさい酸っぱい匂いにうずまる》


 

 ――うわあ、すごい! ちょっと想像がつかないほど荒んだ光景だったんだね。

   それに「先日のより」ということは、この著者はたびたび上野駅の孤児たち

   の様子を見に行っていたんだね。混乱の時代にそういう大人もいたんだね。

 

 がつんと打ちのめされたホタルは、思わずその場で後ずさるような思いだった。


 

《一番小さいのが身体をすりつけてきて「おじさん、なにかくれよ」。すると背後でもう少し大きいのがしゃがれっ声、「剥がしちまえよ」。すると、他の小さいのが「こいつ、ふるえてら、へへへへへ」。まだ七、八歳なのに爺のようなしわがれ声を出している》


 

 自分でも気づかないうちに、ホタルは「ひぇっ!」と小さな叫びを発していた。

 いまから七十余年前のこの国に、本当にあった話とは、にわかには信じがたい。


 

《私は孤児たちと仲よくなった。「君たちは幸福だね。なぜならお父さんやお母さんが早くに死んだからだよ」孤児たちはけげんな顔で私を見た。「いいかね、ぼくも孤児だよ。君たちのようにお父さんやお母さんが死んだのじゃない。ぼくは捨てられて孤児になったのだ」》


《「人間はね、年寄りのほうが先に死ぬんだが、そうしたら、親のほうが先に死ぬに決まってる。親が長いこと生きていれば、どうしたっていつまでも親に頼るから親が死んだときに困る。だけど親が早くに死ねば、子どもには独立の気持ちが生まれる。早くから独り立ちの訓練ができる。もうこれ以上親は死にっこないんだからいつになったって困らないだろう。だから、みんなはかえってしあわせなんだ」》


 

 ――なんか無理やりのこじつけみたいだけど、こう励ますしかなかったんだね。


 

 どっちが先で、どっちが後なのかわからないような、へんてこりんな幸福論。

 だが、ホタルは大人に言いくるめられようとしたときの反発は覚えなかった。

 むしろ、菊田一夫さんという人の真心が切々と伝わってきて、足がふるえた。


 

《語り終えたつぎの瞬間、十歳くらいの子が、いきなり私の腕に噛みついてきた。痛いという叫びをあげる暇もなく、ささらをこするような声で、その孤児はうおんうおんと泣き出した。その子どもは、つねに頭のどこかで死んだ親のことを思っていたのである。他の子どもたちは、ただ黙って私の傍から離れていってしまった。地下道を出て上野の街を歩きながら、私は涙がこぼれてどうしようもなかった》


 

 この胸の詰まりを、喉に蓋をされたような思いをどう言葉にしたらいいだろう。

 読み終えて、ひと言も発せずにいるホタルに、大おじいちゃんは静かに語った。

 

 ――菊田先生はね、生後四か月で親から捨てられ、他人の家を転々として大きくなった。だから、だれよりもおいらたち孤児の気持ちをわかってくださったんだ。

 

 気のせいか、大おじいちゃんの話し言葉は少年のころにもどったみたいだった。

 そのころ、たまたま上野駅をねぐらにしていた大おじいちゃんは、偶然にもその菊田一夫先生に出会い、本当の叔父さんのように慕っていたのだけれど、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による、いわゆる浮浪児狩りに遭い、行ったこともない地方の施設に運ばれて、菊田先生とはそれっきりになったのだという。


 真実を知ったホタルの目には、大おじいちゃんが急に別人のように映り出した。

 むかしからずっと年寄りだったと、なんとなく思っていた大おじいちゃんにも、ホタルのような子ども時代が、それもとびっきり苦しい少年時代があったのだ。


 そのことをこうして知らされてみると、ホタルはとりわけ裕福ではなくても家族の愛に包まれ、のほほんと育って来た自分が申し訳なく思われて仕方がなかった。

   

 

      *

 

 

 翌日、ホタルは病院の許可を得て、曽祖父の部屋からラジカセを持ちこんだ。

 

 

 ――『鐘の鳴る丘』(作詞・菊田一夫 作曲・古関裕而)

 

 

 古いカセットに合わせて小声で歌う曽祖父の目は、グミのように潤んでいた。

 色褪せたラベルによれば、音羽ゆりかご会という合唱団が歌っているらしい。

 戦後間もないころの子どもたちの歌う声に、いつしかホタルも合わせていた。

  

 

      *

 


 ――ひとりでよくがんばって生きて来たね、えらかったね、大おじいちゃん。

 

 ホタルが枯木のような手の甲をさすると、曽祖父は意外な力で握り返してきた。

 節くれだった十本の指先の力には、自分という人間の延長線上にある曾孫娘に、自分の道程を理解してもらえたことへの安堵と喜びがあらわれているようだった。


 その素直な姿はまるで幼い子どものようだ。

 もしかしたら……ホタルはやさしく思った。

 

 ――お母さんと思っているのかな? あたしのこと。

 

 はじめて見る穏やかな表情で目をつむり、なつかしい世界に還って行こうとしている曽祖父を見守りながら、ホタルは自分自身も救われたことを感じ取っていた。

 

 過酷な運命に負けずに生きて来た曽祖父を、曾孫の自分がどれだけ誇りに思っているか、そのことをしっかり心に刻んで、父さん母さんのもとに旅立ってほしい。


 せめてさいごは幸せな気持ちで。

 それだけをホタルは願っていた。                 【完】



 参考文献:reportage神津良子『ドキュメント鐘の鳴る丘 とんがり帽子の時計台』(2003年 郷土出版社)

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