忙しいと碌な事にならない 後編
キッチンシンクにあった食器を洗い、トースターにパンを二枚入れると落ちきったコーヒーをマグカップに入れ、牛乳を入れてカフェオレにする。普段は砂糖を入れて飲むけど、今は入れないことにした。
ポンッと音がしそうな勢いで飛び上がったパンをお皿に移し、冷蔵庫からバターを出して二枚とも塗ると、一口かじってホッと息をついた。つけっぱなしのテレビを見れば、台風の進路と共に各地の状況が次々と写しだされていて、テレビに映っている時刻を見ればもうじき一時になるところだった。
「浩史さん、飛行機とか電車とか大丈夫なのかな……」
ニュース番組では飛行機は軒並み発着が止まっていたり遅れていたりしてるみたいだし、電車も遅れたり一部では止まってるみたいだし。彼はこの家の鍵を持っているから、もしものために玄関にバスタオルとタオルを置いておくことにした。
そして、いつもゴミをしまっておく納戸みたいな場所にゴミをしまい忘れてしまっていた。
――まさかそれが、説教とお仕置きのフラグになるとは思いもせずに。
パンとコーヒーをお腹の中に入れたあと食器を洗う。シンク周りや他は最後にし、バスタオルとタオルを玄関に置いたあとでバスルームへと行く。
壁の上からスポンジで洗う。先に洗剤をかけてしばらくおいたせいか、汚れが浮き上がっていたみたいで思ったよりも楽に掃除ができた。壁のあとは床を綺麗にし、スポンジをナイロンたわしに変えて排水口を洗い、バスタブ用の大きなスポンジで中を洗ってシャワーからお湯を出してかけ始めた時だった。
「何をしてるのかな?」
低い声がバスルーム内に響き渡った。その声は知っていた。私の婚約者で同棲中の
でも、その声はいつものテノールではなく、ものすごく低い声だった。
(ヤバ……っ! 怒ってる!)
そう、その声は怒ってる時の声だった。
シャワーを止めて恐る恐る振り返れば、全身濡れ鼠の彼が私を見下ろしていた。
「お、おかえりなさい。えっと、バスルームの掃除を……」
「ふーん……。あとで詳しく聞くから、掃除を終わらせてからおいで」
にこりと笑った彼だけど、目が笑ってねぇぇぇぇ!
それが非常に怖かったけど、思ったよりも早く帰って来たのは嬉しかった。
いろんな意味でドキドキする胸を抑えながら、またシャワーのお湯を出して洗剤の泡を洗い流しながらふと気付く。玄関のゴミを納戸みたいな場所にしまっていなかったことを。
「……掃除してなかったことがバレてる……!」
ぎゃあぁぁぁぁ! と内心で叫んだところでもう遅い。急ぎながらも丁寧に泡を洗い流し、バスタブの詮をしてスイッチを入れる。
濡れ鼠になっているなら体が冷えているはずだし、彼は夏でもバスタブに浸かる人だからすぐに入りたいはずだ。
バスルームを出ると彼に声をかけ、バスタブにお湯を張り始めたから先にシャワーで体を温めることを勧めた。
私と入れ違いで入った彼は、やはり寒かったのかすぐにシャワーの音がし始める。その隙に私も濡れてしまった服を脱いで彼が脱いだ服の上に置くと、棚からバスタオルを出した。
そのまま寝室に行って着替えると、彼が着る下着や服をクローゼットから出し、バスタオルの下に置く。
ちょうど洗濯機も止まったので中身を出してもうひとつの部屋に置くと、彼が着ていた濡れた服や私が今まで着ていた服、出張に持って行った服や下着を洗濯機に放り込んだ。
濡れたスーツはタオルで丁寧に水気を取り、彼が上がったらバスルームに干しておくことにした。明日は台風一過だと言うし、日曜日もやっているクリーニング屋さんがあるからそこに持って行くことにしよう。
キッチンに行って二人分のコーヒーをセットすると、皺にならないうちに畳めるものとアイロンをかけるものに分ける。シーツやカバー各種を寝室に持って行くと、布団乾燥機が片付けられていた。
(たぶん、これも怒った原因なんだろうな……)
ガックリと項垂れながらもシーツやカバーをセットする。そのまま隣の部屋へ行って畳めるものを先に畳んであちこちにしまうと、キッチン周りを掃除し始める。
こっちはそれほど汚れていなかったから助かったけど、シンクがそのままだったらヤバかった。
キッチンの掃除も終わり、全ての掃除が終わるとやっと一心地ついた気分だった。けれど台風のスピードがゆっくりなせいか外は相変わらず激しい風雨で、本当に明日は台風一過になるのかと不安になって来る。
はあ、と溜息をついて昨日買って来た食材を思い浮かべ、今日は何を作ろうか考えていると、彼がリビングにやって来た。ちょうどコーヒーも落ちきったので、マグカップに二人分のコーヒーを入れる。
彼はブラックで私の分は砂糖入りのカフェオレにした。
それを持ってソファーに座っていた彼の傍に行ってコーヒーを渡すと、彼は目の前のローテーブルにコーヒーを置きながら隣に座るように言う。できれば離れていたかったんだけど仕方がない。
こっそり溜息をつき、ローテーブルにコーヒーを置いて彼の隣に座ると、彼は離れていた分や今日のことを話すまで逃がさないとばかりに私の腰を掴んで引き寄せた。
おおう……逃げられない。
「さあ、話してくれるよね? 玄関にあったゴミの山とか、寝室にあった布団乾燥機とか、バスルームの掃除とか」
帰って来た時よりは機嫌が直っているものの、相変わらず声は低い。そして彼は嘘や誤魔化しを嫌う。
だからこそつつみ隠さず、この二週間の仕事のこと、休日返上で部署総出で仕事していたこと。そのせいで掃除が疎かになっていたこと、それを朝早く起きてやるつもりが寝坊をし、慌てて掃除洗濯をしながらも台風接近のせいで布団が干せなかったから布団乾燥機を出したことなどを事細かく説明したら、彼は溜息をついた。
「あー……ごめん。かなでの会社って、この時期にも年度末があったんだよね……。すっかり忘れてた。怒ってごめん」
忘れてたのかよっ! という言葉を呑み込みながら彼の肩に頭を乗せると、空いていた手で私の頭を撫で、唇に軽いキスをした。
「……わかってくれたならいいけど。それよりも、今日は何が食べたい?」
「もちろん、かなで」
「私は食料じゃないってば。真面目に答えてよ。じゃないと、夜のデザートはお預けよ?」
「久しぶりにかなでに会えたのに、それは困るなあ。じゃあ……」
困ると言いながらも、彼は全然困っていない。
二人してコーヒーを飲みながらも冷蔵庫の中身をあげて行くと、「久しぶりにちくわやしいたけの天ぷらが食べたい」と言う。出張先にも日本食を出すレストランがあったけど、彼が食べたかった食材の天ぷらがなかったらしい。
だからこそ食べたいそうだ。
もちろん、ちくわもしいたけもあるし、エビもナスもししとうもある。さつまいもはないからその分レンコンやカボチャに変えた。
テーブルの上で揚げられる電気のフライヤーを使って目の前で揚げることに決め、二人で材料を切ったりご飯を炊いたり天つゆを作ったり、お吸い物や箸休めの浅漬けを作ったりした。残った天ぷらは、明日の夕飯に天丼にしよう。
二人で話しながら天ぷらを揚げて、揚げながら食べて。かなり楽しい時間を過ごした。
食後はそれぞれ好きなことをしながらも、私はスーツをバスルームに入れて換気扇を回し、忘れていた洗濯物を洗濯機から出すと、アイロンをかけるものが置いてある部屋に行ってそれぞれ分けた。畳めるものを畳んで置いておけば、いつの間にか彼が来てそれをしまってくれた。
それにお礼を言ってアイロンとアイロン台を出すと、残っていた洗濯物にアイロンをかける。それが全て終わるころには、九時を少し回っていた。
疲れているらしい彼が、珍しくあくびをしている。道具を全て片付けている間にテレビを消した彼に手を引かれて寝室へ行く。
二人して布団に潜り込むと彼は私を抱き締めた。
外の暴風雨はいつの間にか鳴りを潜め、明日の台風一過を期待させるものだ。
――その後。疲れて眠るのかと思った彼に、案の定抱き潰されたけどね!
饕餮的短編集 饕餮 @glifindole
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます