第59話 旅行

海の見える窓辺で、みゃーが本を読んでいる。

孝介さんは眠たげにテレビを眺め、時おり申し訳なさそうな目を私達二人に向けた。

「孝介さん孝介さん、海岸の生き物を観察してきていいですか?」

みゃーが窓の外に目を向けた。

雨だけでなく、風も強そうだ。

「いや、こんな天気だし、海岸は危ないだろ」

孝介さんが、また申し訳なさそうな顔をする。

「この天気は、何も孝介さんのせいではないのですが?」

「いや、そうは言っても、日程を決めたのは俺だし……」

この夏は海へ行こうと言い出し、この日とこの日は空けておけよ、と勇んでいたのは確かに孝介さんですが。

「水着ギャルが見られなくて残念でしたね」

気落ちしている孝介さんを慰める。

「そんなことで落ち込んでんじゃねーよ!」

「私とみゃーが、室内で水着になれば元気になりますか?」

「あ、いや……すまん。俺が落ち込んでたら、一緒にいるお前らも鬱陶しいよな」

「海の見える窓辺で本を読む。優雅で、なかなか味わえない非日常なのです」

孝介さんがみゃーに目を向けると、みゃーはニッコリ微笑んだ。

「そもそもホテルに泊まるという経験がほとんど無いので、それだけでワクワクですが」

孝介さんが私を見る。

「そうか。うん、そうだよな。いつも山に囲まれた辛気しんきくさい古い民家に暮らしてるんだから、開放的な海のそばのホテルというだけで、少しは楽しめるよな」

いや、誰もそこまでは言ってませんが。

「ただ、これが漫画やアニメなら、海というのはサービス回でして、苦情が殺到しますね」

「は?」

「ほら、次回、海水浴! となっていたのに、ふたを開けてみれば水着が出てこなくて、ホテルの部屋でしゃべってるだけ、なんてことは読者や視聴者が許さないのです」

「はは。まあ俺としては、お前らの水着姿はあまり他人には見せたくないから、こんな天気でもいいかなぁ」

ぐはっ!

「うっ!」

おや、私だけでなく、みゃーも密かに悶絶もんぜつしている。

こういう孝介さんの、普段は寛容なくせに時々ナチュラルに発揮される独占欲は、私達にとってなかなかの破壊力であります。

「ま、まあ腹が立つことがあるとすれば、部屋を二つ取ったことでしょうか」

「いや、それはほら、男一人に女二人で一部屋って、さすがに従業員も変に思うだろうし」

「何を今さら。部屋が別でも、いい歳をした男が美女を二人連れて泊まりに来た時点で顰蹙ひんしゅくものですよ。この雨は、従業員の怨嗟えんさの雨なのです」

「そうか、そうだな。俺は人から恨まれるくらい素敵な嫁さんが二人もいるしなぁ」

ぐはっ!

「ぶっ!」

おや、私だけでなく、みゃーも夫のアホさ加減に噴き出している。

ホテルの従業員が、いちいち女を二人連れた客を恨んでいたら商売にならないのです。

でも、こういう素直というか愚直なアホっぷりに、妻は時として萌え死してしまうのです。

「というわけで、私は港町の散歩に行ってきます」

「港町なら……まあいいか。あまり海には近付くなよ」

「あいあいさー」


近代的なホテルや砂浜周辺の浮わついた雰囲気とは裏腹に、港町には寂れた民家が建ち並んでいた。

長年の潮風にり返った板壁や、びた自転車、雨音の向こうから伴奏のように響く潮騒しおさい

路地の向こうには海が見え、ひさしの上からは猫が胡散臭うさんくさそうな目をこちらに向けている。

見慣れない風景に、私はワクワクしながらてくてく歩く。

民家の屋根の向こうに石段と鳥居が見えたので、坂道を上ってそちらに向かう。

傘をくるくる回しながら入り組んだ小道を抜け、どこか柔らかな気配をたたえた神社前へ。

お邪魔します。

鳥居をくぐり、石段を数えながら一歩ずつ高みへと進む。

振り返ると海がぱーっと広がって、大海原おおうなばらという感じを伝えてくる。

……まあ、ホテルの窓から見る海と、さして違いはありませんが。

でも、窓越しとは違って、防波堤に波がくだける音が、どどーんと迫ってくるのです。

二つめの鳥居をくぐり、お賽銭さいせん箱に小銭を入れて、例によって家内安全無病息災天下泰平をお祈りしておく。

ついでに、きっと海の神様でしょうから、明日は海が穏やかでありますよう、強く要望しておく。


お参りを済ませ、神社から見えた漁港に向かって歩いていると、正面から犬を連れたお婆さんが坂道を上ってきた。

「こんにちは」

「ああ、こんにちは」

海辺に住む人は、けるのが早いという。

潮風や日照がそうさせるのだろうけど、深く刻まれたしわは、より柔和な面差おもざしを描いていたし、深く曲がった腰は、実りの秋の稲穂みたいに豊かな人生を思わせる。

「せっかく海に来たのに、生憎あいにくの雨で残念だねぇ」

声もまた、柔らかくて豊かだった。

「いえ、雨もまた風情があって楽しいです」

「そんなもんかねぇ。でもあんた、楽しいっていうより幸せそうに見えるよー」

孝介さんは、近所の色んなところへ連れて行ってくれる。

でも、三人で改まって旅行をするのは今回が初めてだ。

私はよく判らないけれど、農業が軌道に乗ったのは最近のことらしい。

孝介さんは、じっとこらえて、それを申し訳なく思いながら、旅行に行ける日を計画していたに違いない。

「新婚旅行なんです」

そう口にして、何だか照れ臭くなる。

でも、ホテルの部屋は最上級だったし、きっと今夜のご飯もフルコースなのでしょう。

「へ? そりゃまたおめでたい。けど、だったら尚更晴れてたら良かったのにねぇ」

お婆さんは空を見上げる。

「好きな人と一緒なら、天気なんて関係ありません」

雨が降ろうがやりが降ろうが。

「あらあら、羨ましい。ところで、旦那さんは?」

「雨が自分のせいだと思って、ホテルでいじけてます」

「おやまあ。でも、嫁さんが笑ってたら、亭主なんてそのうち元気になるよー」

だったらいいな。

「はい。二人分の笑顔があるので」

「そうだねぇ、あんたの笑顔は二人分だねぇ」

私が二人分なら、みゃーは五人分くらい?

「私の笑顔は、主人がくれました」

「へー、そうかい。きっと素敵なご主人なんだねぇ」

いえいえ、それほどでもありますけど。

「お婆さんの旦那さんも?」

「ああ、私を置いて先にっちゃったけど、思い出だけで笑顔にしてくれるよー」

「……」

「これこれ、せっかくの笑顔を消したらダメでしょうが。さ、笑いなさい」

「でも……」

「あの人が待ってくれてるって思えることが、一番の幸せだからねぇ」

「……」

「もうじき、雨も上がるよ」

確かに、さっきより空が明るくなってきた。

「さ、笑って。旦那にとっちゃ、空よりもあんたがお天道てんと様だよ」

私は笑顔になる。

私を照らす孝介さんを、私も照らすのだ。

「お婆さん、ありがとう」

お婆さんの皺が深くなる。

それは幸せの深さみたいに、柔らかで、とっても温かかった。

さあ、私も幸せの深さを刻み込んで、孝介さんが待つホテルに帰ろう。

雨雲の向こうで、太陽はいつも笑っているのだから。

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タマちゃん日記 杜社 @yasirohiroki

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