第58話 墓守

水道栓が三つ並んでいる。

三つも必要なほど賑わっている光景を見たことはありませんが、出が悪いのでホースを辿たどって近くの谷川の取水口まで行ってみる。

あらら、流れてきた砂や枯れ葉が取水口をふさいでいました。

なかば水遊びのようにそれを取り除く。

冷やっこくて気持ちいい。

晴天続きではありますが、いつか降った雨がいま流れ出て、こうやって心地よく私の手をでるのだ。

おっと、すまぬ。

水生昆虫が慌てて逃げ出し、新たな隠れ場所を探す。

……さて、こんなものでしょうか。

涼しい谷側から離れ、水道栓のある場所まで戻る。

カンカン照りの空がまぶしい。

カランをひねると勢いよく水がほとばしって、私は笑顔になった。

備え付けのバケツを借りて、いちばん右の水道でその青いバケツを満たす。

零れた水を求めてか、濡れた地面にトンボが一匹。

それをしばらく眺めてから、えっちらおっちら重いバケツを運ぶ。

汗がしたたり落ちてきた。

私はバケツを置き、空を見上げて一息つく。

麦わら帽子のつばの向こうには、高く高く飛行機が飛んでいた。

草の匂いとせみの声。

また夏が来て、あの日がやって来るのだ。

ふと、気配のようなものを感じて、辺りを見回す。

見慣れた風景。

ひっそりと息づくように立ち並ぶ墓石。

「どーもどーも」

私はそんなことを言いながら、バケツを持ち上げ、墓地の奥へと進む。

怖さは無い。

目を細めてしまうくらいに明るいし、何かの気配も慣れ親しんだもの。

それにここは、私の居場所でもある。

いつか私も、みなさんと一緒にここで眠るのだ。

「どーもどーも、こんにちは」

いつもと同じ挨拶をして、城塚家のお墓の前にしゃがむ。

柄杓ひしゃくで水をかけ、手のひらで汚れを落とす。

文字が刻まれたところは、指でなぞるように念入りに。

考えてみれば、私は公的には多摩美月のままで、学校でも役場でも城塚美月と書くことは無いから、お墓に刻まれたその文字をなぞることはちょっぴり嬉しいことでもある。

うむ、綺麗になってキリッと引き締まりました。

しおれてしまった花も取り替えましょう。

と言っても、持ってきたのは道中でんだ夏の野草ですが。

ヤブカンゾウ、ソバナ、ヒメジョオン。

この辺ではありふれた草花だけど、橙色と紫と白とで賑やかになりました。

まあ色合いとかバランスとかは知ったこっちゃないのです。

ついでに周辺の雑草もむしっておきましょう。

……。

みーーん、みーん、みーん、みーん、みーーん。

……。

みーーん、みーん、みーん、みーん、みーーん。

……このくらいでいいか。

おっと、いかん、藤田さんが汚れてらっしゃる!

どこの誰かは存じませぬが、いえ、藤田さんということは判っていますが、うちの近所に藤田さんはいないのです。

とはいえ、いずれ同じ場所で眠る先輩にあたるお方、洗っておかねば。

ああっ、中森さんもそんなに汚して!

いったい何をしたらこんなに泥が付くのでしょうか。

中森さんちのお爺ちゃんは、私達がこちらに来てから亡くなったとはいえ面識はほとんどありません。

ただ、深夜徘徊で家族が困っていたというから、いまも夜な夜な歩き回っているのかも知れませぬ。

現役を引退しても、やはり農家の人は畑が気になるようで、だからきっと泥で汚れてしまうのでしょう。

あら、もう一度、バケツに水をんでこなければ。

私は立ち上がって、また空を見上げる。

……それにしても、いい天気ですねぇ。

空は宇宙で、その先に果てが無いのに、私達には限りがあって、それが当たり前に普遍的なことであるのが信じられません。

それはひどく身近な、でも絵空事のように実感の湧かない非現実的な現実、非日常的な日常。

やがては訪れる別れは、絶対に揺るがない既定事項だし、誰もがそれを知っています。

自分が死ぬこと。

愛する人が死ぬこと。

明示された避けようが無い答を前に、人はどう折り合いを着けるのでしょうか。

でも、そのことに慄然りつぜんとすると同時に、私はある種のよろこびをも感じるのです。

共に生き、この地に骨を埋める。

限りある生だからこそ、辿り着いた答に尊さと幸せを感じる。

……墓地に来ると、つい、そんなことを考えてしまいます。

果てしの無い空の下で、蝉が鳴き、夏草が香る。

私は汗をぬぐい、墓地を見渡した。

さあ、掃除を続けましょうか。

あなたにとって悲しい夏は私にとっても悲しいけれど、あなたと私が共に生きて、共に歩んで、この緑豊かな眩しい季節を、更に色濃く彩っていきましょう。


「美月ー」

おや、どうして私の居場所が判ったのでしょうか。

まあ、私の居場所はあなたの居場所でもありますが。

「孝介さん孝介さん」

私が駆け寄ると、何故だかあなたは墓地を見渡して、嬉しそうなのに泣きそうな顔をした。

「お前は、墓守みたいだな」

「はかもり?」

「お墓の維持管理をして、守ってくれる人のことだよ」

あらら、では、私を守ってくれるあなたは、墓守守?

「もりもりですね」

「は?」

誰かが誰かを守ったり、何かが何かを維持するように、継がれていくものがこの世にはあるのでしょう。

「そういえば孝介さん」

「ん?」

「お墓の周辺にはお地蔵さんが沢山あってですね」

「うん」

「その中に子安地蔵を見つけたのです」

「ああ、そういやそんなのがあったなぁ」

安産や子沢山を願って、お地蔵さんは赤子を抱いている。

なんで墓地に? と思ったけれど、生と死は合わせ鏡なのでしょう。

私達の後を、継いでいく子達。

「ついでに安産祈願をしておきました」

「そ、そりゃ随分と気が早いな」

「イクのが早い人が何を言ってるのですか」

「関係ねーだろ!」

私は微笑む。

生も死も関係無く、いま笑えることと、あなたと未来を語れること。

ああ、それは怖いほど素敵なことなのです。

何年先になるか判りませんが、あなたに似た優しい子が、この世に産声を上げるのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る