踏みつけの写真

葉月 望未

踏みつけの写真




生徒たちが楽しそうに話しながら廊下を歩いている中、私は教科書やらを抱えながら職員室へ戻ろうとしていた。


昼休みがそんなに嬉しいのか、大きな足音をたてながら「早く行こうぜ」と弾んだ声で友達に笑顔を見せる男子生徒に口を開きかけて、ぎゅっと閉じると声が舌の上で割れた。


 廊下は走らないこと。そう注意をしなければならないのに声が出ない。


 ……私ったら駄目ね。学校は教育をする場所なのに注意の言葉が出ないなんて。——でもさ。と、先生じゃない女性の私が言う。


 でも、大人だって皆走ってる。むしろ常に走りなさい、急ぎなさい、と言っている。


 日に日に肩は重さをましていき、足は上がらなくなってきて最近はずるように廊下を歩いている。


心の疲労は、心臓が傷ついて、泥みたいに重たい血液がどろどろ流れ出ていく。


傷から溢れ出た血は望んでないのに体内循環されていき、やがて心の傷は体までも侵していく。



 きっと自分が思っている以上に疲れている。


だから変なことばかり考えてしまうんだ。



でも、「先生」の仕事はそれなりに好きだし、まだ頑張れる。頑張らないと。

うん、だって、この仕事好きだもの。頑張れる。



 生徒たちの足が視界から消えていく。ぼんやりとした視界は廊下の固まった埃と四角い小さな紙を景色として捉えて、それから生徒が何人か横を通り過ぎていくその間に、ピントが紙に合った。



 近くまで行って拾うと、それは裏返しになった写真だった。


誰かに踏まれたのか、裏の白い面には上靴の砂や埃の茶色い跡がくっきりと残っていた。




 手首を回して写真を見ると、排水溝が大きく真ん中に写っていた。コンクリートの濃い灰色で敷き詰められた写真の中の彩りは、雑草の深緑と散らばるオレンジ色。


どうしてこの部分を写真として切り取ったのか、私には全くわからなかった。



 これは生徒の写真かしら、と首を傾げる。


でももしかしたら先生の誰かが趣味で撮ったものかもしれない、と思い、ハッと顔を上げた。



『写真部』のプレート。

落ちていたのは写真部が使用している教室の前だった。


中から物音が聞こえてきて誰かいるのだとわかり、扉を遠慮がちに3回ノックをする。——物音が止まる。けれど、中から返事はない。



「失礼、します」



 ゆっくり扉を開けると、中は電気がついていなくて日の光の明るさだけだった。


物の影がうっすらと教室に広がり、僅かに暗く、けれどその暗さは落ち着いた静けさを連れてきていた。


時間の流れが此処だけゆったりとしているようだった。



「誰もいないんですか?」


 そこに人の姿はなかった。でも確かに気配はしたのに。

可笑しいな、と教室に足を踏み入れ、扉を閉める。



 真ん中に置いてある大きな机の上には写真がいくつも散らばって、それはカーテンに近い床にも何枚か散らばっていた。カーテンが、微かに揺れる。



「写真が廊下に落ちていたので、届けにきました。机に、置いておきますね」



 カーテンから感じる人の気配へ声をかける。


上履きの跡に触れて払ってみたけれど、汚れはやっぱり取れなかった。



机に写真を置いて、動きを止める。と、俯いた所為で髪が前へはらりと垂れてきた。


本当に、どうしてこの景色の部分を切り取ってシャッターをきったのだろう。



机の上には住宅街の坂や塀、夜の光の部分、といった日常の写真が置いてあった。


「日常」と自分の中で表現したけれど多分適切な言葉ではないとわかる。


私が知っている表現では上手く言い表せないけれど、日常を写真に撮っているはずなのに生きている感じが色濃く感じられる、とでも言えばいいのか。


それも幸せに生きているんじゃなくて、何とか生きている、気持ち悪いくらいに生を感じるものだった。



「じゃあ、失礼しますね」


芸術、は考えてもわからないか。と私は顔を上げた。


 髪を耳にかけてカーテンの誰かへ、そう声をかけた。


返答はないとわかっていたのでそのまま教室から出ようとすると、後ろからごにょごにょとくぐもった声が聞こえてきた。



「え?あの、もう一度」



 声は一瞬止まって、それから「どう思いますか」と掠れた低い男の子の声が心許無く聞こえてきた。



「写真のこと?」



 カーテンが小刻みに揺れて、彼は中で何度も頷いているようだった。


 もう一度、机の上に広がる住宅街に目を落とす。


どう、と言われても。


感想を言おうにもどう言ったらいいのかわからない。


それにこの年頃の子どもは繊細で、人の言葉を全て吸収して自分の体の中で分解してそれが自分の感情の一体どこに属されるものなのか当てはめる。


だから繊細で壊れやすくて、私は言葉を一生懸命探して選んでいた。



「そうね、貴方にしか撮れない写真な感じがして、とても、いいと思う」



 なんて薄っぺらい感想なんだ、と思う。


けれど生徒を傷つけないようにする言葉では踏み込めない。


簡単に傷つけてしまいそうで怖い。


しかもこの子は人が入ってきただけでカーテンに隠れてしまうような子だ。

他の子よりも繊細なのだろう。



「本当にそう思いますか?ある人にはどうしてこんな場所を撮るのか意味がわからないって言われて」



 声がクリアになって、私は写真から顔を上げようとして一瞬躊躇した。

彼の顔を見ても大丈夫なのか心配になったからだ。



「だ、誰かに認めて欲しいわけじゃないんです。だって、僕は、僕は好きで撮ってるんだから。でも、そう言われて悲しくなった。自分の写真が、き、嫌われているみたいで」



俯いて、カーテンを左手でぎゅうっと握って、早口の小さな声で私に伝えてきた。握られたカーテンからは強く濃い皺が、手から広がっている。



彼は思っていたよりも長身で、細かった。

だぼついた制服は彼の華奢な体に合っていないことが容易にわかる。前髪は目の上にかかり、表情がわかりにくい。けれど見えている肌にはニキビ一つなく綺麗だった。



「人には好みがあるでしょう?貴方の写真を嫌いな人もいれば好きな人もいる。その人にはたまたま貴方の写真が合わなかっただけ」



 廊下を歩く女子生徒の足音が近くなって離れていく。話し声や高い笑い声もやがては聞こえなくなった。


 彼は更に俯いてカーテンの皺を薄め、「そう、ですね……。」と今にも消えてしまいそうな声で言った。



「先生、持ってきてくれた写真ってどれですか?」


「……これよ」


 不意に顔を上げた彼の目は不安に滲んでいた。

前髪の影がかかっているせいで余計にそう見えるのかもしれない。


金木犀きんもくせいの、そっか。そっかあ」


 初めて見た笑顔に胸が苦しくなった。

担任でもないし、受け持っている教科もない、あまりよく知らない生徒なのに。


なんて顔をして笑う子なんだろう。


ひどく傷ついた顔をして、諦めたようにへらりと笑う。


悲しいのか苦しいのか私には汲み取れないけれどきっとどちらかの、又は両方の思いで、彼は引き攣った顔をし唇を微かに震えさせて、それでも笑っていた。


踏みつけにされた写真の、上靴の、茶色い跡に触れながら。



私はそれまであの写真のオレンジ色に目がいかなかった。


色も、そこにあったこともわかっているのに、目ではきっと捉えられていたはずなのに、心も思考もそこまで及ばなかった。存在しているはずなのに、見えていなかった。オレンジ色が何なのかすら、気に留めていなかった。





「拾ってくれて、ありがとうございました。

これ、僕がよく撮れたと思った写真なんです。でも、他人にとってはそんなのわからないですよね。だからこうやって踏まれるんだ。

僕がどんなに大切にしているものでも、他人にとってはどうでもよくて、でもその他人にもきっと、大切にしているものはあると思うのに、どうしてこの写真はもしかしたら誰かの大切なものだって、思わないんだろう」




 カーテンを握ったまま私から写真を受け取った彼は、そこでやっとカーテンを離した。教室の薄い影の上にカーテンの影が被る。



 ひらひらとカーテンが揺れるのを見ながら、私はその写真を踏んだ誰かになっていた。


瞬きをぱちぱちとしても目が乾く。喉が乾く。罪悪感に苛まれる。



彼の写真を踏んだのは私じゃない。けれど、踏みつけにした誰かと同じことを私は、きっとしていた。


身に覚えがないのがとても恐ろしく、それこそ確信にも近い罪の証拠だった。私は彼が思うようなことを考えたこともなかったのだ。



君の方がよっぽど先生ね。と唇から、心と声の境目、誰にも聞こえない声が零れ落ちていく。



「でも先生は僕の大切なものを拾って、届けてくれました。ありがとうございました」



 彼は嬉しさで笑うことに慣れていないのか、やっぱりぎこちない笑みを浮かべた。けれど、彼の動きで前髪が揺れ、間から見えた目元は柔らかく伸ばされていた。笑顔で目が細くなっている。





 そんな笑顔を見ていたら、最初を思い出してしまうじゃないか。——


 私は彼のような不器用な生徒の、上手く周りと溶け込めないような生徒の助けになりたくて教師になった。


昔の私がそうだったから、私は彼らの気持ちが他の先生よりもわかるのだと自負していた。


でも人間は当たり前だけれど、一人ずつ違う。

同じことが身に起こったとしても感じることは全く違うかもしれない、のに。



 昔の私は、前だけを見て歩いていた。大きな声で注意だってしていた。


ずんずん歩いて、目をカッと見開いて、兎に角必死だった。



「私ね、学生の頃、学校が大嫌いだったの。でも教師になったら好きになれるかもって思ってた。好きになりたかったんだと思う。だって嫌いってことは少なくとも気に留めてるってことだもんね。私の場合は百パーセント、好きになりたかったってことよ」


「先生?」


 きょとんとした顔で彼は私を見た。さっきまで目を合わせるのを怖がるように何度も逸らしていたのに。



「ううん、こっちの話。ちょっと先生らしいこと言ってみるね。君、名前は?」


小波こなみです」




「小波くん。あのね、私は今とても心が疲れているの。

君もきっと写真のことで心に引っかかる嫌なことを言われて少し落ち込んでいる。だから私にその違和感を話してくれたんだよね?

でも私、ずっと思っていることがあるの。

それはね、世界がきらきらに見えて前だけを見て進んでいる時、何もかもが上手くいくって思う時、逆に、疲れて何もかもがどうでもよくなって無意味に思えて何も上手くいかないと思う時、疲れて頭がぼうっとして帰り道このまま消えればいいのにと思う時。自分の感情や状態ってその時々で違うでしょう。

それはつまり、その時その時で見えるものも感じるものも違うってことだと思うの、私は。だから考え方がどんどん増えていく。小波くんみたいにね」




 机の上の写真たちへ目を落としていた私はゆっくり顔を上げる。


すると小波くんは頷いて小さな声で「はい」と相槌をうってくれた。ちゃんと聞いてくれているということは話す相手にとって安心することで。




「私、疲れて足取りが重くなかったら、この金木犀の写真に出会えていなかったかもしれない。見えなかったかもしれない。だから、疲れに感謝ね。

小波くんも、自分が思ったことは大切にしてね。思ったこと全部がこれからの自分を作っていくのよ」




 小波くんは掠れた声で返事をしてくれた。



 太陽の光が雲に隠れて、教室の影が一層濃くなる。



 小波くんは俯いた。その所為で彼の前髪が彼の表情を、隠す。




「先生、自分の言いたいことだけ言って僕を諭した風になっていますけど、それは先生の考えであって、僕には僕の考えがあります。なので」



 光が当たらない教室の冷たさがびりっと体に駆け巡った。






「先生こそ、疲れや怠さをまるで正当化するようなこと言っていないで、ちゃんと休んだらどうですか?」





 雲に隠れていた太陽が顔を出して教室に日が差し、写真たちを照らす。影は薄くなり、あったかさがじんわりと広がっていくようだった。




「小波くんって、本当に不思議」と、私は笑ってしまった。


そしたら彼は首を傾げて不快そうな顔をしたけれど、それでも私はお構い無しに笑った。



 やっぱり、今時の生徒って本当にわからない。


カーテンに隠れていたと思ったらすごくはっきりと話し始めるし、本当に、意味わかんない。


でも、毎日、毎日、嫌な思いをして、それが体の不調として表れて。

そんなの、おかしいんだ。




「ねえ小波くん、金木犀の写真、貰ってもいい?」







 私は驚いた顔をしながらも頷いてくれた小波くんから写真を貰い、



それからほどなくして、




——教師を辞めた。





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