11.シュガーソウル-2-
正面入り口から入ってすぐの<玄関ホール>は、ホテルのフロントにも病院の待合にも役場のエントランスにも似ていたが、それより奥は殆ど学校風と言って差し支えなかった。実際、ここは学校でもあるらしい。授業の持たれる教室が並んだ学舎と、衣食住に必要な設備が整った宿舎に大きく分かれている。暮らしているのは概ねが少年少女で、その世話に必要な数だけ大人が居るといった具合だ。教師を除く大人たちはまるで影のように存在感が薄い。
「ああもうっ、こんなのわかるわけない」
エクスクラメーションマークが幾つもついていそうな口ぶりでトラエが言った。手にしていた羽付きペンを投げ出し、両手を意味もなくバタつかせて机を叩く。癇癪を起しているらしい。あんまり乱暴な仕草なので近くのインク瓶がひっくり返るのではないかと傍目に気が気でない。自分の机を汚すのは勝手だが、こぼれたインクでプリントが染まってしまっては、そこまで我慢して取り組んだ宿題がおじゃんである。それもまた彼の勝手ではあるものの、ちょっと不憫だ。
「だいたいこんなのいつ、どこで、どう役に立つってんだよ」
ばん、ばん、ばん、と台詞に合わせて彼は憎い敵でもやっつけるみたいに机を叩いた。
「どうかな、役に立たないこともないとは思うけど。無理に役立てることもないかもね」
当たり障りのない返事をする。別にトラエだって本気で質問しているわけではないだろう。――と、ぼくは思ったのだけれど。
「馬鹿を言うなよ。知識があるに越したことはない。重力加速度の計算ができれば得物を落下させてから的に当たるまでの時間が推測できるし、溶解液の濃度が計算できれば必要以上に薬物を消費せずに済む。比率の計算ができれば想定より標的の数が多かった時に追加するべき物量がすぐに割り出せるし、三点測量ができれば目標までの距離が遠距離からでも計算できる。役に立つことばかりじゃないか」
つらつらと言ったのはトラエとは反対側の机に向かっていたシューだ。彼はイスに座った体を反転させて、組んだ脚の上に肘をついて細い指を口元に添えた。手足が長く、すらりとしている。驚いたことに、初対面の時は三つ四つ年下に見えたトラエだが、実際はぼくよりひとつ年下なだけだった。小柄でしかも目が大きいから幼く見えるようだ。そのトラエとは反対に、シューは実際より数歳は年嵩に見える大人びた少年だった。ちょうど階段状にトラエ、ぼく、シューと年齢がひとつずつ違う。
教師が板書するみたいに淀みなく、且つ長々と答えたシューに対し、トラエは大仰なしかめ面をして見せた。
一応断っておくけれど、トラエが取り組んでいる宿題はシューが話したような物騒な内容が出題がされているわけではない。乗除、つまり掛け算と割り算の式ばかりが載った計算問題である。文章題ですらない。ぼくの認識で間違いなければ、凡そぼくらの半分の年齢の子たちが学習する内容だ。どうやらトラエは勉強における頭の出来が絶望的らしい。むしろ壊滅的と言った方がいいかもしれない。とても失礼だけど。なにしろ自分の名前の書き順すらもあやふやなのだから。
「だぁから、いつ、どこで、どんなふうにその計算が役立つんだよ。薬の分量を節約したからなんだってんだ。経費が浮いて助かりましたねって? それとも致死量ぴったりに使用するなんて芸術的ですねってこと? 誰が誰に言うんだよ。そんなのどうだっていいじゃないか。毒は毒だろ、ドバドバぶち込めよ。三点測量って、んな計算してる暇があったら距離くらい一目で目測しろよ。まだるっこしい。そっちのがよっぽど馬鹿だぜ」
捲し立てたトラエの台詞に今度はシューがムッとする。はたで見ている限り二人の相性はあまりよくない。なのに仲良く一緒に宿題すのだから、彼らの関係性は不思議だ。
「価値観の相違だな」
シューは何か言い返そうとしたようだったけれど、開きかけた口を一旦閉じてそう言い直した。多分、こんなやり取りは日常茶飯事なのだろう。言い争ったところで恐らく会話は平行線をたどるばかりに違いない。で、トラエの本当の目的はそうした会話で時間を費やし、宿題をする時間がなくなってしまうことだ。つまり、彼は単にもうこの課題に飽きて投げ出したがっているだけなのである。
とは言え、まだ昼過ぎなのだし、就寝時間を迎えるまで口論を続けるほうが大変だとも思えるけれど。
「せめて半分はやれよ。じゃないとまた先生に怒られる」
シューは言い置いて再び体を反転させると、自身の宿題に戻った。
「べっつにぃ。怒られたっていいし」
挑発に乗ることなく、矛を収めたシューの賢い判断にトラエは不満いっぱいに子供じみた物言いをする。机に投げ出していた羽付きペンを拾い上げると、ペン軸を尖った八重歯でがじがじと噛み始めた。インクの染みている部分だからなんだか体に悪そうだ。確かインクって虫の体液とか鉱物の粉末からできているのじゃなかったっけ。
「少し外の空気でも吸ってみる? 気分が晴れるかも。散歩に行かないかな」
控えめに提案してみた。
正直を言えば宿題に飽きているのはトラエだけじゃない。シューはどうだか知れないけれど。
ぼくの机の上には大判のプリントが一枚、広げられている。図に関する出題だ。この展開図を組み立てるとどんな形になるかとか、この立体をこの面で切ったとするとどんな断面図になるかとか、この平面図をこの辺を中心に回転させるとどんな形になるかとか。うんざりするような問題ばかり。
「さすがルク。話が分かるよな。頭の固いオベンキョーの虫はほっといて、ふたりで行こうぜ」
意気揚々とトラエは同意を示して席を立つ。
「どうしてぼくだけのけ者なんだ。付き合うよ」
シューもすぐさま立ちあがった。結局二人が先行する形で、ぼくは一拍遅れて彼らに続く。最後尾になってしまったため、部屋を施錠する役割をした。
扉を閉める直前、室内を一通り見渡す。正面に瀟洒な出窓。白い木の窓枠に、潤んだような波打ちガラス。淡い色味のカーテンがふわりと揺れていて、窓が開いていることに気づいたけれどそのままにした。
出窓を挟んで壁際にベッドが二つ、足の方を向け合って置かれている。それぞれの枕元に小さな棚。その手前に机とイスが配置されている。机は各々壁に向かっていて、イスに座るとお互い背を向け合う格好だ。右手側がトラエの空間で、左手側がさっきシューが使っていた場所。トラエの机の隣には本棚を挟んでもうひとつ机が並んでいる。そこには図に関する問題プリントが広げられたままだ。手前に小さい棚、さらに手前にベッド。そこがぼくの寝床で、つまりトラエとは机や棚を挟んで隣同士に寝るルームメイトということ。部屋は三人用になっていて、ベッドやなんかのない左手前の空間にはクローゼットとキャビネットが据えられている。それらは共用だ。
宿舎ではどこの部屋も似たり寄ったりであるらしい。さしずめ合宿所だ。相部屋という時点で個人に対するセキュリティはないも同然だから、施錠は単なる習慣上の行為に過ぎず、窓が開いてたからといって、わざわざ戻って閉じるほどの必要は覚えない。実際、トイレやバスルームに行くときなんかは鍵をしないまま出掛けることもしょっちゅうだ。盗むほどのものもないだろう。持ち物は大抵ここの支給品だし、みんな、特別大事なものとか貴重品は肌身離さず携帯するようにしているはずだ。それか、そもそもそんなものは持ち合わせていないか。
カチャリと錠の落ちる音を確かめてから扉を離れると、二人はもう先に進んでいて、廊下の曲がり角のところで待っていた。トラエが片手を高く上げて、急かすジェスチャーをする。その隣に佇むシューの立ち姿は洗練されていて、なんだか似通らない兄弟みたいに見えた。
尻ポケットに鍵を滑り込ませて、急ぎ足で彼らのもとへ向かう。置いてけぼりはごめんだ。なにしろ方向音痴だから。図の問題が苦手なぼくは、地図や図面も大の苦手だ。この建物はとても大きく、来たばかりなのも手伝ってどこがどう繋がっているのか全体像が把握できていない。慣れるにはまだかかりそうだ。
ぼくが追いつくのを待って二人は並んで歩き始める。ついさっきしかめ面を向け合ったばかりで、もうなにかしら楽しそうに会話していた。トラエは気紛れな気分屋だ。シューは頑固そうに見えて意外に寛大で柔軟性がある。案外、いいコンビなのかもしれない。
妙に渋い赤茶色のリノリウムが木造を思わす廊下を歩く。学校の廊下に似た窓がずらりと並んで、日差しが斜めに差し込んでいる。
少年幻想 刎ネ魚 @haneuo2011
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