10.シュガーソウル

 坂の入り口に看板があって、まるで観光地の案内地図みたいだった。坂道は長い下り坂で、そのほぼ一本道の道沿いにある建物や店屋さんなどの名前が逐一記されているのだった。この町はなんだか粉っぽい。カサカサと乾いている。

 <キルダーガーデン>という文字がひときわ大きく書かれていた。その幼稚園みたいな菜園みたいな名前の場所が目的地だ。妙に素朴な木組み風の書体で記されている。坂のちょうど真ん中あたりだった。

 歩くのは悪くない。でも急な坂道だから自転車があれば颯爽と駆け下りられて良かったなとは思う。いずれ手に入れてもいいかもしれない。けど、自転車は下りはいいが上る時が面倒そうでもある。足腰を鍛えるにはよさそうなものの、やたらとぶっとい太腿や脹脛なんかになるのはごめんだ。

 風が吹くと砂が舞い上がるような坂道の両側にいくつも建物がある。どれも小ぢんまりとしてやっぱりカサカサした風合いだ。木のデッキとか、土壁とか。空いている店も幾つかあるようだが、人通りはあまりない。店も、ご飯屋さんとかおもちゃ屋さんとかではなく、金物屋や八百屋など、近辺の大人が利用するだけの種類の店屋みたいだ。

 その合間に、突如、馬鹿みたいに大きな赤いレンガ造りの建物がそびえていた。三階建てか四階建て、瀟洒な破風屋根や出窓のある壁面、緑色をした立派な三角屋根を三つばかしも載せている。ご丁寧に金色の鐘のぶら下った丸い塔と風見鶏まで突っ立っていた。青銅の門扉にはツタ草風の浮彫で<キルダーガーデン>の装飾。なるほど、案内地図の文字の大きさはそのまま建物の大きさを表していたらしい。

 門扉だけでもゆうに両腕を広げた以上の横幅がある。鍵はなさそうだったので試しに押すと、キィとも音を立てずに開いた。てっきり真鍮がさびて緑色になっているだけかと思ったが、本当に青銅製なのかもしれない。随分手入れが行き届いているようだ。

 一歩中に踏み込みと、それまでのこなこなした町の気配が不意に途絶して感じた。青臭く、湿った匂いがする。木立があり、木陰があり、肥沃な土に下草が茂った場所の匂いだ。裏手に雑木林か畑でもあるのかもしれない。或いは、赤レンガの壁に這いまわるツル性植物の葉っぱのせいだろうか。緑と赤のコントラストが鮮烈だ。

 門扉から建物の入り口まで十数歩の距離を進みながら、見るともなく辺りを見回した。人影はないが人の気配は濃い。みな建物の中に居るのだろう。建物の左右には大きな樹木。一方がクスノキか何か、もう片方はポプラか何か。どちらも大きく高く枝ぶりを広げて青々している。太い枝の一本からロープと板でできたブランコが吊り下がっていた。本当に幼稚園みたいだ。まさか建物の向こう側は滑り台やジャングルジムのある裏庭になっていたりしなければいいが。

 赤レンガと幹の間をすり抜けて回り込んでみようかとも思ったがやめておいた。ひとまず建物の入り口に向かう。いわゆる正面玄関、フロントと言ったほうが適切だろうか。これまた立派な両開きの扉だ。今度は親指を載せるペダル付きのドアノブがついていたので、片側を手前に引いた。

 フロント、うん、フロントという表現で多分いいんだろう。ホテルの入り口からすぐの場所はそう呼ぶはずだから。ここはホテルではないけれど、雰囲気は似通っている。他に、病院の受付の手前の場所にも似ていた。その場合は『待合室』が適当だろうか。役場っぽい雰囲気もある。だとしたら『エントランス』に該当するのかも。なんにせよ、住空間ではない開けたフロアだ。ひとまず玄関ホールと呼ぶことにする。

 玄関ホールにはまばらに人の姿があった。人の数よりイスの席の数の方が多い。それこそ病院の待合室や役場の壁際にあるような、背もたれのない革張り風の長椅子が四、五脚ほども並んでいる。どれもやけに幼稚なパステル調のカラーリングだ。ミントグリーンとか、ペールブルーとか。幼稚だが陽気ではなく、矛盾するけど年寄りじみた感じもする色合い。

 右手に目を遣ると白い木枠で囲まれた、なにか薬局の受付みたいな窓口っぽいものが見えた。そこで声を掛ければいいのだろうか。なんて?

 プラタナスを無理やり伐って鉢に植えこんだみたいな観葉植物が暇そうに葉っぱを揺らしている。見上げると真上に空調機の吹き出し口があった。意外に天井が低い。窓口らしきものの脇に廊下が伸びている。手前からすでに陰がかかり、奥に行くほど薄暗く、闇に沈んで行く先の見通せない廊下だ。リノリウムの匂いがする。

 ここに来る前、立ち寄った場所のことを思い出した。あそこもやけに薄暗かった。老人は親切だったが、その薄暗い部屋のせいか陰鬱な印象のみ残して、顔かたちは陰に溶けている。背中の曲がった小柄な影がぼんやりと記憶の淵から浮かび上がる程度だ。太く低いテノールは加齢のためかしわがれていた。声の反響から考えてそれほど広い部屋ではなかったはずだが、四隅も壁も凹凸のない陰影のせいで輪郭が掴めず、深遠まで続いているようにも見えた。老人の声がしわがれているせいで響かないだけで、実際、壁なんてなかったのかもしれない。だとしたら、それは部屋ですらない、無限に虚無の空間だ。まさかそんなはずはないから、やっぱり単に薄暗い小部屋だったのだろう。

 老人から渡されていたものを取り出してみた。

「まじかよ」

 ヒュウッ、と口笛が鳴った。耳元のすぐそばで聞こえたその音と直前の声に、びっくりして振り返る。身じろぎして一歩後退った。今にも額がぶつかりそうな距離に顔があったためだ。

 猫目石みたいなキラリと琥珀色に光る大きな瞳が印象を残した。

「見かけないヤツだな。新顔? 自慢してんの? 恨まれるぜ? 嫉妬だけど。相手にする価値ないよ、相手になんないし。てか誰?」

 矢継ぎ早に言った。転げるような言葉と同様に、俊敏そうな体つきをした小柄な少年だ。幾つか年下に見える。猫に似ていた。台詞の支離滅裂さは彼の頭の回転の速さゆえだろう、勝手に展開していて、聞く側には飛び飛びで意味不明に響く。

 少年は背後からひょいと身を乗り出して、手元を覗き込んでいたのだった。

「ぼくはルク。今しがた到着したばかりなんだ」

 数歩分、距離を取って向き直り、少年の質問に答える。「トラエだよ」と彼は名乗った。

「これってそんなにすごいものなの? しまっておく方が良い?」

 手にしていたものを示して、トラエに尋ねる。別になんてことない布だ。厚手の少しざらざらした生地でできている。くすみがかった赤とブルー、生成り色のストライプ柄の、多分ストールか何か。巻いたらゴワゴワしそうなコットン地だから、テーブルクロスなのかもしれない。今はカバンに入る大きさに四角く折り畳んである。

 トラエは大きな猫目石を剥き出すようにして驚いた顔を作った後、おどけた仕草で肩を竦め、トントンと指先で自身の腿の辺りを叩いた。ちょうどぼくの鞄がぶら下がっている位置だ。さっさとしまえと言うことらしい。

 素直に従った。

「それにしても、おまえがねぇ。へえ~、ふぅ~ん」

「なに?」

 すでにお前呼ばわりされていることは気にしないでおく。他人と親しくなるのにかける時間はひとそれぞれだ。トラエは一足飛びするたちなのだろう。頭の回転が速い者はえてして行動の展開も早い。感情の推移も同様だ。

「とてもそうは見えないってこと。ボンヨウ? ヘイボン? っての? 地味だしパッとしない。ちっとも強そうじゃないもんな」

 途中で変換に迷うような棒読みの箇所があった。頭の回転は速くてもあまり賢くはないのかもしれない。

「別に強くはないと思うよ」

 ぼくが告げると、彼はキラキラする目で面白そうにこちらを真っ直ぐ見て、片側の口角だけを高く上げた。そうすると皮肉屋っぽい印象になる。猫を思わす可愛らしい顔立ちと不釣り合いで、その崩れ方に好感が持てた。

「強くなくてどうしてそれを持ってるんだよ」

「さあ? くれたから貰ったんだけど」

「なんだよ、それ。ケンソンってやつ? やっぱり自慢じゃないか。やめとけよ、嫉妬って怖いんだぜ。背中からドスッってね。自業自得。はいさようなら。つまんねぇよな」

 彼の言葉につい笑いがもれる。風変わりな言い草をする少年だ。

「そうだね、嫉妬されて寝首を搔かれたんじゃ面白くない。これはもう人前では出さないようにするよ。でも本当になんだかよく知らないんだ。ここのことも、来たばかりで右も左もわからない。よければ案内してくれないかな」

 この申し出に、彼は「もちろんいいぜ」と気安く請け合った。見た目の通り、好奇心に満ちた少年らしい。新顔を見つけていち早く首を突っ込まずにはいられないくらいに。そのうえあっけらかんとして、精神的な意味でも身軽なのだろう。もしもここでぼくが彼を迷惑がったら、彼はあっさり身を引いたに違いない。執拗さとか陰湿さとかとは無縁の、こだわりのない、言い換えれば根気のないクチだ。

「まずはこっちだ」

 先に歩き始めた少年の後を追って、窓口らしき方へと向かった。するりと長い彼の手足が、玄関ホールを滑ってゆく。本当に猫のように足音を立てない歩みだ。頭の後ろで組んだ指の関節や、曲げた両肘が鋭角を刻んでいる。軽装に隠れた背中は華奢で薄っぺらだ。肌には骨の在り処が陰影を描いていることだろう。はしこそうなその体は柔軟性にも富んでいるのだろうか。猫のように高所から落としてもくるりと反転して軽やかに着地するのだろうか。連続写真に焼きつけられた美しいフォルムが脳裏に浮かぶ。自重に耐え兼ねて焼けただれたみたいに擦りむけた肉球の映像も浮かんだ。

 惨酷なのは好きじゃない。血の滲んでいるのを洗って軟膏を塗ってやろうとしたら、ひどく嫌がられて引っかかれたのを思い出した。あの断末魔のような鳴き声、死に瀕して助けを求めるような。陰惨なのも趣味じゃない。濃くて重い空気は喉にねばっこく息を塞ぐから好きじゃない。それよりは、耳鳴りがするほどの空っぽな静寂が心地いい。

 この町の空気は乾いている。この建物の敷地は青臭く湿った匂いがする。この玄関ホールの風景は幼稚で年寄くさい。この場所で出会った少年は軽妙で明るい。ここで過ごしてゆく時間は、たぶんきっと楽しそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る