柘榴に野薔薇

文綴りのどぜう

柘榴に野薔薇

油照りの続く8月、1人の男が、重く堅い鉄扉に手をかけた。季節にそぐわない厚いコートを羽織り、額には汗が滲んでいた。身元が曝されては仕事に支障が出る、たとえ鼻のかたち一つとっても、あまり見られたいものではなかった。それに、ここで働く自分や他の調教師は元々、出自に曰くのある者がほとんどだ。契約の時、「必ず表向きは社会に溶け込み、決して通常の生活を忘れたり、問題を起こしてはならない。この業務に従事することは何人にも、たとえ血の繋がった者にも知られてはならない。」と誓わされる。破れた時は、もちろん文字通り「消される」。

林の中、おどろおどろしく顔を覗かせる、「超上級風俗」と銘打ったその建物の地下2階、エレベータで降りた通路突き当たりの隠し扉の更に裏。そこが彼の仕事場である。鞭に蝋燭、轡に枷。猿に果実、蝶に花蜜。夜毎嬌声木霊する、極秘会員制のSMバーである。

この店には、各地から雌たちが性を吐きに現れる。嬲られたい者、撫で回したい者、愛玩され飼われたい者。己の性癖を「いちばん、きもちよく」満たしてくれる主人に逢う為、全てを捨てて飛んでくる。体裁を保ち、社会に紛れ生活を営む真っ当な人格も、男も女といった明瞭な性もない。ただ獣、獣、獣。やがて感度もなくなり、身を震わせるだけの肉になって打ち捨てられるまで、彼女たちは自らの欲望を、心ゆくまでしゃぶって貰える。彼女たちを飼う、もとい買う金は合わせて「一晩で小国ひとつ」と噂されるほど動く。雌を貪りに来る客はみな、世界何処かで名を馳せる大物ばかりだからだ。人前にはその美しい仮面で応対し、夜にはそれを剥いで獣へと化ける。猛る獣は、自分たち肉奴隷を甘く熱く狂わせ、一生衣食住の気兼ねなく遊べる環境で飼ってくれる。だからここに来る雌たちは皆、そこかしこから艶やかに涎を溢れさせている。つまらない前戯など不要、というわけだ。

超上級風俗「Pornegranate」。鬱蒼とした木々の隙間から除く薄紫色の電飾は、日の沈みに合わせ、朧気に輝きを放ち始めた。


男はロッカーへ向かい、軽く身支度をした。コートから汗の雫が1滴落ちた。服はそれ一枚のみで、あとは何も纏わずに来た。擦れて火照り屹立した一物と日に蒸された身体を洗う為に、一直線に浴場へと向かった。

「いいの、釣れた?」

「山野さんか。いんや、てんでダメだ。近頃チョコが流行ってやがる。前までチャカはただのおもちゃでよかったが、今度からマメ込めなきゃならん。マメは高い。要らん出費が嵩んじまう。」

「あら、そうなの。じゃあ今度行く時はアタシも誘って。一緒に行くから。」

「それは構わんが、いつも背中にそれを当ててくるのはやめろ。むず痒くてたまらん。」

「たまらんって、好きってことでしょ。いやらしい。」

...せっかく汗流しに来たのに、また汚れちまうな。そんなことを思いながら、仕事前の一抜きの誘いに乗って、山野、と呼ばれた男と己の兜を双つ、重ね合わせた。

一通り流した後口付けを交わし、2人は仕事着を取りに風呂を出た。男は山野の薄くせりだした筋肉に一瞬見とれた。呼吸でうねるその薄暗がりの鈍色に、男は獲物を呑む蛇の肌を連想した。

「あら、あなた靴変えたのね。」

「あぁ、この方が踏みやすい。」

「ふふ、今度お願いするわ。」

「残業代は出してやらんぞ。」

「いいじゃない、プライベートってことにしましょうよ。」

やがて身を整え終わり、また軽く口付けをしてから、各々は今日の職場へと赴いた。


蒸せるような甘い薬香が焚かれていた。ピンク色の灯りが、高く突き上げた雌の腰に当たっていた。縦に割れた舌に唾を纏わせ、今日の雌は男を誘惑していた。

「はぁ…早く…来てぇ……」

「黙れ。自分の立場もわからん奴は飼う価値もない。すり潰して山野さんの晩飯にしちまうぞ。それともその身体をほっといて帰ってやろうか?買い手も呆れて帰るだろうよ」

「う…ぁ…すみません…すみませんでした…お許し下さ…ぁっ…でも、あ、熱くて……」

「なら早くしろ。さっさと脱いでそこに寝ろ。」


生まれつき同性に恋をしてきたこの男にとり、目の前の肉は少しも魅惑的ではなかった。ただ、少しだけ食欲をそそる太腿をしていた。同僚であり交際相手の山野に誘われ、初めて人間の女の膓を喰ったのは19の時だったが、別段牛や豚のそれと差は感じなかった。少しだけ歯に抵抗し、僅かにアンモニアの香りが残る以外は。その異端で奇怪で甘美な味に、一時期傾倒していた。このSMバーで飢える雌の主人として働き始めるまで、生身の女など抱いたことはなかったが、踏みつけ、打ち、嬲る度に少しづつ愛着に似た感情を覚えた。山野は男が仕事に慣れていなかった頃に、「食べることも殴ることも抉り出すことも、全部愛よ。そのうちわかるわ、その美味しさに。」と言って聞かせた。


「んぁっ…はっ…んっ…くふぁ…っ」

乾いた鋭い鞭と、唾液交じりの甘い悲鳴が交互に響いた。しばらく弄んだところで、男は雌に問いかけた。

「気持ちいいのかい。」

「はっ…はい…ありがとうございます…うぁっ…」

もう半分焦点が合ってない。先程からだらしなく、床に愛液で染みを作っていた。とめどなく溢れ、下半身の痙攣に合わせ、糸を引いて流れていた。

「今日は最終日だ。支払いが遅れてるって連絡が入ってる。山野さんにも伝えてある。契約書、読んだろ?」

「え…そんな、待って下さい、あの、お願いします、明日には、明日には、」

「聞いてない。お前の訴え、嘆願、命乞い、希望、意思。何一つ。お前はここではただの肉だ。お前が自分で建てた誓いに仇なすつもりなら、今すぐに屠畜場行きだ。」

雌の二言に耳を傾けず、男はベッド脇の引き出しから、小さな針を取り出した。泣き叫びもがく雌の鳩尾を強く踏みつけてから、縛られ紅く縄目のついた手首に、手際よく薬が挿れられた。程なくして、少しの痙攣と共に、雌は事切れていった。

処理は迅速だった。膓には排泄物が詰まっていることが多い。それを絞り抜き、開かれた腹から順に臓器を取り出していく。鮮度、外見、脂の乗り方で判断し、食用と廃棄に仕分けていった。やがて中身のない人形が1つ生まれ、切り分けられて包装された。この先の仕事は山野が担当することになっていた。

「すごいわ。前より切り口が綺麗で血抜きも丁寧。ここ2年でこれだけ上達するなんて。」

「伊達にあんたを見てないよ、山野さん。また、焼肉奢ってくれ。」

「かわいいわ、そういう素直なおねだり。好きよ。」

山野の白かったブラウスには、赤と黒の水玉が描かれていた。今宵は2人とも延滞処分だったらしい。次のデートの約束をしてから、山野は車を降りていった。遠くで1匹の蟇が鳴いた。



「88951 4510 49(早く来い 仕事 至急)」

画面に無機質に記された番号に目を通し、男は急いで支度をして車に乗り込んだ。

山道を飛ばし、隠し扉をくぐった先に、山野がいた。いつも雌肉にするように、自分を縛り付け、美しく吊るされていた。雄々しくそそりたっているのを見て、男は唾を飲んだ。

「どうしたんだ、こんな時間に。今日はない日だろう。」

「あたし、契約違反したみたい。だからせめてあなたがいいなって思ったの。」

思わず倒れそうになった。まさか、そんなはずはない。

「何したんだ、バレたのか!?」

「ヘマしちゃった。ふふ。」

いつも通りの飄々とした笑みではあったが、明らかに唇は震えていた。

奥からゆっくりと、重い体を揺さぶりながら樋口勲が出てきた。この娼館の長であり所有者である。つまりは神であり、法だ。

「残念ダけど、やっちまっタもんはしょウがない。店じマいだ。不都合は片付ケたが、こノ建物トもヲ別れだ。」

「君ガけじめヲつけたマえ。」

手短に、歪な口調でそう言うと、樋口は大きな椅子に深々と腰掛けた。少し埃が舞った。

状況が呑み込めなかった。一体どうすればいいのだろう。考えても思考は闇であった。

「こノ館には毎年女が転がリ込ンで来る。アレらには人権や法的身分の一切が働カないが、君らハ別だ。仕事を知られルことは死に等しイ。」

「君がやラないんなら、モうお別レさ。君は黙ッて見ていタまえ。」

樋口の言動は絶対命令も同じだった、男はもう影を縫われたように、その場に硬直して光景をただ見つめる他なかった。

山野の首に、細長い針が挿し込まれた。青い薬液が少しづつ吸い込まれていった。

「特別に、高イやつを使っタ。すぐニは死なナいよ。そのうチ、狂ってクるから、好きに抱いてカら死なセてやるといい。」

効き目は絶大だった。少しづつ、山野に動悸と憔悴の兆候が見られた。慰めてやることも、駆け寄って手を伸ばすことも、今の男には出来なかった。混濁していく意識の中、辛うじて山野は男に向かって声を上げた。

「食べ…て……食べて、私を…食べて!食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食ベテ食ベテ食ベテ!!!!!」

髪は乱れ、唾液を撒き散らし、右目で男、左目で天井を見ながら山野は叫んだ。慟哭、嘆願、死への恐怖。それらが交じりあった壮絶な光景だった。

男の脳裏に、初めて嬲り殺した女の、クスリでトんだ痴態がよぎった。今まで奪うだけだった。しかしいざ奪われて見ると、こんなにも人は脆い。今まで弑逆の血肉に変えられた怨念達が、男の血管の隅々でうねるような感覚を覚え、男は激しく嘔吐した。

甘い蜜には、毒が入っていた。

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柘榴に野薔薇 文綴りのどぜう @kakidojo

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