夢遊人
煙 亜月
夢遊人
かの女はワンピース、という真っ白な召し物を着ておりました。首まであるさらさらとした布で仕立てられており、身頃は臍のあたりまでぴったりとし、かの女の美しい胸の稜線の首寄りの裾野――手のひら一枚か二枚分――はレース模様の透かし仕立てになっており、白磁のような柔肌が見えておりました。裾はといえば、優雅に風になびく、宮廷のカーテンのようなたいへんに美しいものでした。革の長手袋もぴったりとしており、色は黒か焦茶、太腿まである長靴も同じく脚に吸いつくような、これも黒っぽい革という出で立ちでした。
かの女――つまりこの踊り子が来るのは今日が初めてでして、なんでも、ほうぼうで引っ張りだこな人気者らしい、年の頃は十代かそれより上、三十代にも見える、それからどうにも下世話な話ですけれども――どうやら乙女であるらしい、などと噂はもちろんここの客の耳にも、風を伝い、波を伝い入ってきておりました。
かの女が店の奥から出て、壇上に上がる前より拍手と喝采、指笛は始まりまして、その人びとのあいだをすり抜けるように、どこにもぶつからずに踊り歩いていったものです。
やがて音もなく登壇すると、これまでの流麗な動きを破綻なく止め、ゆうるりと酔客に向かって頭を下げました。一呼間ののち、バンドネオン、トラヴェルソ、ヴィオルというトリオの楽士がいきなり場違いなほどに激しい曲を奏で始めました。ふつう、この曲はフィーネのいよいよまえに弾かれるものです。
ああ、見てごらんなさい、この三人の楽士は有名な曲者でして、酔いが回ると勝手な早さで弾き出し、あたかも若い踊り子を試すかのような意地悪な演奏をするのです。
今宵も楽士たちはしたたかに酔っており、メヌエットをいきなりのプレストで弾き始めました。酒がこれだけ入っていながら難曲を自由自在に弾くのですから、腕利きなことはまちがいありません。が、少しばかり悪だくみが過ぎるのです。
酒場の常連はしたり顔、しかし期待を込めた目で踊り子を見ておりました。どうして、踊り子はなにも感じていないような、むしろ風に舞う花々のような涼やかな面持ちで軽快にステップを踏んでいるではありませんか。
片足のつま先で立ったまま、もう片方の足を床に着けることなく幾度もくるくると回り、そればかりか、軸足だけでジャンプをしてみたり、頭より上にもう片方の遊び足を上げてバランスを取ってみたりと、変幻自在とはこのことでしょうか、とんでもない踊り子であることは、火を見るよりも明らかでした。
酒場の人びともスリから財布を守ることすら忘れ、踊り子に釘付けになりました。
風に舞うかのような気持のよい表情で、踊り子はその身体から、腕、指先にいたるまで波打つように強弱、緩急をつけています。腕は風をはらむように、もしくは誰かをかき抱くようなポーズを基本とし、軸足の爪先だけがかの女が唯一、地に足をつけている接点です。そのまま幾度も幾度も回り続けます。
かと思いきや、急に背を丸めて腰の高さまでかがみ込み、四拍かけてだんだんと起き上がっては大きな伸びをしました。そのさまは誰もが夜露に花開くマツリカかタンゲマルの花を想起したことでしょう、果たしてかの女は背筋をぴんと伸ばしたまま腕をまっすぐ垂らすように弛緩させ、足先からひどく傾斜がついたハイヒールという靴で、今度は木の床を鳴らします。
両足のヒールから叩きだされるのはなんとも形容しがたい、しかし心地のいいリズムパターンです。余裕しゃくしゃくだった楽士たちも浮足立ちます。踊り子を振り回してやろうと今度は早さもでたらめ、三拍子から四拍子、五拍子、しまいに七拍子、さらに複合拍子を十六小節、ときには八小節ごとに繰り返し、また裏拍を打ち続けてはアウフタクトを交えたシンコペーションと、あらん限りの技巧を凝らしてきました。
しかしながらかの女は、風の流れになびく花弁のように美しく、官能的に舞いました。野に咲く花にはリズムもなにもないのに、風に揺れただけで美しい。かの女も同じでした。
三人の楽士は、もはやばらばらな演奏となりました。ただでたらめに音を出しているのに過ぎません。そうでもしなければ、この踊り子に負けてしまう――そうして、楽士はかの女に負け切っていました。なぜって、かの女は常に、瞬時に楽士たちの演奏に合わせていたのですから。
そうした、めちゃくちゃで法則性もない演奏なのにかの女にしてみれば野原を駆ける一陣の――いや、無限の、無拍子の風のようなものなのでしょう。大自然の風にただ揺れている一輪の花であるかの女に、楽士たちは自分たちにはどうにも覆し得ない技量の差を認めます。やがては踊り子とともに四人は目で合図しながら、見事な調和をとりだしました。
メヌエット、フーグ、ジグ。楽士たちは目の前に譜面がありますが、かの女にはなんら次のステップを知る手立てはありません。それでもかの女は舞い続けます。長靴は複雑でしかし美しいリズムを取り、革の長手袋は大小の円弧を命脈のように空中に描き、ワンピースの裾は風と熱気をはらみます。――ああ、よくご覧なさい、踊り子はリズム、メロディ、ハーモニーをひとりで生み出しているのです。こんな素晴らしい踊りは宮廷の人びとだって見たこともないでしょう。この小さな酒場も湧き立つような歓声に包まれます。
曲はだんだん速く、激しくなり、鼓動の弥増すように踊り子の踵は床板を叩き、その手を頭上に掲げ、とても美しく手拍子を打ちます。酒場の人びともそれに合わせて手拍子を打ち始め、これ以上速く叩けないほどになったとき、コーダが訪れます。最後の一音ののち、少々の空白があって、ステージが終わりました。――誰もが拍手も忘れて呆然としていました。やがて踊り子が照れたように歯を見せて笑い、ようやく万雷の拍手と、激賛に次ぐ激賛が酒場に鳴り渡ります。
かの女は酒場の人びとへ礼をし、ステージを降りて楽士たちと握手を交わしました。夢中になった踊り子へ称賛の意を込め、誰もかれもが一斉に財布の中身を取りだします。この見事な踊り子へ、自分がいちばん上等な酒を奢ったという栄誉に浴したかったからです。
しかし、踊り子はいつの間にやら消えておりました。
その踊り子のことはたびたび追想しております。胸元にレース模様の入った白いワンピース、革の長手袋に長靴、ひと言も発せず踊るだけ踊り、そのまま消えたかの女を。
この話をするとき仲間たちは、おかしな顔をするのです。そんな踊り子はいなかったぜ、おまえさん、飲み過ぎていたんだよ、と。でもわたしはたしかに見て、聞いた。だれに話しても笑われるのですが、でも、と思うのです。
かの女がいまどこの店で踊っているのか、ほうぼうを訊いて歩きました。しかし行く先行く先、首をかしげて「さあ、知らんねえ。そんな夢のような踊り子なら、噂になるはずなんだがね」と、こう答えるのです。
そうして、あれは夢だったんだ、とわたしは思うことにしました。追えども追えども、たどり着けないかの女を諦めるために。
いつしかそんな夢も忘れ、わたしは日々の仕事と、仕事帰りに店で一杯だけ飲む日常に戻っていました。
それからしばらくのことです。かの女を見初めた日から一年ほど経った頃でしょうか、ある晩、かの女が、あの踊り子が優雅に舞っている夢を見ました。わたしは確信しました。やはり、自分は夢を見ていたのだ、と。
夢の中でかの女は踊り、わたしは手拍子を打ちます。舞い終えたかの女はワンピースの裾をつまんでわたしへ礼をし、こういいました。
「ありがとう、ずっと見ていてくれて。でも、ごめんなさい。わたしは五〇年も昔にこの世から消えた農婦です。流行り病で死んでしまった、みじめな女なのです。けれども、死してなお踊り子という夢を捨てきれず、こうしてあなたの夢をお借りしておりました。ご迷惑でしょう? 気持ちの悪いものですよね、どこぞの死んだ女が夢に出て、勝手に踊るのですもの。かれこれ幾人もの夢に出て、悪魔祓いをされてきた女です。でも、もうおしまい。フィナーレです。本当に、ありがとう」
かの女の顔が、美しく若い女から、働きづめの農婦のそれへと変わってゆきます。
「ま、待って!」
わたしは思わず叫びました。
「お願い、わたしの夢の中で踊っていてください。あなたはわたしの夢なのです。ほら、こうしてわたしもあなたの夢を見ることで、こんなにもしあわせな夢心地じゃあありませんか。あなたは、わたしに夢を与えてくれた。だから、どうか」
「ごめんなさい、でも、あなたのような紳士に会えて本当にうれしい思いでした。でも、娘や孫たちがわたしを待っているのです。ありがとう、さようなら」
「ああ、どうか、どうか」
その夢を最後に、わたしが肌着や寝巻を洗う頻度はたいへんに減りました。労働に勤しみ、帰り際にいつもの店でいつもの酒を一杯だけ飲むのです。妻を娶ることもせず、女を買ってはひと晩をともにし、朝には疲れ果てた気分のまま、働きに出るのです。
かの女に、かの女にまた会いたい。夢の中でかの女に会いたい。
夢遊人 煙 亜月 @reunionest
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