海を眺める灯台
黒心
第1話
時計の針だけが時間を刻む。
「ちょっと風に当たる」
「待ちなさい!話はまだ終わってないの!」
茶色い屋根の二階建てで十五畳確保されたダイニングで親子は言い争っていた。大学の卒業後は何処へ行くだとか、そもそも勉学に身が入らずサボりきって夜な夜な一人で適当にほっつき歩く息子に金がかかって仕方がない親は投資を間違えたととんでもないことを言った。
息子は当然、いや、わかり切っていた言葉に何も反応せずにいつ終わるかだとか父親がいたらとかを考えていた。親不孝と言われようとスネをかじって骨までむしゃぶりつくす息子は父親が居なくなった日から全く変わってしまった。
家宅の北向の部屋が父親のプライベートが守られるただ一つの癒しの場だった、ある日突然消息を絶ち行方不明となり首を掻っ切られた状態でゴミ捨て場に袋で隠されていた父親。何度も見た顔をモヤが掛かったかのように笑顔をなくし死んだ眼で見つめてくるようになったのは其れから数日後だった。
まるで何かを求められているかのように空虚で無残な心持ちにさせる目は毎夜、息子の夢に出てきてはあらゆるものを奪っていった。
夜は寝たくなかった、父親に似た何かの目に動くこともままならないまま自分の全てを奪い尽くされるのではないかと恐怖を自然と抱き、眠らないために自転車を駆り出し人気の無い住宅街を抜ける。
「おい、何してんだ、ここは俺の灯台だ」
ある時、海辺の崖の灯台に着いた。一体何処を走ったのかわからないままに、混乱した。
頭をくしゃくしゃに掻いてフケを少々落とす男はカードを見せて灯台の持ち主であることを確認させた、そしてギリギリの大きさの扉の古びた鍵を取り出し頑丈な扉を重そうに開けて中に入るのだった。
「せっかくだ、食べてけ」
手に持ったビニール袋から酒と魚の塩焼きを見せて上を指した。
灯台はとても高く、天まで貫きそうだった。
上に登り切った大学生は何もない海を眺めた、船の往来もなく鳥の飛ばない夕方の海は広く彼を包み込んだ。虚無に近い心を実体のない感情によって埋め尽くすのにはさして時間はかからなかった。
息子の嗅覚を敏感に反応させる匂いがあたり一面に広がり中心の装置をぐるりと周りジャージ姿の男を見つけた。
「最高だろう、ここは」
大学生は答えずに手元の緑茶を飲み干し鮭にありついた。塩味が効いた甘い魚だった。赤い陽は灯台を真正面から照らし丸々と太りきったようになっている。
「少年、此処がどう見える」
大学生は正直に言う。
「何もないです」
箸を置いて発泡酒を飲み干しため息に近い息をあげると灯台の眼下に広がる霧がかった草原を見渡した。遥か空には雲のない秋晴れの空が広がり遠方には白光りする美しい月が立っている。
「ただ生きるだけじゃ、つまらないよなぁ」
遠い過去を思い出したかの様に呟き、息子を見た。
「俺が何言っても駄目だと思うが……生きてみようぜ」
二缶目の発泡酒を片手に月を眺めて言った。木の一本すらない平原に霧がさらに深くなる、命の影は今ここに二つしか見えない。
「この灯台はな、迷わない様にあるんだ、目印では無いんだぜ」
装置を叩いて赤い夕日を眺める。水平線にはよく見ると船が大量に行き交っていた。
「お前、船持ってないだろ、じゃぁくんな。此処には」
足を組んで座り直し、魚の最後のひとかけを喉に発泡酒と共に流し込んだ。虚空を見るような目の奥に何も入っていない大学生を見て溜息をつき腕にあった緑色の細い糸を切った。
「これ、使えや。似てるんだよな、お前、昔のだちによ」
言いながら息子の手を取り緑の糸を巻きつけた、柔らかい暖かみのある細すぎる糸だった。
大学生は突然にして父親の一軒家を買った時の反応を思い出した。
『良いよなぁ一軒家、なぁ亮太。これがお前ん家だ』
息子は目に家の光景を思い出した。
「時間は待ってくれねぇよ、はよいけ」
邪魔そうに、父親のようなほんのりとした暖かみのある言い方だった。
部屋はいつも散乱し趣味の釣り道具だけは綺麗に整備されて部屋の黄金のように輝き居座っていた父親の部屋。
晩ご飯は冷めた食事を嫌い常に外食で済まし暗い電気の消えた一軒家に帰ってくる父親。
冷たい風呂に長く入って十二時の時計が鳴るまで部屋で釣り道具を整備する父親。
ありありと浮かんでくる光景に溢れる涙を伴った。
父親はいつも部屋に入られるのを嫌った。片付けられていない紙屑だらけの部屋に掃除に入るとご飯中であろうが入浴中であろうがすっ飛んできて、これは触るなあれは片付けて良いなど口煩い父親だった。
息子は長い階段を下る。
『何になりたい?そうか医者になりたいか!頑張ろうな』
『触るなそれ、あれは良いから』
『駄目だ、お前これで大学行くつもりか』
大粒のしょっぱい涙と共に霧がかった視界が晴れていく。
階段を降りるたびに父親と生きた日常が視界の端から浮かんでは消えていく、息子はそれを何とか止めようとするが掴んだ途端に霧散する。出来るだけ長くその時間を過ごしたいと願った。
無情にも階段は短かった。
「じゃぁな、二度とくんなよ」
晴れ渡り夕日の色に染め上げられた平原を大学生はゆっくりと歩く。
冷んやりと靴から足裏に伝わる涼しさは熱くなった頭を冷やした。
後ろから風が通り抜け先に行ってしまう。
息子は後ろを振り返った、其処には赤い陽に影となった灯台があるばかりであった。
「亮太!起きて!」
母親の悲痛な叫びが頭の中でこだまする。周りには母親以外にも親戚や医者が居る。
近くの医者や看護師が体を診て何かを言っているが大学生の頭の中には入らなかった、母親の声は次第に嬉しさに変わり果てには体を無理やり揺すってくる。
心配がないのか誰もそれを止めはしない、ただ安堵の表情を浮かべて刹那の時を味わっているように見えた。
母親は強く息子を抱きしめ歓喜の大粒の涙を流した。
涙は少し、塩の味が濃かった。
海を眺める灯台 黒心 @seishei
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