同じ空間、違う時間。

梅雨乃うた

同じ空間、違う時間。

 彼女がゆっくりと目を開き、数回瞬きをしたその目がゆっくりとこちらを向くのを待ってから、私は彼女に微笑みかける。

「……おはよう」

 返事は無いが、いつもの事。

 寝起きが悪いので、彼女が眠りから覚めてから完全に目を覚ますまでは、長い日には五分ほどかかる。

 昼寝を終えて小さな木陰に置かれた木の椅子の上で小さく伸びをした彼女は、右目を擦りながら椅子から立ち上がる。

 ろくに足元も見ていないのだろう。見るからに危なっかしい足取りだが、私は同じところに立ったままそれを見守る。

 転んだところで、小石や鉢植えといった危ないものはもう全て取り除かれている。昨日の雨で柔らかくなった芝生に突っ込んだところで、その薄桃色のワンピースが少し土と草切れで汚れるだけ。それくらいならば問題ない。

 今日はどうやら比較的寝起きの良い日だったようで、ちょうど庭を一周したあたりで彼女がこちらに手招きをする。

 手に持っていた手帳を手元の小さな机に置いてから、もたれかかっていた楓の木から背中を離す。

 今日は何だろうか、と思いながら彼女の隣に行き、その白い指の指し示す先を見る。

「立派な百合ですね」

 彼女が六枚の花弁に包まれたおしべを人差し指でつついて、指先に黄色い花粉がつく。

「昨日までこんなの生えてた?」

「きっと蕾だったんじゃないですか。緑色だったら今ほど目立たないでしょうし」

 腰ほどの高さの植え込みから顔を覗かせるように咲くその百合は、今や遠目でもわかりそうな存在感を放っている。

 植えた覚えは無いので、いつの間にか種が飛んできていたのだろう。

 実はその花びらのうち本当に花びらなのは三枚だけなんですよ、と付け加えるか少し迷ってから、言わないことにした。

 次彼女が百合に興味を示したときのために取っておこう。

「確か百合って球根があるのよね」

 正確なことは分からないが、チューリップにあるのだからきっとあるのだろう。

「ええ」

「じゃあ来年も見られるの?」

 クリーム色をした花弁を中指と親指でつまみながら、彼女は言う。

「きっと見られますよ。それに、百合は一日では散りません」

 明日も見られますよ、という言葉は飲み込んだ。

 明日には散っていないとも限らない。雨風が強ければどんな花だって散ってしまう。

 約束できないことを言うべきではないだろう。

 それに、意味のない言葉というのは言うだけで虚しくなる。

 感傷に浸りかけた私を引き戻したのは、彼女の言葉だった。

 いや、感傷から引き戻してくれたと言えるのかは分からない。正確に言うならば、現実に引き戻してくれた、というのが適切か。

「そういえば、今日はあんまり金木犀の香りがしないね。昨日はあんなに甘ったるかったのに」

 今日は金木犀のようだった。

 こうするのにも慣れてきてしまった。

 最初のうちはいちいちどう答えたものかと頭をひねっていたように思える。

 前にこう聞かれたのはいつだったっけな、と思いながら私はきっと何回目かになる答えを口にする。

「そろそろ散り始めの時期なんでしょう。この辺りの金木犀は散ってしまったのかもしれません。それか、風向きが悪いのかもしれませんね」

 彼女が選んだのが金木犀の話題だったときは、いつも似たような返しをしている。

 日によっては楓だったりススキだったりもするので、庭にはない金木犀の話題は誤魔化しやすい方。

「もうそんな季節かぁ」

 彼女の記憶では、「昨日」は金木犀の香りの漂う、秋のあの日だったのだろう。

 あれから、とっくに五年は経っていて。

 昨日もこの薄黄色の百合の花は、初夏の陽の光のもとで綺麗に咲いていたのに。



「やっぱり貴方の焼くケーキは美味しいね。毎日食べたいくらいだよ」

 木陰の椅子に座った彼女は、今朝私が焼いたカップケーキを美味しそうに頬張る。

「だったら毎日作ってもいいですよ」

「冗談よ。たまにしか食べないから特別でいいんじゃない。それに、毎日じゃあ貴方が大変でしょう」

 実は毎日食べているんですよ、と言ったら彼女はどういう顔をするのだろう。

 きっと、五年前と同じようにきょとんとした顔をして「何を言っているの?」と首をかしげるのだろう。

 彼女の記憶は、寝るたびにリセットされる。

 五年前の、何という事のない、とある1日に。

 五年前、彼女がこうなった後、これを彼女に伝えようとして、何度彼女を泣かせたことか。

 不幸なことに彼女は寝たらその日の事は忘れるから、今私の目の前でカップケーキの紙をぺりぺりと剥がしている彼女にその記憶は無い。

 けれど、もちろん彼女を泣かせたくなんてないし。

 何より、何を言っても、次に目を覚ました時には彼女は五年前のあの日に戻っているから。

「じゃあ、また食べたくなったら言ってください。いつでも作りますから」

 だから、私は何気ない顔をして彼女と同じ「あの日の翌日」を過ごすことにしている。

 彼女が、自分の記憶との不整合を強く意識しなくて済むように。

 彼女が、今まで通りに「あの日の翌日」を過ごせるように。

「貴方が好きな時に作ってくれればいいよ」

 そう言って彼女が差し出すのは、手で半分に千切ったカップケーキ。

 昨日は食べかけを渡されたのだが、今日は一緒に食べたいらしい。

「喜んでもらえれば、それが私の「好きな時」ですよ」

 ここで遠慮しても彼女が折れないのは五年間で学んでいるので、素直に受け取る。

 彼女が半分しか食べない事は分かっていたので大きめに作ったケーキは半分だけでも十分量があって、ついでに毎日食べても大丈夫なように材料も年々改良を加えている。

「今日のケーキは傑作だね」

「腕によりをかけて作りましたので。今までで一番おいしくできたと思いますよ」

 彼女の覚える以前に食べたケーキと、今彼女が頬張っているケーキの間には、五年分の積み重ねがある。毎日、覚えてはいない昨日よりおいしいものを食べてもらう。自己満足に近いが、私が彼女にできる数少ない事でもある。

「ありがとね」

 そう言って、彼女は小さく笑う。この笑顔ばかりは、五年たっても慣れない。

 彼女が笑っているのは喜ぶべき事であるのは違いないのだが、その笑顔を私が受け取っていいのだろうか。彼女に真実を告げることも、彼女を救うこともすべてを諦めて、ただ五年間彼女を騙し続けてきたこの私が。

「いえ、私は貴方からこれ以上の物をもらっていますから」

 これだけは、胸を張って言える。

 顔に陰りが出ないように意識して、笑顔で答える。

 しかし、私は失念していた。

「……ねえ」

 雨の翌日。濡れた土の匂い。彼女が足を止めた百合。金木犀。手でちぎったカップケーキ。

 昼寝から覚めた彼女がとる行動は、何通りかある。それからさらに別の行動に繋がり、結果として行動のパターンは樹木の枝のように膨大な数になる。

 しかし、私は「この日」を5年間、繰り返し続けている。

 となれば、そのパターンも大体のところは把握しているわけで。

「……なんでしょう」

 だから、この後彼女が何を言おうとしているのかは見当がついて。

 この上ないほどに、心臓が締め付けられる。

 このまま、「今日」を進めてしまいたい私と、進めてはいけないという私がせめぎ合う。

 勿論、どちらの「結末」も私はすでに経験したことがある。

 彼女の気持ちを受け止める「結末」も。

 話の流れで彼女の気持ちを口から出させないようにする「結末」も。

「貴方は、今の生活に満足してるの?」

「もちろんです」

 今の生活にも満足しているし、彼女の思い描く「私の日常」にも満足している。

そして、満足してしまっている私だからこそ、きっと彼女からその気持ちを向けられるだけの資格は無い。

 笑顔を向けられる程度なら、少し胸が締め付けられる程度で済む。

 ただ、向けられるのが笑顔ではなく、特別な意味を持つ好意であるとなると、話は別。

 たとえ、明日には彼女はそのことを忘れていて、私たちの関係が今以上に進展することは決してないとしても。

 身も蓋もない言い方をすれば、私はこの五年間で、自然と彼女の好む立ち居振る舞いをするようになった。言い換えれば、私は彼女を騙し続けているのに加え、この五年の積み重ねを覚えてないのをいいことに、彼女がそういう気持ちを私に向けるように誘導してしまっているのだ。

 もちろん、それだけだとは思っていない。そう言った感情が一朝一夕で、「昨日の今日」で芽生える者でないことは私だって分かっている。

「貴女が幸せで満ち足りていれば、私はそれだけで満足です」

 結局、口から出たのは彼女にあの言葉を言ってもらうための台詞だった。

 4割の後悔と5割自責の念、一割の期待のと共に彼女の返事を待つ。

 けれど、今日の彼女の返事は予想していたものとは少し違った。

「そんなところで寝たら体を痛めますよ」

 幸せそうな寝息を立てる彼女の脇と膝の下に手を回し、ゆっくりと持ち上げる。

 その寝顔を見て、少し残念で、そしてそれ以上に安堵している私がいた。


 彼女がベッドの上で目を覚ます。

「……おはよう」

 目を擦る寝起きの彼女には、私の声は聞こえていない。

 おはようの前に小さく呟いた、すみません、も。

 これでいい。私は、彼女が幸せであるための舞台装置のような物なのだから。

 ここにいられるだけで、私は幸せだから。

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同じ空間、違う時間。 梅雨乃うた @EveningShower

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