(三)

 次の週もその次の週も私たちは飽きもせずに同じことを繰り返し、いつしか春が過ぎ去って夏が訪れた。

 綾子といた時間は永遠のように感じられたが、カレンダーを捲って正確に考えてみるとそれはたった半年ほどの出来事に過ぎなかった。

 たった百八十日の間に私は一気に五歳ほど老け込んだ。毎日が苦しく、辛く、それでも綾子といられれば幸福で、加えてその一時の幸福が脆く壊れやすいこともどうしようもなく知っていた。



 八月のある日の朝、私は唐突に途方もない疲労感を感じて、綾子に声をかけることがままならなかった。

 それまでは毎朝、起きたらまずは返信がくるまで綾子にメッセージを送り続けることが日課になっていた。

 しかし、その日の朝はなぜだかどうしてもメッセージアプリを開くことができず、代わりに綾子と出会ったレズビアン専用のマッチングアプリの画面を久しぶりに開いてみた。土曜日の早朝、カーテンの引かれた窓の外では早起きの蝉が喧しく鳴いていた。


 見るともなしにマッチングアプリを眺めていると偶然、偽名で登録された綾子のアカウントを発見した。

 名前こそ違うものの、プロフィールに設定された後ろ姿を写した写真や趣味、好みのタイプなどを見れば間違いなく綾子だと分かる。

 そうでなくとも、何か神懸かり的な第六感によって、私はこれは綾子だと確信を持って答えることができた。


 ログイン履歴も表示されるタイプのそのアプリによると綾子は頻繁にログインし、せっせと相手を漁っているようだった。綾子のプロフィール画面の中で恋人募集中、のピンクの文字が繰り返し明滅していた。

 綾子は恐らくあちこちで幾人もの相手を作っていて、自分はその中の一人に過ぎないんだろう。きっと彼女は長い間、心から愛し、愛される特別な相手を探し続けているのだ。まるでおとぎ話に出てくる愛らしく健気なお姫様のように。

 けれど、私は知っている。世界中、どこを探してもそんな相手は見付からないに違いない。なぜなら、彼女が心から愛しているのは、この世でただ一人、綾子自身だけだからだ。綾子という人は他人を愛せない人だった。

 自分でも驚くほど冷静にそう考え、その瞬間、何か憑き物が落ちたようにすとんと納得した。


 スマートフォンを放り出し、ベッドから這い出て裸足のままキッチンへ向かう。

 冷蔵庫の中から麦茶のケースを取り出してコップになみなみと注ぐと喉を鳴らして勢いよく飲み干した。そして、また裸足の足をぺたぺた鳴らしながらベッドへ戻り、私は綾子のすべての連絡先を消去した。

 五分と掛からない作業だったにもかかわらず、ひどく晴れ晴れとした気持ちが全身に満ちる。カーテンを開けると真夏の青空がどこまでも遠く広がっていた。


 私は住所も連絡先も長い間、変えなかったけれど、綾子が家を訪ねてきたり、電話を掛けてきたりすることはついぞなかった。

 半ば予想はしていたが、あまりに呆気なく終わってしまった関係に何度かひとりで笑ってしまうことがあった。



 それから数年後、何となく綾子のことを思い出し、インターネットで彼女の名前を検索してみたことがある。

 ちょうど一年前に同姓同名の女性が男に刺されて死んでいた。綾子の名字はちょっと変わっていたので、間違いようがない。

 綾子が私に本名を教えてくれていたことに、私は何とも言えない幸福感を覚える。それは初めて綾子とセックスをしたあの夜のように穏やかで満ち足りた幸福感だった。

 不意に「希子さん」と名前を呼ばれて私は慌てて顔を上げる。

「なに見てたんですか? そんなに慌ててあやしいなあ」

 待ち合わせをしていた可愛い恋人が艶やかな唇を尖らせ、拗ねた顔をして隣に立っていた。

「ふふ、どうでもいいことよ。本当にどうでもいい、ちっぽけなこと」

 そう嘯いて私はほんの一瞬だけ小さく笑みを浮かべた。綾子の美しく凄惨な生き様が今はどうしようもなく眩しかった。



(了)

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ファムファタル @yuki_nojo

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