第9話 9
ハンスは月明かりの中、橋を渡った。
青白い月光を受けて、道にはハンスの大きな影が出来ている。エラが編んでくれたマフラーを首に巻いている。上着の左ポケットには、天鵞絨に包まれた懐中時計がある。ハンスは右ポケットに入れたものを布のうえから何度も確かめた。
この二日間、ハンスはバラーシュの動向を探りながら準備をしていた。バラーシュが夜に出かけること。昼間は部屋から出てこない珍しい客だと、ドアボーイたちの間でも話題になっていた。それでもチップを大目にくれる上客なので、遅出の勤務が回ってくると嬉しいとか。
バラーシュは酒場に数時間いた後に、街をぶらつく。一昨日は、街娼に声をかけていた。そして翌朝に、また服だけが見つかったという話を市場の肉屋から聞いた。
バラーシュが語った、『動き過ぎた』とはこれのことだろうか。もしも、女たちを襲っているのがバラーシュだとして、懐中時計を渡すだけで満足するだろうか。懐中時計を渡したあとも、クルトに固執するのではないか。
ハンスは懐中時計をみがきあげてきた。外側も、内側も丹念に拭いた。
先日の夜の発作以来、クルトの病状は幸いにも落ち着いている。バラーシュの件が片付いたなら、すぐにクルトを病院へ連れて行こう。
あとは、自分の覚悟だけだ。ハンスの微熱は続いていたが、頭だけは妙に冴えていた。風が吹くと、森からばらばらと枯れ葉が飛んでハンスの足元で音を立てた。
「待ちくたびれましたよ」
月を背にしてバラーシュが道を塞ぐようして立っていた。ハンスはマフラーをとてい首にかけ、バラーシュにあいさつをした。
「こんな時間にすません」
「いや、かまいませんよ。懐中時計を譲っていただけるなら、これくらいのこと」
そう言いながら、バラーシュはすでにハンスに向かって手を差し伸べている。バラーシュはコートと帽子は身に着けている。それから鞄は地面に。バラーシュは糊の効いた衿をわずかに直した。ホテルを引き払ってきたはずだ。これがバラーシュの持ち物のすべてだろう。
「報酬ですが、懐中時計がもしもあなた様が探していものだとして、いくら支払ってくださいますか」
「いくらでも。カバンの中の宝石すべてでもいい。あなたが望むくらい」
そういって、革張りの旅行鞄を開いて小さな巾着袋を取り出すと、自身の掌に中身をこぼした。氷の雫かと思うような煌めきが現れた。バラーシュは宝石を乗せた掌を目の位置まで持ち上げ、ハンスに見せた。
ハンスは唾を飲み込んだ。それがすべて手に入ったならと思うと、めまいがした。
「おわかりいただけましたか。さあ、こんどはあなたの番ですよ」
バラーシュは宝石をもとの袋に戻すと閉じた鞄の上に置いた。ハンスは左のポケットから天鵞絨に包まれたものを引き出した。バラーシュの体がぐいっとハンスに近づいて来た。目をらんらんと輝かせ、ハンスが布を開くのを今か今かと待ち受けている。はりついた笑顔が幽鬼そのものだ。ハンスが布をはらうと、清らかな青色の小さな花をつけた忘れな草が月光を受け、文字どおり輝いた。
バラーシュが小さくあげた歓喜の声をハンスは聞いた。いま、バラーシュの鼓動とハンスの鼓動は重なり合っているかのようだ。鼓動の音が大きすぎて、二人分の音を聞いているように感じる。
ハンスは布越しに突端を押した。わずかな響きともに開いた先の文字盤を、バラーシュは凝視した。
「これです、間違いない。ああ……ようやく我が元へ戻って来たか」
文字盤をのぞくバラーシュの頭の上からハンスは磨かれた蓋の内側を見た。
映るはずのバラーシュの姿はなく、ハンスは自分と目が合った。途端に、ハンスは時計を投げ捨てた。
「何を」
叫んだバラーシュが地面に手を伸ばしてかがんだ。
口から心臓が飛び出そうだ。ハンスは時計を拾おうとするバラーシュの顔に、外したマフラーを巻きつけた。一瞬の隙をつかれたバラーシュが横倒しになる。ハンスは右ポケットから抜き出した小型ナイフをバラーシュの左胸に強く突き刺した。
人を刺したときと同じ手ごたえ。ナイフの柄を掴むハンスの腕がふるえた。
バラーシュは動かなくなった。左手で吊るしたマフラーにかかる重さが増した。
ハンスは膝から力が抜けそうになるのをこらえた。ナイフを抜きマフラーから手を離すと、どさりと音を立て力を失った体が転がった。
喉にこみあげるものを感じて、ハンスは転がるように道の端へ行くと、胃の中のものを吐き出した。もっとも、食事など朝から何も食べられなかったのだ。喉を焼き付けて胃液だけを吐いた。
背後で何かが動いたような恐怖に駆られ、ハンスが振り向くとバラーシュの体が霧になって四散していく場面に出くわした。蝶の鱗粉のように細かく煌めく霧は、ハンスの刺した傷口から吹き出しているようだった。
「……やっぱりだ」
吸血鬼は鏡に映らない。磨いた蓋にバラーシュが映るかどうか。ハンスは賭けに出ていたのだ。
ハンスはバラーシュの顔をマフラーで隠すと、足を掴んで森の中へ引きずっていった。枯草の中へバラーシュを埋めると、取って返して懐中時計と宝石の巾着をポケットに突っ込んだ。鞄を掴み、乱れる呼吸で橋を渡ると一気に自分の店まで走った。人々が寝静まった町の中を足音を立てぬよう、人に出会わぬようにハンスは駆けた。息が白くなるほどの寒さなのに、胸も喉も焼かれるように熱い。足も、鞄を掴む指さえも、熱い。
吹き出す汗が目に入る。ハンスは袖口で汗をぬぐい、瘧のようにふるえる手でどうにか鍵を回して店に入った。
足がもつれて床に倒れたハンスは、四つん這いになりながらも店の扉を閉めた。荒い息をなんとか静めようと、自分を落ち着かせようとしたが駄目だった。上着を脱ぎすて、バラーシュの鞄を床に投げ出した。ハンスは木のショーケースにつかまりながら立ちあがった。伝い歩きで台所まで行きつくと、手を洗った。バラーシュの血はついていなかった。ただナイフを突き刺した時に滑って、ハンスは自分の掌を切っていた。狭い台所に鉄の臭いが漂う。
自分は魔物を倒したのだ。もうこれで町から女が消えることがない。良いことをしたのだ。
罪にはならない。なぜなら、殺したのは人間ではないからだ。
ハンスは何度も自分に言い聞かせた。もうこれでバラーシュに着け狙われることはない。クルトを奪われることもない。
はははは、とハンスの唇から笑いが漏れた。乾いた笑い声はまるで初めて聴く他人の声のようだった。
荷物をまとめよう。夜が明けたなら、すぐにクルトを連れて家を出るのだ。傷の手当を終えたハンスは新しい暮らしのことで頭がいっぱいになった。
離れたところにある駅までは、クルトになんとか歩いてもらわなければならない。なんなら、車を手配してもいい。それくらいたやすいと気づいたのだ。
バラーシュの鞄の中には上等な服と身の回りのものと、ハンスが見たこともない札の束も入っていた。いつの時代のものか分からない金貨や銀貨も別にあった。
どれくらいの時間、鞄の中身を見ていたのだろうか。気づけば店の柱時計は三時をとうに回っていた。依然として外は夜のままだ。日の出まではまだ間があるけれど、一時間もすれば空が白んでくるだろう。
もう少ししたら、クルトを起こそう……ハンスは天井を見上げて笑みを浮かべた。
かたん、と小さく物音がした。
「忘れものですよ」
雷に打たれたように振り返ると、マフラーを携えたバラーシュがいた。ハンスは声を上げる間もなかった。がつんという衝撃とともに床に引き倒された。バラーシュが馬乗りになって首に咬みついている。
「や、やめろっ」
バラーシュの喉が大きく上下すると、ハンスの目は刹那闇を見た。バラーシュに血を吸われるたびごとに全身から力が抜けていく。
くぐもった笑い声だけが聞こえた。
気を失っていたのは、一瞬かそれとも一日か。
目を開けると、磨かれた革靴の先が見えた。転んだ時に床にぶつけた体が痛い。ハンスはぎくしゃくと起き上がると、教会の鐘の音を聞いた。
「中途半端な知識で助かったよ。わたしを殺したいなら、ナイフでは無理だな。せめてサンザシの杭くらい用意してもらわなければ」
バラーシュはハンスを見下ろしている。
「酷いな。わたしを襲って鞄をうばうなんて。けれど、わたしは寛大だから許しますよ。時計も譲ってくださることですし」
バラーシュは目だけを細めて笑顔を作ってみせた。ハンスは自分の血の臭いにむせ返り、吐き気がした。
「それに、礼もさしあげました」
「しゃ、れい……」
喉が貼りついたように声が出せない。ふるえる指で首をさわると、皮膚の二か所が穴になりめくれている。
「あなたにわたしの血を分け与えました。これで肺病を恐れることがなくなりましたよ」
肺病、とハンスは小さく繰り返した。呆けたようにしているハンスにバラーシュは不思議そうに親指を自分の顎に当てた。
「気づいてらっしゃらない? 肺病患者の世話を無防備にしていて、うつらないはずがないでしょう。先日からずっと微熱や咳が続いている筈では」
言われてハンスは反射的に胸に手を当てた。自分も、クルトと同じ病に罹っている?
全身から冷たい汗が吹き出す。ハンスは胸が焼け付くように感じ、シャツをはだけると十字架の首飾りをむしり取り、投げ捨てた。焼ごてを押しあてられたような痛みが去ると、不意に喉の渇きを覚えてハンスは狼狽えた。体の奥底から欲するものがある。飲みたいものは、水ではない。
「わたしはあなたを、わたしと同族にしてさしあげました。クルトさんもそうしてさしあげたかったですね。でも、それはあなたに譲ります」
バラーシュは鞄のなかをあらためて蓋を閉じた。ハンスがナイフをさして開けた穴が気になるのか、指で数度なぞった。
「な、にを」
「クルトさんを同族にすれば、時が止められるじゃないですか。あなたはそれを望んでいたはずだ」
ハンスは頭を殴られたような衝撃を受けた。
自分が、クルトを吸血鬼に……。
今やハンスは喉をかきむしりたいほど、飢えていた。誰でもいい。咬みつきたい。薄い皮膚に牙を突き立て、喉いっぱいに温かい血を飲み下したい。
「さて、夜明けが近い。わたしは休ませていただきますよ」
カウンターから忘れな草の懐中時計を取り上げ、見つめるときのバラーシュの眼差しは柔らかだった。
ハンスは焦った。このままでは朝日を浴びて灰になってしまう。
けれど自分がいなくなったら、クルトはどうなる。誰が面倒を見てくれる。バラーシュが二階を見あげて笑った。バラーシュは望みのものを二つとも手に入れるつもりだと気づく。
「さあ、どうする? 夜明けを告げる鐘が鳴りましたよ」
バラーシュは懐中時計の文字盤を確かめると、静かにふたを閉じて胸元へとすべりこませた。
がたん、と二階で音がした。小さな足音が天井を移動する。
「おや、坊やが目を覚ましたようですね」
扉がきしんで開く。階段をゆっくりと降りて来る気配を感じ、ハンスの渇きはいや増す。
「君はどちらをえらぶのかな」
バラーシュは帽子のつばに手を当てハンスを見ると、扉の鍵を開けた。
ハンスは荒い息を吐きながら、階段の音に耳をすませた。小さな影が、床に落ちた十字架を拾うのが見えた。
「……おとうさん」
ハンスは牙をむきだし、よだれを流した。指がわななく。
「では、また夕暮れ時に」
バラーシュの声はむしろ穏やかだった。
薄暮の客人 たびー @tabinyan0701
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