第8話 8

 店の扉を開けて入ると、二階からの明りで階段の壁が汚れているのが見えた。 

 細く数本、赤黒い筋がついている。ハンスは階段を駆けあがった。

「ハンス、どこへ行っていたのよ」

 しかめっ面のアンおばさんが、ホウロウの洗面器を持ってベッドの横にいた。クルトはベッドに半分もぐるようにして体を丸めて眠っていた。

「階段を踏み外したみたいよ。咳をしたら血が出て驚いたのね。あんたは居ないし」

 発作を起こしたまま、ハンスを探しに階下へこようとして足がもつれたらしい。ハンスはクルトの頭を撫でてキスをした。クルトの髪から汗の匂いと湿り気を感じる。激しい咳は体力を奪う。

「すみませんでした。お世話かけてしまって」

 ハンスはアンにわびた。

「いいのよ。気づけてよかったわ」

「そ、それに、こちらも裏の扉を壊してしまって……」

 ようやくハンスに追いついたアンの夫が、息を切らして部屋に来た。

「かまいません、クルトを助けてくださってありがとうございます」

「助けたってほどでもないよ」

 アンは眉間にしわをよせたまま、クルトを見下ろしている。部屋は、かすかに血の匂いがする。ハンスはアンから汚れたタオルの入った洗面器を受け取った。

「いいお医者様に診せてあげないと」

「はい……」

 アンの言葉にハンスはうつむくだけだった。よい医者にかかるにも、よく効く薬を買うにも金が必要だ。しかし先立つものがない状態では、ただ手をこまねいて見ているしかない。

 ――わたしの養子になれば……

 バラーシュの言葉を思い出す。確かに、クルトをバラーシュに預けた方が、おそらくは良い暮らしが送れるだろう。名医にもかかれる、薬があればクルトの病は治せる。

 けれど、エラの忘れ形見を手放せるはずがない。自分は新しい家族など望まない。

 バラーシュ、人の心を弄ぶ悪魔め。時計を見せなければ、クルトをさらう気でいるのか。

 時が止まればいいのに。これ以上、クルトの病が進まないように。

 

 夜通しハンスはクルトのそばにいた。翌朝、いすの上で目を覚ましたハンスは熱っぽさとだるさを感じた。クルトの額に手を当てるが、自身のてのひらが熱を帯びているのか、クルトの額の冷たさが心地よいほどだった。

 風邪を引いたのかも知れない。ここ数日はろくに眠れずにいた。クルトのこともあって疲れが出たか。

 金がいるのだ。

 ハンスはクルトの寝顔を見て、昨夜から一晩中考えたことを頭の中でなんどもなぞった。


 二日後の夕方、ハンスはまたホテルの前でバラーシュを待ち伏せした。秋の夕暮れは早く、日が落ちたかと思うと、町のそこかしこが闇に沈んでいる。

 大きな呼吸を何度かして気を落ち着かせた。そのうち、先日と同じようにしてバラーシュがホテルのエントランスへと姿を現した。ボーイへとチップを渡して通りへ出たバラーシュへハンスは駆け寄った。

「おや、時計屋のご主人。わたしになにか御用ですか。時計のことですか、養子の件ですか」

 振り返ったバラーシュのからかいめいた口調をハンスはぐっとこらえた。

「懐中時計のことですが。うちにあったのは、忘れな草が表面に施されている意匠でした」

 ハンスの言葉にバラーシュは色めき立った。

「それです。わたしが探していたのは。今すぐ欲しい。手元にありますか。ああ、金も宝石もホテルに預けたままだ……すぐにわたしに売ってください」

 バラーシュはハンスに詰め寄った。しかし、半歩引いたハンスはバラーシュに告げた。

「取引するのを、他人にあまり見られたくないので……今夜日付が変わるころ、橋を渡った先のところまで来ていただけますか。森の手前です」

 幸い月はだいぶ丸くなった。わずかな灯りでも間に合うだろう。

「ええ、承知しました。では、わたしはこれで。ホテルを清算しなければならないので」

 ハンスは小さく息を吐いて握ったこぶしを開いた。

 先方は餌に喰らいついた。計画は一段階進んだ。ハンスも家に戻る。今夜のことは二日かけて準備をしたのだ。

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