第7話 7
その日の夕方、ハンスは店を閉めてから街の大通りへと出かけた。すでに日は落ちたが、空にはまだ夕焼雲が名残のように浮かんでいる。ハンスはバラーシュが滞在しているといったホテルの前をいったん通り過ぎた。五階建てのホテルは多少すすけて見えたが、空襲にも耐えたのか無傷のようだ。入り口にはまだ十代と思われるお揃いの服を身につけたボーイが二人、手持ち無沙汰げに立っている。
もしも、バラーシュが吸血鬼ならば出かけるとしたら今くらいからだろう。これまで店に来たのも陽が落ちてからだった。
ホテル前をゆきすぎたハンスは、路地へ曲がりホテルの前を盗み見た。エントランスや門柱に灯りがともるころ、入り口をボーイが開けると長身の影が現れた。
バラーシュだ。ハンスは目を凝らして見つめた。バラーシュはドアボーイへと何かを渡して通りへと数段の階段を下りた。芝居めいた動きで踵をくるりと回し、ハンスとは逆の方向へと歩み去っていった。気づかれないくらいの距離をとり、ハンスは後を追った。ホテルの前を過ぎるときに、ボーイたちの声が耳に入った。
あのお客様、昼間は部屋で何しているのかな……。
ハンスはバラーシュが一軒の酒場へ入るのを確かめてから、外でわずかに待った。大きな背中を丸めて吐く息は、白に変わった。つま先が冷たくなるのを足踏みしてこらえ、十分ほど経ったころハンスも酒場へと足を踏み入れた。
体臭と煙草の煙、それとアルコールの匂いが混じりあい、むっとした暑さとなってハンスの鼻を打った。男たちの野太い声と厚化粧の女たちの嬌声。棚に並ぶ酒瓶は多くはないがワインのほか、伝統的な蒸留酒もある。
ハンスは咳き込むと、カウンターでひとりグラスを傾けるバラーシュを見つけた。
みな着ぶくれている中で、厚着もせず仕立てのよいスーツに身を包みコートを羽織ったバラーシュは周りから浮いている。気安く声をかけづらいと見えて、両隣の席は空いたままだ。少ない灯火のもと、青白い横顔はよけいに白く、血の気が感じられない。
バラーシュは、吸血鬼なのだろうか。酒場までのこのことついてきたはいいが、ハンスは見分け方など分からない。ハンスの視線に気づいたのか、顔をあげたバラーシュとハンスは目があった。
「やあ」
バラーシュは片手を軽くあげて、ハンスを呼んだ。ぎくしゃくとした動きで酔っぱらいを避けてカウンターまで行きつくと、ハンスはバラーシュの隣へと腰をおろした。背中が不自然に伸びて酒場に来たというのにくつろいでいるようには見えないだろう。
「今、お仕事おわりですか? 息子さんは?」
ハンスが酒を注文するあいだ、バラーシュは矢継ぎ早に質問をする。
「いつごろ、時計を見せていただけますか?」
首をわずかに傾け、赤く薄い唇の端をくっとあげる。いちばん尋ねたいのは、それだろう。
「仕事終わりに一息つきに来ました。息子を寝かしつけて。時計はまだ取りに行ってないので……」
ハンスの答えにバラーシュは飲みかけのグラスを置いて、これ見よがしのため息をついた。グラスの赤ワインが小さく波打つ。ワインの色が血を連想させて、ハンスは思わず胸に手を当て、シャツの下にさげてある十字架を確かめた。
「いつまで待たせる気ですか。この近辺で見当をつけていた店は、すべて回りました。あなたのところを確かめられないと次の街へと移れない」
「こ、声が大きいです」
バラーシュの声に酒場の喧騒が一瞬途絶えた。なるべく注目を集めたくない。ハンスは体を小さくしてお願いするのがやっとだった。カウンターの向こうで動きを止めた店主が二人をちらりと見たが、すぐに客の注文に応え始めた。
「謝礼は必ずするとお話ししましたよね。あの時計が戻るなら、持っている宝石も金貨もすべてお渡ししてもかまわない」
金貨・宝石という言葉にハンスの心はぐらつく。
「ひとつお聞きしたいのですが。バラーシュさんは、どうしてそれほどまでに懐中時計を熱心に探しているのですか」
両手でグラスを包み、背中を丸めてハンスは隣の席のバラーシュに尋ねた。
「花嫁になるはずだった女性からの贈り物でした」
バラーシュはグラスの酒を飲みほした。ハンスもグラスに口を付けた。度数の高い蒸留酒が喉を焼きながら降りていく。
「女性は、我が一族とは相いれないと年長者たちに反対されました。わたしもずっとそばにいればよかったのですが、数日家を空けて戻ると、すでに彼女はこの世から消えていました」
酒に酔っているのだろうか。話のつじつまが合わなくなっている。女性、と言っていながらいつの間にか自分の彼女であるかのような表現に変わっている。
「一族はもう誰もいません。彼女との思い出の時計を手にして、わたしはこの先の長い時間を過ごしていきたい」
カウンターの一点を見つめて、バラーシュの言葉は最後は呟きのように小さくなった。
「この街にいられるのはあと数日です」
ぽつりと言った言葉にハンスは体を伸ばした。
「さっきは、わたしのところを確かめなければ移れないと……」
「ふだんより動いてしまった」
ドアボーイの話では、昼は寝ているらしいけれど、何を動いたのか。ハンスは首をかしげた。
「他所へ行きます。けれどいずれまた、ここに戻ってきて時計を見せてもらいますが」
バラーシュはハンスを射るような目つきで見つめた。
どうあっても、ハンスの懐中時計を確かめることを諦めないらしい。
「バラーシュさんのお探しのものとはかぎらないですよ」
「そうおっしゃるなら、わたしに見せてくださいよ。どんな意匠なのかくらい教えてくださってもいいじゃないですか」
「それは」
体がじわじわと熱くなる。飲んでいる酒だけのせいではないだろう。
「じらすのも、ほどほどに……時に、あなたの息子さん」
ハンスがはじかれるように顔をあげると、バラーシュは意味ありげに微笑んだ。
「クルトさん、たいそうきれいな少年だそうですね」
「誰が」
そういうのがやっとだった。動悸が激しすぎてうまく話せず、ハンスは汗をかいた。
「あちこちに出入りしていると、自然と耳に入りますよ。亡くなった奥様の連れ子を、たいそう可愛がっていると評判でした」
口の軽い連中をハンスは憎んだ。
「時計が無理ならば、クルトさんをわたしの養子に欲しいな」
「な、何を言っているか」
「クルトさん、わたしの息子になったなら、よい医者に診せてあげられますよ。わたしは欧州の有力者に知り合いがいますし、治療費もむろん払えます。あなたは、再婚して新しい家族を作る。どうです、名案でしょう。譲っていただけませんか、クルトさんを」
ごく真顔で話すバラーシュにハンスは血の気が引いて行くのが分かった。冗談ではなく、取引としてハンスに話しかけているのだ。まるで子猫を一匹譲ってくれないかと言っているように。
ハンスは冷えた体が、ぎゃくに熱くなっていくのを感じた。沸々と湧き上がる感情に、ハンスは言いよどんだ。すると、酒場の扉が勢いよくあいた。
「ハンス、ハンスはいるか」
血相を変えて飛び込んできたのは、アンの夫・パン屋の主人だった。
「クルトが大変なんだ」
椅子を倒してハンスは立ち上がった。家を出てくる時には、病状は安定していたが、何かあったのか。
「ひどい物音がしたんだ。悪いが裏口を壊して入らせてもらったら、クルトが階段の下で」
最後まで聞かずにハンスは酒場を飛び出した。
「ああ、近々色よい返事を聞かせてもらえそうな気がします」
バラーシュの声がかすかに聞こえた。
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