第6話 6

 翌朝、ハンスは昨夜のバラーシュの足取りをたどってみた。

 まだ夜が明けきらぬ煉瓦の歩道は所どころに薄い氷が張り、踏むときしむような音を立てた。鼻の奥がつんと冷たくなり、ハンスは首に巻いたマフラーを目の下まで引き上げる。

 もしも、誰か知り合いと会ったなら、妻の墓参りだと言い訳をまで用意して足早に橋を渡った。かじかむ手を上着に突っ込み、うつむきがち進むうちに東の白む空から金の光がさしてきた。凍った霜を置く枯野がきらめく。ハンスは顔を上げて息をついた。

 森を抜けた先に墓地はある。再び凍える木陰の道をゆくと、木々が切れたところから、カゲロウのように揺らめくものが見えた。最初は何か分からなかったが近づくうちに、蚊柱が立っているとハンスは思った。けれど、晩秋の早朝に蚊柱が立つだろうか。蜘蛛の巣には、もう宿主の姿はない。虫たちは枯れ葉の下で寒さを凌いでいるはずだ。

 轍に張った氷を踏まないようにして森を抜けると、蚊柱がたつ草むらから白いものが突き出ていた。

「あ、足っ」

 木の陰と長く伸びたまま枯れた草に隠れて、白く細い足が投げ出されていた。あまりにも白く、作り物のように見える。

 ハンスは道から草むらへ、こわごわ体を乗り出して確かめた。

 栗毛色の長い髪の女が倒れていた。めくれあがったスカート、大きく広げた両腕、手首には何重もの細い腕輪が……。

「バラーシュ……!」

 ハンスは両手で口をふさいだ。昨夜バラーシュと一緒だった女だ。

 目を見開いたまま傾けた首筋には、縦に穴が二つ。犬に咬まれたような傷が見えた。

 蚊柱は女の上に立っていた。いや、それは蚊柱というより渦巻く水蒸気か塵か。

 棒立ちになったハンスと、仰向けに倒れた女にまぶしい朝陽が当たった。

 それは一瞬のことだった。まばゆい光が女を照らしたかと思うと、女の体はハンスがまばたきする間に霧散した。

 口に手をあてたまま立ちすくむハンスの前には、女物の服だけが残されていた。

 戦場で嫌というほど目にした死体のどれとも似ていなかった。塵や霧のようにして消える死体など、見たことも聞いたことも……いや、肉屋の親父が話していた。

 ハンスの膝は細かくふるえた。

 ――吸血鬼にでも咬まれたのかね。

 この仕業にバラーシュが関係しているのだろうか。バラーシュが吸血鬼なのか。まさか、という思いと、確かに目の前の死体が消えて服だけが残されたという事実。

 ハンスは周囲を見回した。誰もいないことを確かめてから腕輪や服を道から見えないように、森の奥へと捨てた。



 家へと逃げるように帰りつくとハンスは膝からくずおれ、はげしく咳き込んだ。

 自分はたしかに女の体が朝日の中で塵になるのを見た。それは夢ではない。とうていあり得ないことだ。しかし先日の市場で、似たようなことが町で起きていることは聞いた。

 咳をし過ぎて息が苦しくなる。ハンスは胸をおさえて咳をこらえた。食いしばった歯の間から、何度も細い呼吸を繰り返した。

 仮にバラーシュが、吸血鬼だとして……そう考えるだけで、ハンスの全身から汗が吹き出した。

 この店は、自分は吸血鬼に目を付けられている。バラーシュに時計を見せて、探しているものかどうか確かめさせ、さっさとここから追い払うに限るのだ。

 けれど、エラが愛した懐中時計がバラーシュが求めているものだとしたら、自分は手放すことができるだろうか。

 大きく息を吐き、咳が止んだことに気づいたハンスはよろめきながらも立ち上がった。

 バラーシュが吸血鬼と考えることは、自分の思い込みに過ぎないのかも知れない。十字架やにんにくを嫌い、日光を浴びると灰になる。そのため日没後にしか出歩かない。バラーシュはそんな吸血鬼なのか。

昨晩見たのは女の後ろ姿だ。同じようなアクセサリーをつけた女がほかにいてもおかしくはない。

 ただ、バラーシュが吸血鬼でないとすれば、この町には吸血鬼……あるいは何かの魔物がいることになるだろう。いや、殺人鬼か?

 確かめなければ。

 もしかすると、自分はとんでもない者と取引をしなければならなくなる。

 もうすぐアンおばさんがパンを届けに来るだろう。おばさんにいつもどおりに挨拶ができるだろうか。日常から半歩はみ出したように感じながら、朝日に照らされてハンスは目をすがめた。

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