第5話 5
ハンスは鶏のスープを仕込むと、頼まれていた腕時計の修理をして午後を過ごした。
帰宅してからクルトの部屋を訪ねると、焼りんごをのせた皿は空になっていた。カーテンが引かれた薄明るいなかで、クルトは安らかな寝息を立てていた。
ハンスはクルトの邪魔にならないよう、静かに作業をした。動かなくなった時計を部品取りに使い、どうにか直せないかと苦心に苦心を重ね、幸いにも腕時計はまた動き出してくれた。
ほっとすると、手元が暗くなっていることに今更気づいた。台所へもどってランプを付ける。かまどの燠を火かき棒でかきまぜ、薪をくべてたきつけた。
そういえば、年代物の懐中時計は動くだろうか。ハンスは台所の床下から、時計の箱を取り出した。
ここしばらく、手入れをした覚えがない。ハンスは天鵞絨の布を外してばねを巻いた。カチカチと、小さな音がして、時計は息を吹き返した。微かな振動がハンスの掌に伝わる。まるで、人の鼓動のようだ。
「動いているところを見せたらよかった、エラに」
いまさら悔やんでも仕方ないが、時を刻む時計をエラが見たらどんなにか喜んだだろう。エラが来てすぐに、ハンスのただ一人の肉親の父親が亡くなった。そのため、代替わりしたばかりの店は毎日が慌ただしく、懐中時計は店のケースに飾られたきりだった。
懐中時計を売れば、いくばくかの金が手に入る。クルトのために使うことができる。けれど必要に迫られて金に換えるとはいっても、やはり手放しがたく思えてくる。ハンスは時計をそっと箱に戻した。
クルトになんとか食事を摂らせて、台所の片づけを済ませると、今夜は新月のようだった。ハンスは道路に面した寝室から、外を眺めた。わずかな街灯がともる町の夜は、煉瓦が敷かれた歩道が金属のように鈍く光って見える。爆撃で高い建物が壊されたせいで、遠くの畑や丘が白と黒の濃淡で彩られていた。遠吠えがかすかに聞こえた。さすがに、こんなときに往来する者はいない。
そう思った矢先に、かつかつと足音を響かせ、すっとした影が右手からやってきた。
帽子をかぶり、コートを着た姿からハンスはバラーシュだと気づいた。バラーシュはハンスの店の前までくると足を止め、グッと首を突き出して店内をのぞきこんだ。とうに閉店している。こんな夜更けに店の様子をうかがうバラーシュをみて、ハンスのうなじが冷たくなってきた。
目的の懐中時計があると、決めてかかっているのだろうか。と、ぐるりと首をねじあげて、バラーシュがハンスのいる窓を見上げた。
一瞬、目が合ったと感じたハンスは、とっさにカーテンの陰へ隠れた。早くバラーシュが立ち去ればいいのにと、耳を澄ませて足音を待った。自身の鼓動は耳の中にあるようだ。
どれほど時間が経っただろう。バラーシュの足音が遠ざかり始めた。ハンスはカーテンから少しばかり身をずらして外を確かめた。
通りの端、交差点の街灯の下へ差し掛かるバラーシュが見えた。すると、不意にバラーシュの足が止まった。誰かと話をしてるように、頭が小さく動いた。バラーシュが左手を伸ばすと、その腕の中に長い髪のシルエットが滑り込んだ。ゆったりとした巻き毛に長めのスカートがゆれる。手首に何本もの細い金属の腕輪が光っている腕が、バラーシュの袖にからまる。
商売女か。
そのままバラーシュは、街娼らしき女と交差点を渡り、まっすぐに歩いて行く。通りの先は商店も民家もまばらになり、橋を渡ると共同墓地しかないのに。
ハンスは一連のバラーシュの行動に、薄ら寒いものを感じ、クルトの向かいの自室のベッドへと潜り込んだ。
なに、バラーシュも男なのだ。一人で気ままに旅をしていると言っていたじゃないか。さびしい夜もあるだろう。
けれど、恋人のことを熱心に話していたというのに……。
そこまで思い返して、ハンスの記憶が鮮明によみがえる。
――わたしは指輪を贈り、彼女はわたしに懐中時計を……。
わたしは、とバラーシュは話した。当初の祖父のものという話はどこへ行ってしまったのか。疑問に思ってハンスが尋ねた時の、バラーシュの取り繕うような態度が釈然としなかった。
懐中時計は、祖父のものではなく、やはりバラーシュの物なのだろうか。しかし、そうなると辻褄が合わない。懐中時計は、少なく見積もっても百年は前のものだ。
ハンスはまんじりともせず、ベッドの上で何度も寝返りをして朝を迎えてしまった。
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