珈琲は月の下で

桃本もも

珈琲は月の下で

 何だか最近体調が思わしくない。

 頭が痛いとか、胃腸が弱いとか、そんなはっきりした不調があるわけではない。


 強いていえば、五月病の症状に似ているかもしれない。

 何となく憂鬱で、やる気が出なくて、休日の午前中に寝転んだら最後、布団の中で一日丸潰れになってしまう。夜になるとなぜか泣きたくなってくる。

 おかしいなぁ。今は五月じゃないし、そもそも五月病にかかったこともないし。


 そう言えば、去年も同じ時期に体調を崩した覚えがある。カレンダーを見て気がついた。

 印なんてついていないのに、20の文字が浮き上がって見える。

 そうか。

 あの日からもう二年が経とうとしているのか。



 *



 二年前の十月二十日。

 その日は二十四年の人生の中で、いまだに最悪な一日となっている。

 長年いっしょに暮らしてきた、うさぎのモカが死んだ日だ。


 モカとの出会いは、ペットショップ。わたしが十一歳のときだった。

 モカは毛糸玉のように小さく、丸かった。動きが速く、予想もできない行動に心を鷲掴みされた。ガラス越しにわたしを見上げる黒い瞳には、怯えと好奇心が半々に溶けあっていた。

 ちょっと目を離した隙に消えてしまいそうなほど、儚い姿だった。


 モカという名前はわりとあっさり決まった。毛色が深い茶色で、女の子だったからだ。

 モカは大きな病気もなく、爪切りと定期検診でしか病院に行ったことがなかった。亡くなったのも、おそらく老衰のためだろう。うさぎの平均寿命は八〜十年と言われているが、モカは十三歳まで生きた。亡くなる前日まで、軽やかな足取りで遊び回っていた。死に際も、少し苦しそうにしたものの、穏やかに眠るかのようだった。


 モカがいなくなってから、わたしの生活は荒れ果てた。

 食事が喉を通らず、それなのに常に吐き気があり、毎晩泣いていたから頭が鉛のように重かった。


 仕事をしている方がまだましだった。身体を動かす立ち仕事だったから、物思いにふける暇もなかった。

 部屋にひとりでいるときがいちばん辛かった。ケージの中に気配を感じて振り返っても、モカはいない。モカが食べきれなかった牧草やおやつを見ると、わたしまで置いていかれたような気になった。


 そんな折、うさぎが亡くなることを、うさぎ好きの間では『月に帰る』と言うことを知った。ネットでは『うちの子がお月さまに帰りました』とか『月に帰ったうさぎさん』とかいうふうに使われており、いつからかは分からないがかなり浸透しているみたいだ。死を和らげた表現が、飼い主たちに広く受け入れられているのだろう。


 それを知ってから、わたしはしばしば月を見上げるようになった。月の模様がうさぎになんて見えたことがなかったのに、何となくうさぎのような気がしてきた。

 月にかかった雲が虹色に色づくこともはじめて知った。モカも地球にかかる虹色の雲を見ているのかな、と思うと、久しぶりにふわっと気持ちが丸くやわらかくなった。


 久しぶりに空腹を感じ、スーパーに立ち寄ることにした。そういえば、モカが死んでからお供えひとつしていなかった。セロリ、にんじん、りんご、キウイ……。モカが好きだったものをどんどんカゴに入れていく。

 自分の食料を選ぶ前にカゴはいっぱいになっていた。うさぎの食べる量はたかが知れてるので、好物をぜんぶまとめて買うことなんて今までなかった。モカはこんなに好きなものがいっぱいあったんだ、といなくなってから気づくなんて。


 お惣菜コーナーに差しかかったとき、今まで嗅いだことのないにおいがしてきてふと足を止めてしまった。いつもは油のにおいに満ちているのに、香ばしく上品な香りが漂っている。だけど、ご飯のおかずにしたいタイプのものではない。

 何が放っている香りなのか、陳列棚を端から端まで眺めるが、発生源がわからない。そればかり気になって、お惣菜はひとつもカゴに入っていない。揚げ物や弁当を素通りして、いつの間にかパン屋のイートインスペースを兼ねた休憩所まで来てしまった。


 そこで、この謎の香りの正体がわかった。

 コーヒー豆を焙煎し量り売りをする、小さな売り場ができていたのだ。

 期間限定でスペースを間借りしているのだろうか。三十代半ばに見える女性店員は、スーパーの緑色のものではなく、麻のようなナチュラルな印象のエプロンを身につけている。


 わたしはコーヒーを好んで飲んだことがない。どちらかと言うと紅茶派だ。

 それなのに、なぜかその小さなコーヒー屋に引き寄せられていた。


「いらっしゃいませ。試飲もできますので、気になるものがございましたらおっしゃってください」


 店員が愛想よく声をかけてくる。はあ、とうなずきのような会釈のような動きをしながら豆の銘柄に目を走らせ――はっと息を飲んだ。


「モカ……」


 深い茶色の豆が詰まったケースのひとつに、字面だけで愛しさが溢れてくるような文字が書かれていた。

 モカというコーヒーがあることなんて知らなかった。子どものころは、チョコの英語がモカなのだと思って、子うさぎの名前にしたのだ。チョコ自体が英語だというのに、変だと思ったことがなかった。


 ブルーマウンテン、エチオピア、キリマンジャロ……素人目には同じにしか見えない豆がたくさん並んでいるのに、やっぱり『モカ』の茶色がいちばんモカの毛色に似ていると感じるのは気のせいだろうか。


「モカ、試飲してみますか?」


 ついこぼしたつぶやきが聞こえてしまったのか、店員が身を乗り出して訊ねてくる。

 わたしは一歩あとずさって首を振った。試飲するからには、感想を言わねばならないだろう。気の利いた言葉をひねり出せるとは思えなかった。


「あの……これって何グラムから買えるんですか?」

「百グラムから大丈夫ですよ」

「じゃあ、百グラムでお願いします」

「モカでよろしいですか?」

「はい。モカで」


 店員がケースの引き出しを開けて、プラスチックのスコップで豆をすくう。さくさく、と霜柱を踏むような軽い音がする。


 茶色の小さな豆が袋に詰められるのを眺めていたら、懐かしい場面を思い出した。

 まだ名前のついていないモカが、ペットショップの店員に抱き上げられ、牧草を敷きつめたダンボールに入れられるところだ。足がぷるぷると震え、瞳は見開きすぎて白目がのぞいていた。


 コーヒー豆の代金を払い、差し出された紙袋を両手で受け取る。久しぶりにモカを抱き上げたかのような感覚があった。

 うつむき、袖で目もとを掻くふりをしながら、コーヒー屋をあとにした。



 家に帰って早速コーヒーを飲もうと思い、ふと気づいた。

 コーヒーって、豆のままお湯に浸すんじゃなかった気がする。

 調べてみると、ミルというもので挽かなければいけないらしい。コーヒーの淹れ方も知らない人の家にミルがあるわけもなく、ネット通販で注文する羽目になった。だけど、買うのに躊躇はしなかった。何となく、これからは頻繁にコーヒーを飲むことになりそうだと、そんな気がしたからだ。


 三日後、頼んでいたミルが届き、ようやくコーヒー豆の封を切るときがきた。袋の口をていねいにハサミで切った瞬間、スーパーで嗅いだあの香りが解き放たれた。まるで、袋の中から風が吹いてきたかのように、全身を香ばしい香りに包まれる。


 ミルの説明書を見ながら、おぼつかない手つきでコーヒー豆を入れてみる。ハンドルを水平に円を描くように回していると、ゴリゴリとした手応えが急に軽くなった。木箱についた、小さな宝物でも入れておくような引き出しを開けると、豆の色はそのままに粉状になっていた。

 ミルとあわせて購入したドリッパーに紙のフィルターを設置し、粉を移す。沸騰したお湯を注ぐと、香りはより強く部屋に充満する。カップに落ちる滴の音が心地よい。


 淹れたてのコーヒーは、つややかなモカの毛並みを思わせる色をしていた。そっと両手で包みこみ、窓際に運ぶ。

 折しも、その日は満月だった。黄色よりもオレンジ色に近い月には、もう意識しなくてもうさぎがはっきりと見えた。


 カップを口もとに近づけ、息を吸う。コーヒーの香りとモカの記憶が交わったことなんてないのに、なぜかするするといろんなことが頭に浮かんでくる。


 おでこを撫でると気持ちよさそうに目を細めること。

 寝転んでいるわたしの背中に乗るのが好きだったこと。

 水を飲むのが下手で、いつも床をびしょ濡れにしていたこと。


 カップを持ち上げると、小さな水面にまん丸の月が映って見えた。湯気に霞みながら、淡く光を放っている。


「これ、モカと同じ名前のコーヒーだよ」


 わたしはモカにしていたように、そっとカップに口を寄せた。モカのおでこの香りを吸いこむように、コーヒーの香りで肺を満たす。

 少しだけコーヒーを口に含み、舌の上に広げる前に飲み下した。モカが盲腸糞を食べたあとの口の臭いを嗅いでしまったときと同じように、顔が歪むのがわかった。


「苦っ……」


 涙が出た。苦すぎて涙が出た。

 拭っても拭っても溢れてくる。

 カップが揺れ、映った月も揺らいでいる。

 わたしは一晩かけて、泣きながらコーヒーを飲み干した。



 *



 コーヒーを淹れ、窓際に置いたソファに腰かける。今日の月は少し欠けていた。最近月を見上げていなかったから、これから満月になるのか、どんどん細っていくのかわからない。


 二年前、はじめて自分で淹れたコーヒーをブラックで飲み干したときのことを思い出し、懐かしくて笑みがこぼれた。今ではブラックを平気で飲むようになったが、飲みながらときどき泣いてしまうのは変わらなかった。


 そうか、モカがいなくなってから二年か……。

 わたしはあのころからずいぶん変わってしまった。

 紅茶派からコーヒー派になり、モカのいたケージは綺麗に洗ってしまいこみ、モカのためだけに買っていたセロリは視界に入らなくなった。モカのいない日々に慣れてしまった。

 ただ、飲むコーヒーはモカだけ、月を見ながらという習慣だけは変わらない。


 カップが空になり、ふと足もとを見ると、黒く、小さいものが落ちている。コーヒー豆だろうか。でもコーヒーは台所で淹れるから、部屋に落ちているのはおかしいな、と思いつつ拾ってみる。


 それはコーヒー豆ではなく、モカのフンだった。


 カラカラに乾いて、普通の半分ほどの大きさになっている。今まで何度も掃除していたはずなのに、二年もの月日を経て出てくるなんて。


 忘れられた気がして怒っているのかな。

 大丈夫。忘れないよ。

 モカを飲むたびに思い出すから。


 月の光を受けるカップに、いつもモカにしていたようにそっと口を寄せた。

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