蟷螂のうらみ

 ……うう、ちくしょう。体のあちこちが痛い。起き上がろうとすれば前足が、飛ぼうとすれば羽の根っこが、とにかく千切れそうなところがそこかしこにある。どうにも我慢ならない痛みだった。それでも立ち上がらなければ、自然では生きていけない。

 なぜこうなったか、思い出そうとした。そうだ、世界がふたつに割れたのだ。真っ黒な帯が突然、目の前にやってきて、自分に思い切りのしかかってきた。痛みが全身を駆け抜けたかと思ったら、帯は去っていった。世界もまた、ひとつきりに戻っていた。

 かと思うと、この痛みだ。口の中でがちゃがちゃと歯を鳴らす。おれはかまきりだぞ。どこのどいつか知らないが、きっとひどい目に遭わせてやる。とっ捕まえて、この立派な鎌でぐんと引っ張り込んで、頭から食ってやるんだ。そうしたら、この恨みも晴れるに違いねえ。

 だがその前に、体の様子を見たほうがいい。ふらふらと川へ歩いていった。水鏡に姿を映す。なんてことだ、自慢の羽がぐんにゃり曲がっている。それだけで一瞬気絶するかと思ったが、耐えた。おれはかまきりなのだ、こんなことに折れてはいられない。

「あんた、ひどい怪我じゃない」

 はっとした。切り裂くような、しゃんとした声だ。褐色の肌をした雌のかまきりが、おれを見ていた。きっと上がった目が、おれの好みだ。体も申し分ない。おれはじりじりと近づいた。そうだ、そろそろ、そういう季節じゃねえか。

「ああ、なんだかよくわからねえやつにちょいとな。だがよ、そいつはもういねえ。何故かわかるか」

 距離を詰めても、動かなかった。おれは鎌で口元を隠すように身構えた。この雌(おんな)は、おれに気がある。

「そいつを、どうしたの」

 かまきりは言った。大きな尖った目が、潤んで見える。それが誘いだった。俺は痛む体など構わず、雌に飛びついた。

「おれをこわがって、逃げてったさ。世界を真っ二つにする変な野郎だったが、おれのことは恐ろしかったようだぜ」

 おれはそうして、雌に、なすべきことをした。本能が、そうしろと命令することを。雌もまた、その腕を広げて受け入れる。その口がかちゃかちゃ鳴った。

「そう、あんた、優秀な雄なのね」

 雌はおれを包み込むように、鎌を首へ添えた。痛みが消えるような、ぞっとするような声をしていた。

「傷物だからどうかと思ったけど、かえって都合がいいわ」

 雌の言葉の意味が、わからなかった。おれが傷物とは、さすがに腹が立つ。

「おい待てよ、傷物って言い方はねえだろう」

 雌は黙っていたが、だんだんと興奮してきたようだった。尖っていた目が更に尖って、黒目がきゅうっと縮こまる。

「遠慮なくいただくわ、優秀な雄さん」

 それから急に、目の前が真っ暗になった。何も見えねえ、なんだこりゃ、くそっ。だが、おれの体は、おれが「なすべきこと」をきっちりやったらしい。その感覚も、途中からなくなっていった。


「安心して、子供たちにはパパに感謝するよう伝えてあげる。ごちそうさま」

 鎌で口元をひと拭きした。雌かまきりは、雄かまきりだったものを置いて飛び去っていく。羽が一枚、風に吹かれ、川面に浮かんだ。光のちらつきに反応して、石斑魚がぱくりと飲み込む。

 夏が、終わろうとしていた。

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短編集 朱藤欒 @Pomelo_orchid

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