短編集
朱藤欒
ねがいごと
川辺に花たちが咲いていた。いずれも鮮やかに、お天道様へその顔と手を伸ばしている。蜻蛉は垂れた稲穂で愛を育み、澄んだ流れには肥りはじめた魚がぴゅんぴゅんと泳いでいた。鴨が群れを作り翼をばたつかせ、番いを探しているようだ。秋が終わってしまう前に、ひときわ強く、彼らは生命の歌を響かせていた。
「ああ、わたしに葉があったなら」
その中で、ちいさくつぶやく者がいた。彼岸花は頭を振り、雨粒を滴らせた。項垂れるその様が涙しているようで憐れに思い、空は風を止めた。
「あの花にも、あの花にも、葉がある。わたしに与えられたのは、茎だけ」
独り言のように彼岸花は言った。そのささやきを聞き咎めるものはいない。他の生き物たちは、自分の生命を歌うのに必死なのだ。彼岸花のかなしみなど、気にかけているゆとりはない。
朗々と光を浴びる鳳仙花が恨めしい。天を衝くように長く伸びる秋桜が妬ましい。彼岸花ははっとして、地を這う草たちを見つめた。名を人にさほど知られていない草花たちにも、葉はある。それが彼岸花には、まぶしく、かなしく見えた。
「そんなに葉がほしいのか」
問いかけたのは止められていたはずの北風だった。風だけは、花々のささやきをよくよく聴いていた。少しでも歌を止めたものを、連れ去るために。たとえば雨のあと、まだ歌えるはずの金木犀を誘い出すのは北風だ。そうして地面に金の道を作り、満足げに眺め、色が褪せれば気まぐれに吹き飛ばしてしまう。木々にしてもそうだ。強いものは葉をわずかに散らされるくらいで済むが、裸にされるものも珍しくはない。楓の紅葉を終えた葉など、格好の餌食だ。縦横無尽に飛び回る北風は、春が来るまでその天下を謳歌し続ける。これが夏を迎える頃にはすっかりその質を変えてしまうのが、彼岸花には不思議だった。夏の風は草花たちの爽やかな香りを、沢の流れの清涼を運ぶという。夏水仙が言っていた。あたしが枯れるってことは、そろそろあれも変わるわね、と。まだ蕾にもならない彼岸花は、それを不思議な思いで聴いていた。
「葉がほしいのか」
彼岸花が黙っていると、北風は一度強く吹き付けた。豊かな、見事な赤い花が、日差しの中で大きく頷く。北風は満足そうに小さなつむじ風を紡いだ。
「そうか。では、毎晩月に祈ってごらん。葉が茂るのは、お天道様を受け止めるためだ。あれも、それも、すべて両手を広げているだろう。だがそれには、月の許しが必要だ」
彼岸花はちゃかちゃかと、早い落葉を弄ぶ北風の言葉をじっと聞いた。
「これから三晩、雨が降る。月は雨を知っている。必ずその顔を曇らせるからな。お天道様のように、雲を使って隠れたりしない。ただ雨が降ることを知り、その顔を曇らせるだけだ」
「つまり」
勿体つける北風に、彼岸花は静かに尋ねた。ひとつ笑って、北風が答える。
「三晩のどこかで、雨を止めるのだ。月に祈り、ただ顔を曇らせるのではなく雨雲を退けるよう、切に伝える」
「でもわたしはただの花よ、そんなこと」
「できないならば、葉も出ない」
戸惑う彼岸花を押し止めるように北風が吹いた。雲が僅かに、お天道様にかかる。北風がひときわ強く、踊った。
「おまえの花が終わるのも、あと三晩だ。おまえが枯れれば、冬の歌がはじまる。おれがまたやってくるまでに、祈りが届くといいな」
川面を揺らし、人家を震わせ、北風が去っていった。空の雲がわずかに、その歩みを早める。彼岸花はようやく顔を上げ、呆然と北風の言葉を反芻した。
あと、三晩。
三晩心をこめて祈ったなら、葉が出るかもしれない。
彼岸花はしかし呆然と、夜を待った。それしか自分には、することがない。葉もなく、ただいくつかの頭を揺らすくらいしか、できることがないのだ。
ああ、葉があれば。葉があれば、あのお天道様を思い切り、抱きしめることができるのに。
夜はあっという間にやってきた。秋は簡単に、お天道様を連れ去ってしまう。彼岸花はかわりに現れた、月を見上げた。
「お月様、お月様。お願いです、どうか雨を止めてください」
お月様の顔は曇っている。ゆらゆらとその輪郭が曖昧になるほどだ。彼岸花はちょんと頭をひとつ、下げた。
「お願いします、お月様。わたし、葉っぱがほしいんです。あなたが雨を止めてくれたら、それが葉っぱを持つ許しになるのでしょう」
だが雨は降った。彼岸花の花びらに、雌しべに、大きな雫が次々と打ち付けられる。左に咲いた花がしおれはじめた。
朝がきて、昼になっても収まらない雨だった。薄暗い日を終えた二晩目も、彼岸花は心をこめて祈った。冷たい雨が、右に咲いた花をしおらせた。
「ああ、お月様、お月様。お願いです、どうか雨を止めてください。もうわたしの花は、長くありません。どうか、ひと目でいいんです、一枚でもいいんです。どうかわたしに、葉をください」
月は黙っていた。雨はやまなかった。彼岸花の四つ咲いていた花は、もうあとひとつしか残っていない。
「お願いです、お月様。もう、わたしの花は終わってしまいます。どうかその前に、一度だけ、たった一度でいいんです、葉をください。どうか雨を止めて、お月様、わたしにあなたの光を抱きしめさせてください、わたしは夜でも、枯れない花なのですから」
それが彼岸花の、最後の言葉だった。最後の花がしおれた頃だった。いつだったのかわからないほど一瞬で、誰がそう決めたかもわからないほど静かに、雨は止んだ。朝を迎える間際、お天道様と入れ替わる間際の月光を浴びたまま、彼岸花の花は朽ちた。
その欠片すらなくなり、茎も倒れた頃、北風がふと舞い戻ってきた。
「おろかなものだ。こんなに立派な葉を持っているというのに。そんなに己の目で見るということは、大切なのかね。自分の知らんところとはいえ、こんなにも空を、光を、抱きしめているというのに。花の心というのは、わからんな」
それだけ吐き出すと北風は空へ、川へ散った。青々と豊かに茂る葉が残される。
「……花かあ」
葉のひとつがぽつりと言った。それはやがて、さんざめきへと変わっていく。
「……僕らに花があったら、どんな風だろうねえ」
「きっと、とてもきれいだよ。だってこんなに青々として、凛と伸びていくんだもの。葉っぱだってきっと、美しいに違いない」
「赤かな、橙かな、黄色かな、白……」
「決まってるよ、そんなの」
最初の葉とは別の葉が、自信満々に胸をそらす。
「何色だっていうんだい」
自信ありげな葉が、問いかけた葉を押しのけて空をさす。
「あのお天道様みたいな、立派で、きれいな、真っ赤な花だよ」
葉たちは寄り添い、またざわざわやりはじめた。春に咲くかもしれない、自分たちの花を、待ちながら。
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