ついてくるナニカ

遠藤初日

第1話

 帰宅部の俺は普段帰りが遅くなることはない。

 けれど今日は放課後に呼び出されて、気がつけば時計の針は夕方の六時半を回っていた。

 十月の下旬ともなればこの時間でも辺りは真っ暗だ。

 少しでも早く帰ろうと、近道になる古い橋へ続く道を俺は久しぶりに自転車を押して歩いている。

 住宅も殆どないこの道は街灯の間隔も遠く、そのうちの何個かは力なく明滅を繰り返していて薄気味悪さに拍車をかけている。

 虫の鳴き声一つ聞こえない、無音の暗闇にローファーの足音が響いている。

 少し後ろからももう一つ足音が聞こえた。

 この道を通ると、どうしてもあの出来事を思い出してしまう。

 ――あれは小学六年生の時の、丁度今頃の時期の出来事だった。


 六限目後のホームルームが終わって、俺はいつも通りさっさとランドセルを背負い教室を出た。

 クラスメイトに見つかると面倒くさい。俺は早歩きで廊下を抜け、下駄箱で靴を履き替え、駆け足で校門をくぐる。校門を出てからは歩調を落として歩くというのがルーティンだった。

 歩道橋を渡り寂れた商店街を抜けると、人通りもまばらな十字路が見えてくる。

 その十字路の道の一本、古い橋に続く道にはそこを通るとナニカがついてくる、という噂があった。

 こちらに曲がらずにもう一本先まで行けば新しい橋もあるけれど、家の方向的に大回りになってしまう。

 当然、俺は古い橋への道を選ぶ。

 小学校に入学して以来、毎日のようにこの道を通ってきたけれど、一度たりとも噂のナニカを見たことはなかったのだから。


 いつの間にか、ナニカが後ろを付いて来ている気配を感じて、たまに後ろをちらちらと確認しながら歩く。

 軽自動車がギリギリ一台通れる程度の石橋を越えて、閑散とした住宅街を抜けるとすぐに立ち並ぶ巨大な壁が見えてくる。

 いかにも昭和じみた、色あせた団地の群れのひとつに俺のうちはある。三号棟の三階で、階段を上ってから三つ目の扉が俺の家だ。

 昼間でも常にうすっ暗い階段をテンポよく上ると、後ろからもゆっくりと足音がついてきた。

 ズボンのポケットから家の鍵を探り取って鍵を回す。玄関に入り、鍵を閉めて「ただいまー」と、一応言うけれど反応はない。

 うちは共働きで、母も夜七時を過ぎないと帰ってこないのだから当然だ。

 教育熱心ということはないけれど、宿題は母が帰る前に終わらせておくようにと小学一年生の頃から言われ続け、今ではすっかり習慣になっていて夕方のアニメを見終わると自然と机に向かうようになっていた。

 

 その日は算数の宿題がうまく解けずにうんうんと唸っていると、呼び鈴の音が聞こえて我に返った。

 時計を見ると夜の六時半。母が帰ってくるにはまだ少し早いし、母ならば鍵を持っているのだから呼び鈴を鳴らす必要はない。

 玄関に向かうと今度は控えめに三つドアを叩く音と、幽かにナニカの声が聞こえた。

 俺はドアの鍵を開け、その相手に声をかける。


「どうしたんだよ、奈仁香なにか

 ――奈仁香というのは小学一年生の頃にうちの隣に引っ越してきた同学年の女の子だ。

 大人しくて華奢な上に名前も少し変わっているので揶揄われることが多かった奈仁香を俺はいつも助けていて、彼女を守りながら一緒に下校するのが日常だった。

 優しくて手先が器用で見た目も可愛らしい奈仁香のことが俺は好きだったし、たぶん奈仁香も俺に好意はあったと思う。

 けれど、小学五年生で同じクラスになった時に黒板に俺と奈仁香の名前を入れた相合傘が描かれて、それが当時はとても恥ずかしくてそれ以来、学校では一緒にいることをやめてしまった。

 帰り道ではクラスメイトに見つからないように、学校から離れてから歩調を落として奈仁香が追いつけるようにしていたのだけれど、彼女も俺に気を使ってなのか、少し後ろをついてくるだけになっていた。

 奈仁香は元々口数が少なく、俺自身もどちらかと言えば口下手で、隣を歩いていても喋らないことはよくあったから気にしないことにした。

 ただ、奈仁香がちゃんとついてきているかは常に気を配って歩いていた。


「あの……これ……」

 しばらく沈黙していた奈仁香がおずおずと右手を差し出してくる。

耀太ようたくん、誕生日だから……」

「おう。いつもサンキューな」

 俺はその手からミサンガをつまみ上げ、今まで身に着けていた、少し色あせてほつれかけたものと取り換える。

 毎年模様は違うけれど、奈仁香は俺の誕生日に黒と赤の糸で編まれたそれをいつもプレゼントしてくれた。

「それじゃ……」

 幽かに微笑み、胸元で小さく手を振って自分の家に入っていく奈仁香を見送ってから俺も再びドアに鍵をかけた。


 誕生日だからといって両親が早く帰ってくるとか、パーティをやるということもなく、夕飯は普段より一品多くなって最後にショートケーキが出てくるぐらいだし、親からのプレゼントも毎年鉛筆とノートだから奈仁香から貰えるこのアクセサリが俺にとって一番のプレゼントだった。


 それなのにあの日、俺はそのミサンガを捨ててしまったのだ――。


 その時は知らなかったけれど、奈仁香は俺にくれるミサンガと同じものをもう一つ作っていて、身に着けることはあまりないけれど、いつもそれを持ち歩いていたらしい。

 ただその日はなぜか右手に着けていて、運悪くクラスの男子たちにそれが見つかってしまい、お揃いだなんだと俺たちはしつこく冷やかされた。

 それが恥ずかしくてイライラしてしまった俺は、帰り道のあの古い橋でミサンガを力いっぱい投げ捨ててしまった。

「あっ、ダメ……!」

 俺の少し後を歩いていた奈仁香が小さく叫ぶ。

 ミサンガは木枯らしにあおられて土手の草むらに落ちたように見えた。

 普段走ることがない奈仁香が、悲壮な表情で駆けて行く。

 土手は草が伸び放題で、ゴミもちらほらと捨てられている。

 たぶん簡単には見つからないだろう。

 普段見せない表情に驚いたけれど、虫の居所が悪かった俺は奈仁香をおいてひとりで家に帰ってしまった。


 今日の出来事を忘れるために無理やり集中して宿題に向き合っていると、幽かに玄関を叩いている音が聞こえた気がした。

 時間は午後六時半。

 ――奈仁香がミサンガを見つけて持ってきたのかもしれない。やっぱりさっきのこと、謝らないと……。

 そう思って急いで玄関へ向かう途中にもドアは叩き続けられていた。

 ドアノブに手をかけようとして俺は、はっとしてその手を止める。

 奈仁香はいつも三回しかノックしないし、そういえば呼び鈴も聞こえなかった。

 少し怖くなって後ずさると、それに気がついたかのようにドアを叩く音が強くなる。

「――――――――――!」

 人の声とも獣の遠吠えともつかないような怪音が扉の先から放たれる。

 ドアが破壊されるのではないかと思うぐらいの激しい打撃音が続く。

 俺は必死で自分の部屋に逃げ、布団を被った。


 どれぐらい時間がたっただろうか――。

 いつの間にか音は止み、先ほどとは打って変わって静寂があたりを包む。

 ガチャリ、と鍵の回る音が聞こえ、俺は目を瞑って息を殺した。

 ペタペタとナニカが近づいてくる気配を布団の中からでも感じる。

 もうダメだ――。



「どうしたの、布団なんかに潜って。具合でも悪いの、あんた?」

 母が布団をまくった。

「これ、ドアノブにかかってたけど奈仁香ちゃんからのプレゼントじゃなかった?」

 放心している俺の前にあのミサンガが差し出される。

 ――なんだ、やっぱりさっきのは奈仁香だったのか。ただ返すのが癪だから俺への仕返しで少し怖がらそうとしたんだ。そう、思うことにした。

 恐怖から解放されてドッと疲れが出た俺は、母には具合が悪いと言ってそのまま寝ることにした。


 翌朝、目を覚ますと母が電話をしている声が聞こえた。

 どうやら仕事を休むらしい。

 電話を終えると母は俺に気がつき、俺を椅子に座らせた。

「落ち着いて聞いて」と告げ、一呼吸おいて信じられない言葉を口にする。

「奈仁香ちゃん、亡くなったって」

「は?」

 何を言ってるんだ。冗談でも笑えない。

 怒りが沸き上がってつい母を睨んだが、母は目尻に涙を溜めながら続けた。

「あんた、昨日は早く寝ちゃったからね。昨日の夜ね、香緒理かおりさんが帰ってきたら、倒れてたって」

 香緒理さんというのは奈仁香の母で、女手一つで奈仁香を育てていた。

 その為、帰宅は俺の母より遅いことが多かった。 

 

 その日の午後、母に連れられて奈仁香の家を訪ねると、奈仁香は自分の布団に寝かされていた。

 奈仁香は心臓が少し悪かった。

 かかりつけの病院でもそれが原因だろうと言われたそうだ。

 色白の肌は普段よりも青白かったけれど、それ以外は何も変わらなくて、ただ眠っているだけのようにも見えた。

 頭を撫でる。頬に触れる。手を握る。

 何をしても表情は変わらなくて、それでようやく実感が沸く。

 ぬくもりのない右手を両手で掴み、自分の顔の前に持っていく。

「俺、ごめん……どうして……」

 出てこない言葉の代わりに涙が溢れて奈仁香の手を濡らす。

 そこで俺は気がついた。奈仁香が昨日つけていたはずのミサンガをしていないことに。

「おばさん、奈仁香のミサンガって……」

「そうえいば、昨日は右手にして行ったはずなのに、失くしてしまったのかしら」

 尋ねると、ハンカチで涙を拭いながら話してくれた。

「あれはね、お揃いのお守りって。いつもおまじないをしながら作ってたの」

「……お守り?」

「あの子、視えてしまってたみたいなの。そういうのに対するお守りって」


 奈仁香の葬儀が終わってからも俺は憔悴しきっていて、一週間ほど学校を休んだ。

 久しぶりの教室に入ると花が飾られた机が目に入り、俺はまた虚無感に襲われてその日も授業どころではなくなっていた。

 帰りのホームルームが終わった後もぼうっと自分の席に座ったままでいると、担任の先生に家まで車で送ろうか、と声をかけられたけれど、ひとりで帰れると言って席を立った。

 秋の頼りない夕日が、ひとりで帰る寂しさを膨れさせる。

 いつもなら、これからだって、自分の後ろには奈仁香がついてきたはずなのに――。

 足取りが重く、あの橋へ続く道に着くころには空は殆ど深い紺色に染まっていた。

 明滅する街灯のひとつがパチンッと音を立て、消える。

 いっそう暗さを増した道に自分の足音が響く。

 後ろに、ついてくるナニカの気配を感じた。

 歩調を速めれば速く、遅くすれば遅く、距離を保ちながら……。

 振り向いても、誰もいない。

 歩き出すと、再び後ろの気配も動き出す。

 もう一度振り向いても、何もいない。

「なあ、奈仁香なんだろ? 出てきてくれよ!」

 幽霊でもいい。奈仁香に謝りたい。話をしたい。

 あの古い橋で俺は三度、振り返った。



 ――奈仁香はいない。



 代わりに、ナニカがいた――。



 人や動物の形ですらない、得体のしれない化け物なにかに対する恐怖で、体は凍えるようにガチガチと震えその場にへたり込んだ。

 あの日のドアのノックも、奈仁香のことも、こいつの仕業だと直感した。

 奈仁香はあの日、俺が投げ捨てたミサンガを見つけることができなくて、その代わりに自分のミサンガを俺の家のドアにかけたのだろう。

 俺を、ナニカから守るお守りとして。

 自分の身を顧みずに。

 そして――。

 化け物から何本もの腕のようなものがゆっくりと俺へと伸びる。

 そのうちの一本の手が俺の心臓を掴もうとした瞬間、

「――――――――――!」

 怨嗟の声をあげながら何かに弾かれるように化け物がのけ反り、距離をとる。

 化け物は妖しく輝く三つの目のようなもので俺を、俺の後ろを睨んでいた。

 それにつられて俺も自分の背後を振り返る。

「奈仁香……!」

 うすぼんやりと輝く光の中に奈仁香の姿が見えた。

 いつも通り、儚く幽かな微笑みを俺に見せて、今まで見せたこともない険しい表情を化け物に向ける。

 化け物は唸りながらこちらを睨んでいたが、しばらくすると闇に溶けるように消えていった。

「奈仁香……」

 せっかくもう一度会えたのに、言いたいことがいろいろあったはずなのに、言葉が続かなかった。

「それ……大切にしてね……」

 視線の先、俺の右手首には奈仁香のミサンガがあった。

「私がずっと……、耀太くんを悪いものから守るから……」

「ああ、絶対に、ずっと大切にする!」

 俺の言葉に微笑むと、光が弱まるのと共に奈仁香の姿も薄れていって、消えた。

 

 ――それ以来、俺はそういった体験をしていない。



 無音の暗闇にローファーの足音が響いている。

 少し後ろからももう一つ足音が聞こえた。

「耀太くん……」

 その足音の主が俺を呼ぶ。

「なんかこの道、怖いよ……」

裕子ゆうこはこっちの橋、通ったことないんだっけか。歩きなら向こうまで行くより断然早いぜ」

 裕子は去年うちの隣に引っ越してきた子だ。

 隣どうしで同じ高校ということもあって俺はこの、大人しくて可愛らしい裕子の世話を焼いていた。

 俺は自転車通学で裕子は普段はバスで通っていたのだけれど、事情があって今日は一緒に帰ることになった。

 実はさっき――、放課後に帰り支度をしていたところ裕子に呼び出されて、告白されたのだ。

 裕子の世話を焼いていたのは俺も彼女のことが気になっていたからで、俺はその告白を喜んで受け入れた。

 その後に初デートと言うには些細だけれど高校の近くのデパートをぶらついて今、帰宅の途中というわけだ。

「やっぱり怖いよ……。何かついてきてる気がする……」

 ちらちらと後ろを何度も振り返りながら俺の制服の裾を掴む。

「大丈夫だって。なんたって俺は守られてるからな!」

 あれから五年、奈仁香のミサンガは不思議なことにまったく劣化せず、今でも俺の右腕にある。



 明滅する街灯のひとつがパチンッと音を立て、消える。


 いっそう暗さを増した道に三つの足音が響く。


 幽かに、ナニカの声が聞こえた気がした。



「私がずっと……耀太くんをから守るから……」

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