透明のうた

@osamu137

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 そのクジラの声は”透明”でした。

 クジラは歌を歌う生きものです。彼らは自分の感情を歌にして伝え合います。

 母から子へ、兄から弟へ、友へ、愛する者へ。彼らは大切な感情を美しい旋律にして表現しました。


 ある年に、一頭のクジラの子が生まれました。母クジラは子の誕生を喜んで、歌を歌いました。子守歌です。子クジラは、自分のために歌われる歌に喜び、嬉しそうな様子で声を出すしぐさをしましたが、母クジラにその声は聞こえませんでした。他の仲間のクジラにも聞こえません。子クジラは「おかあさん、ありがとう」と言ったつもりでした。しかし、何度言っても、どんなに大きな声で言っても、母にも、仲間にも、声は届きませんでした。

 生まれつき、声を出す部位の構造に奇形があり、クジラであるのにクジラには聞こえない音域の声しか出せなかったのです。

 聞こえない声で鳴くそのクジラは、仲間から”透明”と呼ばれました。声を出しているはずなのに音がなくて、透明な声みたいだと誰かが言ったからでした。

 ”透明”は、仲間の声は聞こえています。自分の声も聞こえました。だから、自分の声が仲間に聞こえないこともわかりました。声で伝えられない”透明”は、しぐさや行動で自分の訴えを知らせるようにしました。

「お腹がすいた」

「眠くて休みたい」

「水面に出て息継ぎがしたい」

 たいていのことは伝えることができます。母クジラも、仲間のクジラもだんだんそれに慣れてきて、”透明”が何をしたいのか、何をしてほしいのか、すぐに理解してくれるようになりました。

 しかし、気持ちを伝えることはできません。「ありがとう」も「ごめんね」も「大好き」も、誰にも届けることはできません。いくら思いを込めた歌を歌っても、”透明”の声はどのクジラも聴き取ることはできず、思いは通じないままなのです。

 それでも、母クジラも仲間のクジラも優しくて、他の子クジラたちと同じように、”透明”にも餌になるオキアミの採り方や、息継ぎと潜水の仕方を教えてくれました。子クジラたちも一緒に遊んでくれました。伝えることは他のクジラに比べて不自由ではありましたが、”透明”は母や友や仲間がいる群れが好きでしたし、この群れで生きていくことが嫌だったことはありませんでした。


 ある日のことです。

 ”透明”は母クジラの背中の上で、母に支えられながら泳いでいました。もう母に手伝ってもらわなくても上手く泳げますし、息継ぎだって上手にできます。でも母とくっついて泳ぐこの泳ぎ方が”透明”は大好きで、母に甘えてじゃれついては背に乗せてもらっていました。

 穏やかな日でした。群れ全体がくつろいだ雰囲気に包まれていました。

 いつの間にか、群れの近くをシャチが一頭泳いでいます。シャチは群れの周りをゆっくりとぐるぐる回るように泳いでいます。

「あれ?もう一頭いる」

 群れの誰かが言いました。気が付くと回るシャチは二頭に増えていました。そうしているうちに、三頭、四頭とシャチたちは増えていき、クジラの群れはあっという間に囲まれてしまいました。

「シャチの群れだ!」

誰かが怯えた声で叫びました。

 シャチは群れでクジラを襲って食べることもあります。クジラの群れは一気にパニックになりました。秩序を失ったクジラたちはバラバラに逃げようとします。

 シャチは子どものクジラの背にのしかかり、息継ぎを阻止して弱らせ、それを助けようとした親や兄弟も数頭がかりで襲いました。


「はやく!息継ぎをしなさい!潜るわよ!」

母クジラは鋭く言うと、”透明”に素早く息継ぎをさせ、海中を目指して泳ぎ始めました。”透明”も後を追います。周りでは仲間たちの悲鳴が飛び交っています。

 ”透明”たちの群れがいた数十メートル下を、海流が流れていました。海流の傍で母クジラは止まり、”透明”のほうへ向き直ります。

「さようなら。愛しているわ」

 そう言うと、母クジラは体当たりをするようにして、”透明”の体を海流に押し込みました。

「お母さん!」

 ”透明”が流れに飲まれながら母のほうを見ると、母クジラはシャチに向かって猛スピードで泳いでいくところでした。母クジラと”透明”を追ってきたシャチがいたようです。”透明”の体は海流に乗って流され、その母の姿もやがて見えなくなりました。


 ”透明”はそうして一人ぼっちになりました。

 呼んでも、誰も来てはくれません。群れのいた場所に帰りたくはありましたが、自分がどこにいるのかもわかりません。誰かに尋ねることもできません。

 餌の採り方は知っています。息継ぎも潜水も上手にできます。飢えて死ぬことも溺れて死ぬこともなく、ひとりで生きていけます。

 生きてはいけますが、寂しくてたまりませんでした。広い海の世界を、一人ぼっちで生きていくのは、辛くて、苦しくて、心が潰れてしまいそうでした。

 ”透明”は努めて何も思わないようにしました。ただ生きることだけを考え、餌を採り、息継ぎと潜水を行い、危険の少なそうな場所を見つけて休み、そうしてまた泳ぎました。


 幾日も過ぎました。

 ある日、”透明”は遠くで誰かが歌っているのを聞きました。近くにどこかのクジラの群れがいるのでしょうか。

――今日は夕陽がきれいだった。貴方にも見せてあげたい。

――父さん、死んでしまって悲しいよ。

――君の歌声は美しくて、大好きだ。

――この間遊んでくれてありがとう。また一緒に遊ぼうね。

――元気な赤ちゃんが生まれますように。


――愛してる。


 誰かから誰かへ、伝えたい思いの旋律が、”透明”の下へも届きました。

「……おかあさん」

 ”透明”はつぶやいて、そうして思い出しました。

 母を、友を、仲間を。

 楽しかったこと、嬉しかったこと。

 悲しかったこと、寂しかったこと。

 彼は、自分が、自分の感情を誰にも伝えていないことも思い出しました。

「僕が、忘れてしまったら、僕が感じた気持ちや感情は、もう誰も知らないのか。良かったことも、辛かったことも、消えてほしくはないのに。忘れてしまったら、無かったことと一緒じゃないか。だって、僕は誰にも、僕の心を伝えていない」

 ”透明”は焦りました。必死にたくさんのことを思い出そうとしました。伝えることのできない”透明”は、誰かと共有して覚えておくということができないのです。

 「忘れたくない」その思いで、必死に、名前を唱えたり、出来事をつぶやいたりしました。繰り返し、繰り返し、言葉にしてみますが、そのたびに間違えたり、抜けてしまったりします。上手くいきません。

「そうだ。歌を作ろう。歌にして、いつも歌っていればきっと忘れない。僕が僕に伝えるための歌」

 そうして”透明”は自分に宛てた歌を歌いました。忘れたくないことを。感情を。伝わることのない想いを。

 歌いながら、願います。

 それでも誰かに届いてはくれないかと。


 ある研究所の海中マイクが、今年もその歌を記録しました。

「今年も来たな。52ヘルツだ」

「クジラは頭がいい。他のクジラに聞こえないことなんかわかっているだろうに。ずっと何を歌っているんだろうな」

 52ヘルツの周波数で歌われるそのクジラの歌は、三十年以上もずっと、毎年様々な場所で確認されています。その音紋はクジラのそれであるにも関わらず、その周波数は独特であり、彼と同じ周波数で歌う個体は確認されていません。

 世界でただ一頭だけのクジラ。それゆえに、そのクジラは、“世界でもっとも孤独なクジラ”と呼ばれています。

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