きみとカップ麺のあいだに
山南こはる
第1話
「お前、けっこう金持ちだよな」
「なんで?」
生徒会室の時計は5分遅れていて、6時55分を指しているのだから、たぶん今は7時なんだと思う。
マーくんはカップ麺のふたを開けて、
「だってさ。ノンフライの麺って、値が張るじゃないか。それもデカイし、5分かかるし」
そういう自分だって、ちゃんとしたメーカーものの買っているくせに。
マーくんの手の中からカレーのスープの匂いが立ち上って、生徒会室が黄色に染まる。積み上がった仕事はあんまり片づいていなくて、家に帰るのも遅くなって、明日、終わっていない宿題という現実に向き合わなければならないのは明白で。
「ほら、お湯入れろよ」
「うん」
それでもわたしにとって、マーくんと生徒会室で食べるカップ麺はとくべつなのだ。
「で? 何でなんだよ?」
「なにが?」
6時56分。
「いや、だから。どうして時間かかるノンフライ麺ばっかり選ぶのかって」
「おいしいから」
ウソだ。
ラーメンなんかべつに、こだわりなんかない。ただ待ち時間が長いから。それだけ。
「カップ麺って、早くできるからいいんじゃねえの?」
そう言いながら、マーくんは椅子にドカリと腰を下ろす。
生徒会室の中で、その椅子だけに背もたれたあって、だからその椅子はとくべつで、会長専用なのだ。最初は緊張した面持ちでそこに座っていたマーくんだけど、最近はすっかり慣れたみたいで、自分の家の椅子みたいに扱っている。
「待ち時間が長い方が、おいしく感じない?」
「そういうもんかね?」
「そういうものなの」
6時57分。
でもこうやってふたりでカップ麺を食べるのも、もう、今日で終わり。
文化祭が終わって、生徒会選挙が終わって、新しい役員が決まって。その引き継ぎも今日で終わり。もう、わたしもマーくんも部外者で、ここのカギは明日、返すことになっている。
だからマーくんとふたり、残った仕事を前にカップ麺を食べる日も、もう終わり。
「このポット、どうする?」
元はと言えば、うちの祖母が使わなくなったものを、わたしが持ってきたのだ。たった一年前の出来事が、ものすごく遠くに感じる。
「置いていくよ。荷物になるし。それに」
「それに?」
「だって、後輩のみんなだって使うでしょ?」
6時58分。
マーくんのカレーヌードルはそろそろ食べごろで、それでもマーくんはふたを貼ったシールを剥がさない。わたしのノンフライの醤油ラーメンはできるまでにあと2分あって、ふたの上の後入れスープが、脇に避けられた小さな海苔の袋が、蛍光灯の下で所在なさげに光を反射している。
マーくんが待ってくれているこの2分間。
この2分が、わたしの幸せだった。
「最初はどうなるかと思ったけどさ」
マーくんはそう言って足を組む。長い足。ここ1年で、また長くなった気がする。
「学級委員も班長もやったことないお前が、生徒会に立候補するなんて」
俺はずいぶん、ぶったまげたね。
「……そうだね」
この2年間、自分でもビックリするくらい、がむしゃらだったと思う。
なんであの時、立候補したのか自分でもよく分かっていない。必死だった。ただマーくんのとなりに立ちたい。それだけだった。
生意気だとかあんなブスがとか、散々陰口だって叩かれたし、生徒会の仕事だって出来が悪くて先輩たちにものすごく怒られたし、先生にはお前はもう辞めろとまで言われたし。それでも今日までがんばってこられたのは、わたしに体育祭や文化祭を成功させる喜びを教えてくれたのは、やっぱりマーくんだった。
6時59分。
無言。でもその無言が、チカチカする蛍光灯の下の沈黙が、とても心地いい。
神さま、お願いします。どうか時間を止めてください。このカップラーメンができるたった5分の間だけでも、少しだけ時を止めてください。
「お前、進路、どーすんの?」
「……一応、大学」
「行けそう?」
「大丈夫、だと思う」
2年間、だいぶ無理をしたつもり。がんばったつもり。それでもなんとか成績を維持できたのは、やっぱりマーくんのおかげだと思う。
「マーくんは?」
「進学するよ。大丈夫、お前ほどの心配はいらねえ」
「……そうだね」
ちょっとくらいバカにされても、マーくんが言うのであれば許せてしまう。
7時ジャスト。
待っていたとばかりにマーくんはふたを剥がし、割り箸を割った。きれいに割れていない割り箸。下手くそな持ち方の右手の箸が、ふやけた麺をかき回す。
わたしもふたを開ける。飛び散らないように後入れスープを絞り出し、パリパリと崩れそうな海苔を端っこに乗せた。
生徒会室で食べる、最後のラーメン。
マーくんといっしょに食べる、最後のラーメン。
「いただきます」
「……いただきます」
マーくんは箸の持ち方は下手くそなのに、こういう時はすごくお行儀がよくて、他のみんなにダセエとか言われても、ぜったいにいただきますとごちそうさまは欠かさないのだ。
そんなマーくんが好きで、優しいマーくんが好きで、ちょっと毒舌で斜にかまえていて、でもたまに素直な一面を見せてくれるマーくんが大好きで、
「それ、うまい?」
「うん」
食べてみる? とか、そんなこと、言えない。
「そっか」
マーくんはちょっとだけ笑う。
片想い、なんだと思う。
クラスの友だちからは、早く告りなよとか付き合っちゃえよとか、いろいろ言われている。みんな無責任だと思う。だって告白して、他に好きな人がいるとか言われたら気まずいし、それ以上に自分がショックを受けるだろうし、打ちのめされてもう二度と立ち上がれない気がするのだ。
「ねえ、マーくん」
「ん?」
マーくんは食べかけのカレーラーメンから顔を上げる。マーくんは男子らしく、食べるのが早い。スチロールのカップには、もうほとんど麺が残っていない。
「ううん、なんでもない」
2年間の想いの集大成は、メンマの破片とともに飲み込まれた。
とうぜんのようにマーくんが先に食べ終えて、わたしはそのとなりで未練がましくズルズルと麺を啜っている。会長の椅子とは違う、背もたれのない椅子に。ネジが一本外れたままの椅子に座って、ズルズル、ズルズルと。
この時間が幸せだった。
2年間ずっと、この5分とほんの少しの時間が、いちばん幸せだった。
つらいことも苦しいことも、たいへんなことも悔しいこともいっぱいあった。それでもこの生徒会室が、いっしょにがんばった仲間が思い出が、そしてマーくんとふたりきりでカップ麺ができるのを待つこの時間が、何よりも何よりも、幸せだった。
想いが、感情が、心の中から、次から次へとこぼれ落ちてくる。何かひとつでも言葉にできればいいのに。何かひとつでも、笑って語れればいいのに。口に入ったラーメンが、それを許してくれない。
鼻水が出ているのは、湯気のせいだと思う。
目元がしょっぱいのは、スープのせいだと思う。
マーくんはそっぽを向きながら、
「なあ、今度の日曜、ヒマ?」
何を言っているのか、分からなかった。
マーくんは棚の上の、資料が入った段ボールを見上げたまま、
「もしヒマならさ、メシでも行かね? あ、いや、もちろんラーメンじゃなくてさ。その、カフェとか? ファミレスとかさ。あ、でも俺、金ねえからよ、割り勘でさ」
いろいろあったじゃん。まあ、打ち上げってほどじゃねえけどさ。じっくり思い出話でもしようぜ。
人間、驚くと、ほんとうに頭が真っ白になるんだな、と思った。
「 と、行くの?」
声が震えた。
「え?」
マーくんがこちらを見る。
「誰とって、俺とお前と、ふたりで……」
ギョッとした彼の顔が、にじんでよく見えない。
「え、そんな泣くことかよ? お、俺とふたりじゃ、そ、そんなにイヤ!?」
まるで夢みたいな話だと思う。
「ううん、イヤじゃない」
イヤじゃない!
残りのラーメンがのどにつかえる。2年分の想いが涙に凝縮されて、スープがすごく塩からい。
「そ、そっか。じゃあ、話は決まりだ」
そう言ってドヤ顔をキメるマーくん。その笑顔が見たくて、その笑顔のとなりにいたくて、2年間、がんばってきた。
「せ、せいぜい、オシャレしてこいよ」
なんたって、俺の私服はイケてるからな。
分かっている。マーくんの言葉はいつだって流暢で、卒業式の送辞だって入学式の歓迎のあいさつだって、一度だってつっかえることはなかったのに。
それでも今、ラーメンのカップふたつを前に、マーくんの言葉はすごくどもってつっかえている。
分かっている。この言葉を言ってくれるのに、きっとマーくんだってそれなりの覚悟をしていて、わたしが振り絞れなかった勇気を、代わりに出してくれて。
「なんだよ? 泣くほど嬉しいのか?」
そう言って斜にかまえて。ニッといじわるそうなかたちの笑顔が、
「うん」
マーくんはきっとジャージを着てきて、いつも通りのマーくんで、お金ないとか言いながら、けっきょく格好つけておごってくれるんだと思う。
この2年間を語るのに、カップ麺ができるまでの5分じゃ足りない。マーくんへの想いを語るのには5時間あっても足りない。これからマーくんといっしょにいたいのは、5年だってぜんぜん足りない。
カップ麺ができるまでの5分間。いちばん幸せな5分間。ずっとずっと、毎日新しいマーくんに恋していて、
でも。
「マーくん」
「ん?」
「……ありがとう」
たぶんその片想いが、ほんものの恋に変わるまで。
もう、5秒だって必要ない。
きみとカップ麺のあいだに 山南こはる @kuonkazami
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