彼を好きな私を愛する彼 -five min.

七種夏生

Count five minutes


「お前は大丈夫だよ、俺を好きになった女だから」


 一緒に過ごしたこの街を離れる日、彼が言った。

 見慣れた高校の制服じゃなくて普段着、私服姿。私の目線より二十センチ高い場所から優しく微笑む。

 制服もかっこよかったけど私服の方がかっこいい、なんて可愛らしいことは言わなかった。

 だって悔しいから、寂しいから、悲しいから。

 名前だけ有名な私の知らない大学で、彼は毎日こんな格好で学校に行くのだろう。

 新幹線を使っても四時間半かかる遠い町、私の知らない場所。


 これから四年間、私たちは、気軽に会えない遠い恋愛を始める。


「俺が好きになったじゃなくて、俺を好きになった女だから?」


 涙目で睨み付けると、彼は不意を突かれたような顔をして、次に優しく微笑んだ。


「うん、俺をここまで好きになってくれた女だから」


 自分本意な言葉に、閉口を通り越して失笑してしまった。

 だって嬉しそうに、大切なものを守るように囁くから。

「大丈夫だよ」と言いくるめられ、抱きしめられ、その体温に安心して。

 納得出来ないまま、地元を離れて遠くに旅立つ彼を見送った。



 納得なんかしていなかった。

 自分本意な彼の言葉。


 俺を好きになった女だから大丈夫、それはイコール、「俺を好きになったお前が好き」ということでは?

 私が好きになったから好きなの?

 私が好きにならなかったら好きにならなかったの?


 一人ぼっちの月夜は悲しくて寂しくて、会えない悔しさで涙を流した。


「信じられない! 会いに来てよ!」


 大学に進学して三ヶ月、喧嘩のきっかけは些細な事だった。覚えてすらいない。

 電話越しに罵声を浴びせ、とうとう彼が黙り込んだ。


「ねぇ、聞いてる? 何か言ってよ、喋ってよ!」

『……喋ってるだろ』

「わからない、聞こえない!」

『音量あげれば?』

「そういう意味じゃなくて! なに、ふざけてんの? 馬鹿にしてんの?」

『声でかいとは思ってるけど』

「馬鹿にしてるじゃん!」

『……いま俺、おまえと電話してんだけど? それで繋がってるって思えない?』

「思えない! 電話越しなんて、機械越しの声なんて信じられない」

『テレビ電話する?』

「画面越しなんて会ったうちに入らない! 会いたい会いたい!」

『うん、俺も会いたい』

「信じられない。本当に好きなら会いに来てよ! 今すぐ!」

『今すぐは無理だ、新幹線使っても四時間半はかかる』

「昔は会いに来てくれた!」

『高校の時はな、自転車でぶっ飛ばして行ける距離だったからな』

「なんで今は無理なの? どうして会えないの? 嫌だよ、もう無理、頑張ってよ……』

『……五分後にまたかけていい?」

「は?」


 なにかの間違いかと思って聞き直すと、彼は同じ言葉を別の形で説明した。


『一回電話切って、五分後にまたかけ直す』

「いや……なに言ってるの?」

『落ち着こう、お互いに。そのための五分』

「……馬鹿じゃないの?」


 怒鳴る気力も失せた。震える指で電話を切る。


 五分、と彼はよく言っていた。

 喧嘩したとき、落ち着く時間が欲しいと。

 それでよかった、今までは。だって顔が見えていたから、同じ空間にいたから。同じ部屋で、同じ教室で、同じ廊下で図書室で。互いに顔を背けて考えた。

 最初の一分は怒りで頭が回らなくて。

 次の一分は、四分後にどうやって彼を責めようか考えて。

 残り三分を切ったところで不思議と熱が引く。

 二分三十秒前後でちらっと彼を見つめるとぱちっと視線がぶつかって慌てて顔を背ける。

 三分過ぎてもしかして彼も同じことを考えてる? などの妄想にかられて、好きなのにどうして喧嘩になるんだろうと後悔する。

 四分経った、残り一分。謝罪の言葉を探してる。

 五分の一秒前、振り返るとやはり彼と目があって、「まだ五分経ってないよ、なんで振り返ってんの?」と笑い合う。

 お互い様なのに、気が早い彼に呆れて笑い涙を流す。


 そんな高校時代は終わった。

 目の前に彼はいない。

 我慢できるわけがない、五分も。

 二分三十秒の視線や、五分一秒前の笑顔も見れない。


 電話を切ってから一分も経っていなかったと思う。携帯の電源を切った。

 後悔すればいい、あんなこと言わなければよかったって反省すればいい。

 謝ったって許してあげない。

 許さない、だって今、彼は、目の前にいないから。


 許さなかったら、私が彼を受け入れなかったら、私たちの関係はどうなるんだろう?

 シン、と静まり返る六畳のワンルーム。窓の向こうでワンっと犬の鳴き声が聞こえて、散歩をしている人の影がレースのカーテンを横切った。

 慌てて遮光カーテンを閉めて、ベッドに寝転ぶ。涙で目が痛くて、ぎゅっと目蓋を閉じた私はそのまま眠りについてしまったらしい。


 再度目を開けると時計の針が十二のところで重なっていた。高校時代から愛用している黄色いフレームのシンプルなアナログ置き時計。

 慌てて携帯の電源を入れて着信履歴を確認する。ポンっと画面に表示された通知は、彼からの着信が二件あったという知らせ。

 メッセージの最後のやりとりは《今から電話かける》という五時間前のやり取りで終わっていた。

 喧嘩をしたのは電話を始めてすぐ……四時間以上眠っていた。

 慌てて電話をかけるが、『電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない』のアナウンスが流れるだけで彼には繋がらなかった。

 最後の会話、私が電源を切ったのは四時間以上前。その間に彼からの着信、わずか二件。


 お前は大丈夫だよ、俺を好きになった女だから


 彼の言葉が、頭に蘇った。

 それはイコール「俺を好きになったお前が好き」ということで、私の好きの方が強くなくちゃいけないわけで。

 我がままばかり言う可愛くない私を、彼は好きになってくれない。


「いや……いやだ、嫌だっ」


 ボタボタと涙を流しながら画面を突くが電話は繋がらず、それを何回繰り返したかわからないところで諦めてスマホを枕に投げつけた。

 嗚咽が漏れた。

 涙が流れた。

 自分の泣き声以外聞こえなかった。

 前が見えなかった。


 ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい。

 何回それを繰り返しただろう。


 五分、と彼は言った。その間に考えれたことも、落ち着く気持ちも、謝罪の言葉も浮かんだだろう。

 少しの時間を我慢していれば、彼とまた話が出来たのに。

 後悔したのは私のほうだった。

 何度かけてもやはり電話は繋がらなくて、時計の長い針が六を過ぎたところで顔を枕に埋めた。


 たかが五分、されど五分。

 喧嘩をした五分後に私たちは仲直りをしていた。彼の部屋で、私の部屋で、通学路で、校舎の端で教室で。

 たったそれだけの時間であの時たしかに、世界は変わっていたのだ。


 その三百秒の大切さを知っていた彼が愛おしいと、再認識して目を閉じた。


「ごめんね、ごめん……」


 謝罪の言葉を口にして時計を見ると、最後の発信から四分が経っていた。



 また、いつの間にか眠っていたらしい。

 耳元で響く騒音に目を開けると、携帯の画面に彼の名前が表示されていた。


『寝てた?』


 いつも通りの彼の声。

 寝起きで頭が回らない私を置いてけぼりに、彼は話を続ける。


『電話出れなくてごめん。気づいた時は深夜二時だったから、どうしようかって悩んで。連絡すべきだったな』


 たらたらと、長きに渡って言い訳を述べる彼。

 どう返事していいかわからず、「ごめん」とだけ謝って黙り込んだ。

 長い沈黙のあと、彼が囁くように言った。


『だから言っただろ。おまえは俺を好きになった女だから、大丈夫って』

「違うよ、好きだからたくさんわがまま言っちゃう」

『あー、うん。大丈夫なんだけど……意味伝わってなかったな、やっぱ』

「なに言ってるの? 意味わかんない」

『……寝ぼけてるだろ? 五分経ったら、目覚めるかな?』


 また五分。

 今度は素直に頷いたが、声を返せたかどうかはわからない。重い目蓋を擦って部屋の中を見渡すと、カーテンの隙間に光が見えた。

 朝陽の時間、今日の天気は晴れらしい。


『なぁ、今日って雨降るかな?』


 彼の声が耳に聞こえた。同じことを考えていたことが、そんな小さな奇跡がとても嬉しい。


「晴れてるみたいだけど、そっちの町は雨降りそうなの?」

『さぁ?』

「さぁって……」

『どうして晴れってわかった? 窓の外見た?』

「見てないけど、カーテンから光が漏れて……」


 そこでふと、自分たちがおかしな会話をしていることに気がついた。

 どうして急に、天気の……窓の外の話なんて。

 ベッドから飛び降り、カーテンを避けて窓を開ける。

 私の居住しているアパートは一階で、道路に面している。無用心だから二階にしろ、せめて庭がついてるような、窓を開けたら目の前に人がいるなんて状況にならない部屋に引越せと何度も忠告された。

 その彼が今、目の前に、アパート前の道路に立っていた。


「やっぱり引越せ、無用心過ぎる」


 苦笑いの彼が、携帯を耳から外した。反対の手で、私のおでこを突く。


「おはよう」


 機械越しじゃない、肉声が鼓膜に届く。

 画面越しじゃない、肉眼で見える彼の私服姿。

 足が勝手に動いていた。玄関のドアを開けると、道路からアパートの敷地に入り込んでくる彼の姿が見えた。


「なに、何してるの!?」


 新幹線を使っても四時間半はかかる距離、午前八時に辿り着くなんて有り得ない。

 夜行バス? 昨日の今日で?


「なんで!?」


 怒声に似た私の言葉。

 困ったように微笑む彼が玄関に入り込むと同時、私の腕を引き寄せた。

 玄関のドアが閉まるのが先だったか、抱きしめられるのが先だったか。靴を履いたままの彼は、素足の私をぎゅっと抱きしめた。


「会いに来た」


 愛おしいもののように、本当に大切に扱うように、包み込んでくる彼の腕。

 会いたかった……会いたかった会いたかった!

 叫ぶ以上に気持ちが伝わって来た。


「会いに来たって……学校は?」

「大学なんて、一日休むくらい問題ない」

「そうだけど……でも、なんで?」

「昨晩、電話を切ったあとに調べて計算した。この時間なら会いに行けるって」

「電話を切ったあと……でも私、すぐ電源切った……」

「ほんとそれ、焦った。でもバスの時間考えたら電話気にしてる場合じゃないし、慌てて家飛び出して」

「なんで? なんでそこまでしてくれるの?」


 私の言葉に、彼はふっと微笑んだ。彼の手が私のうなじを押さえ、顔が近づく。


「お前が会いたいって、正直にそう言ったから」


 コツンとおでこをぶつけて来る彼の顔は怒っている風ではなく、優しく微笑んでいた。


「言っただろ。お前は俺を好きになった女だから大丈夫って。本気で愛してくれたから」


 照れたような、困ったような表情の彼。私の頬に手をあてて、大丈夫だよと言い聞かせる。


「我慢できなくなったらわがまま言ってくれると思ったんだ、お前なら。会いに来てくれって素直に言って、だから俺はこうして行動を起こすことが出来る。お前が泣いたら会いにいかなきゃって、足を動かすことが出来る。一人にさせないで済む。俺、頭悪いから冷静になるまで……決断するまで五分もかかるけど」


 その五分さえ待っていてくれたら、三百秒後に世界を変えてやると、再び私を胸に抱きしめながら彼が言った。

 耳元で囁く声が嬉しくて、少し汗臭い彼の胸元に顔を埋めて微笑んだ。


「わがまま言って、ごめんなさい」

「あ、毎回じゃないからな? 毎晩はさすがに留年する」

「大丈夫、あなたは私を好きになった男だから」

「ん?」


 身体を離すと、彼が首を傾げて微笑んだ。

 その笑顔が、あなたの全てが愛おしい。


「我慢出来なくなったらそっちも、ちゃんと『もう無理だ!』って言ってくれるでしょ? 相手できない、自分でなんとかしろって正直に言ってくれる。だから大丈夫、私たちは大丈夫。私はあなたを一人にさせてあげれるし、一人にさせない」

「贅沢だな、いろんな時間があって」


 あははっと笑った彼が再び、私を抱きしめた。

 彼の体温、胸の鼓動。

 明日になればこの温もりはなくなるけど、心音は遠い場所に帰ってしまうけど大丈夫。

 今のこの気持ちだけで、私は生きていける。

 好きだよと言いたかったけど、今は気持ちが昂っているのでやめておいた。


「あのね、五分だけ待って?」


 私の言葉に、彼がこくりと頷いて目を閉じた。同じように目を閉じて、彼の胸に顔を埋める。

 五分後に気持ちを伝えよう。三百秒後の私たちの世界を別のものに変える。

 そんな魔法が実現する時間、想いが通じる五分前。


 一分目、楽しくて嬉しくて何も考えれない。

 二分目、ちょっと冷静になって彼の電撃訪問に疑問を覚える。

 三分目、でも私も悪いから謝らなきゃって反省して。

 四分目、謝罪よりも先に伝えなきゃいけない言葉があるのではと思いつく。

 五分一秒前に顔を上げると彼と目があって、「俺の体内時計では一秒のフライングなんだけど」と笑った。


 あのね、伝えたい言葉があるの。伝えなきゃいけない言葉があるの。

 話をしよう、声に出して伝えよう。

 感情全てを、わがままを、嬉しいを、楽しい悲しい。喜怒哀楽の全てを、あなたと共有する。


「愛し」

「愛してる」


 私より先にその言葉を口にする彼。

 自分本意すぎて、失笑してしまった。

 負けず嫌いな彼はきっと、自分のほうが私のことを好きだと思っているのだろう。


 彼を好きになった私を愛してくれる彼。


 なるほど、愛のほうが深いと思った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼を好きな私を愛する彼 -five min. 七種夏生 @taderaion

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ