Tack så mycket!

真朝 一

Tack så mycket!

 外界はほぼ完璧な晴天だった。寒いことに変わりはないが、雪も降っていないし、夜空を覆う雲も存在しない。街灯が少なく、月明かりと星の光が一層明るく見えて、故郷である日本の灰皿色の空がなんとも愚かしく思えた。祖国で見られる夜空と、この厳寒国の夜空は、随分以前から自覚はしていたがやはり違うものだ。

 懇々と流れる水脈のように星があふれる空をふっと見上げ、慶はかるく嘆息した。こぼれ落ちたため息も、この地方では白い蒸気となってなかなか消えない。日本では冬の吐息はすぐに消滅するが、そうもいかないのが氷点下の珍妙な点ではある。ため息はゆっくりと空へのぼり、何かを惜しむように、星空へと溶けていった。

 空港のターミナルを出て、発車目前のバスに乗り込む。慶は座席の下にキャリーケースをしまいこみ、手袋と耳あてをとった。バスはすぐに発車しキルナの田舎町を走っていく。首都のストックホルムを離陸してから一時間ほど座りっぱなしだったので、むくんだ足がブーツをきつく内側から押し返すようで痛かった。これといって建物も混在していない、坂すらもない平面の雪景色が続き、都会の活気とはまたちがった静謐を思わせる。窓の外の雪景色をぼんやりとながめながら、慶はブーツから足を引っこ抜き、前の座席の背もたれにしつらえてある煙草の吸殻ケースに乗せて太ももを揉んだ。月明かりと点在する街灯が雪を青白く、または黄色く照らし、日本の住宅街の深夜とはまたちがう明るさか、あるいは生命力を若干ながらもあらわしていた。

 道路の隅に押しのけられた灰色の雪。排気ガスで染められたそれらは解け流れる気配がない。この国では春になっても十分スキーが出来るほど寒く、一年を通して気温が二十度を超えることはめったにない。キルナという田舎町は首都のストックホルムから東京大阪間ほどの距離があり、北極圏を越えた約二百キロメートル先にある。大きな地図にも名前は載るが、基本的に観光客向けの町ではない。しかし市街地を歩いていれば野生のトナカイが見受けられるほど、自然の息吹をその身で感じることの出来る美しい町だ。

 血流がよくなりむくみがとれはじめた足を再びブーツに戻す気にはなれず、両足を前の背もたれにのせたまま姿勢をずらし、腕組みをした。他に乗っている乗客は少なく、同じ東洋からの観光客と思しき若いカップルと、ヨーロッパ圏内の人間らしい中年の男、それに髪をろくに手入れしていなさそうな女がいた。カップルは話す言語からおそらくは韓国人、中年の男はバックパッカーか何かのような大きなリュックを大事そうに抱えていて、女は慶と同じようにぼんやりと外をながめるばかりで人形のように動かない。この季節は寒すぎるためあまり観光客が来るような時期じゃない。これだけバスがすいているのも話は分かる。慶は改めて窓の外を見た。あいかわらず、雪景色と点在する家々しか視界に入らない。

 慶は幾度もこの国を訪れている。日本からスウェーデンまで来るのに、羽田空港を出発して十五時間、デンマークの首都コペンハーゲンを経由して、スウェーデンの首都ストックホルムに到着する。そこからさらに一時間かけてキルナまで飛ぶ。所要時間は合計十六時間あまり。半日もある時差の関係でコペンハーゲンで一泊しようものなら丸一日がかりの旅だ。スカンジナヴィア航空の飛行機はたいがい、前の背もたれの頭の部分に画面がついていて、そこで映画を流したり、ゲームが出来たりするので、退屈はそれほどしないのだが。

 仕方がない。日本とスウェーデンは地球の表と裏に位置する、見事に足の裏同士が向かい合っている国なのだ。太陽が一日中沈まない白夜も珍しくないこの極東の地は、決して湿気の多い地域になれた日本人向けではない。しかし慶はどうしてだか、家族の関係で九歳のときに初めてここを訪れ、以来なにかしら、気分転換や旅行もかねてたびたびスウェーデンに来る。高校の入学式を間近にひかえた今日も、受験に合格した自分へのご褒美ついでの一人旅でやってきたのだった。

 暗い町中を走っていくバスにゆられながら、慶はさりげなく腕時計を見た。朝方四時。コペンハーゲンの空港で時間を合わせたから、間違いないはずだ。日本はおそらく夕方四時か五時ごろ。そろそろ夕食を作りはじめる時間帯だろう。

 暖房の効いたバスの中にいると少しずつ暑くなってきたので、ダウンのコートを脱いで丸め、膝の上でかかえた。景色はあいかわらず雪ばかりで、空港で本でも買っていればよかった、と後悔したが、しかしすぐに、ご当地の本を買っても読むことはできない、とわかりさらに気分が退屈になった。

 バスガイドがスウェーデン語で、現在の気温はマイナス二十一度です、と告げた。日本人にとっては三秒と生きられないと即座に逃げだす信じられない低気温だろうが、この季節のスウェーデンでは至極当然の氷点下。北極圏を越えると、帽子がなければ脳が凍ってしまうほどの危険ととなりあわせになる。

 窓のふちが凍っている。ガラスに張り付いたそのぶあつい氷の中に、小さな葉が混じっていた。水で窓ガラスに張り付き、そのまま氷づけになってしまったのだろう。コップに水を入れて外界に放置すれば一分で完全に凍結してしまう気温だ、無理もない。哀れな葉の運命を慶はため息で同情した。

遠くの景色をさかさまに写しながら、氷は溶ける様子も見せずに凍っている。じっと慶を見るように、その葉は生前の原型を保ったままこちらに裏側を見せて垂直になっている。雪に光が反射し、そのせいで葉の葉脈がやけにくっきりと見えて、卒業前に習った理科の教科書を思い出した。

 透明で美しい氷の中、まるで琥珀のようにじっとバスに揺られている葉を、慶は暇をつぶすようにずっと見ていた。その遠くで、地平線付近で、消えかかったオーロラのきれはしを見た。



 キルナの中心街にある空港からバスで二時間、ようやく目的の場所に着いた。白夜現象の影響で、朝方六時も回っていないのにもう太陽がのぼりはじめている。薄暗い町の片隅、小さな駅の前でバスは止まった。

 運転手に四十五クローネ(およそ六百七十円)を払ってバスを降りる。下車したのは慶ただひとりだった。地元の人々は動物園の猿でも眺めるように、東洋人の慶に珍しそうな視線を向ける。こんな、吐息どころか口内まで凍るような厳寒地に、温暖地方のぬるま湯になれた東洋人が来るものだろうか。ストックホルムはともかく、田舎のキルナはとにかく観光客が少ない。

 バス停のすぐうしろに駅がある。日本の田舎でもありそうな木造の、ただ切符売り場と一般道路とを分ける柵とホームがあるだけ。始発電車は動いておらず、当然人の気配もない。もしかしたらどこかで退屈をむさぼっている駅員がいるのかもしれないが、彼に切符をきらせようという乗客もいない。

 並んで建った煉瓦造りの建物の隙間から、朝日の光がさしこんだ。ベランダに飾られた花が色づく。同じく煉瓦張りの地面のラインが浮かび、慶の長い影をすべらせる。そのオレンジ色の光が、慶にとってはなんだかなつかしく思えた。

 いかにもヨーロッパ風の街灯がその場の雰囲気を明るく、日本人にとっては珍しいものに彩色する。日本では絶対に見られない、西洋の田舎の町並み。故郷では建築法で禁じられている煉瓦造りの家、赤色の水道管、スウェーデン語と英語で書かれた道路標識、そして何よりゆきかう人々がみなスウェーデン人だ。まさに外国、という高揚感をもたらす雰囲気は十分にある。

 慶は一人、人通りの少ない駅の前でぽつんと立っていた。時間の経過と共に太陽の南中高度が高くなる。黄色い光が次第に透明になり、小鳥のなきごえが響く。イギリスやロシアよりも緯度の高い、北極圏に位置するこの国は、ヨーロッパのどこよりも美しいと慶は思っている。住んでいる人々も、言葉も、景色も、風土も、伝統も。東洋で最も美しい国が日本とされるなら、西洋はスウェーデンだと慶は勝手に思い込んでいる。

 始発電車が動き始め、時おり急行列車がとおりすぎるようになったころ、突如背後からクラクションが二度ほど、けたたましい音をたてて響いた。同時に明るい女性の声が響く。

「慶くん、けーいくーん、こっちこっち」

 景観に一致しない日本語。素朴な和の雰囲気と鮮やかな西洋の町並みは決して同調することはない。

 声のした方を振り向くと、日本製のワゴン車が十メートルほど先で停車し、ひらいた運転席の窓から日本人の女性が顔を出して手を振っている。すぐに彼女は引っ込み、慶のすぐ近くまで車を走らせてきた。慶の右隣でワゴンは止まり、左ハンドルの運転席のドアが勢いよくひらいた。若干息をきらせてその女性があわただしく降りてくる。

「寝坊しちゃった。待った?」

「そんなに待ってないよ、三十分ぐらい」

「遅れてごめんね。どうも失礼いたしましたっと。お詫びに何か買ってさしあげよう」

「ジェリービーンズと、あとビターチョコがいいな」

「どっちかひとつにしなさい。あとで買い物に行くから」

「ていうか、裕子さん、ワゴンなんて持ってたっけ」

「このあいだまで持ってたあれね、エンジンが早々にやられたからお釈迦にしてやったの。やっぱりオーストラリア製はあつかいづらいわ。日本製の車は漫画と家電とプレステの次に世界に誇っていいと思う」

 寝癖がついたままの髪を手ぐしで直しながら、裕子は腕組みをしてため息をついた。彼女は慶の母親の姉の娘にあたる。日本にいれば少なからず美女にカテゴライズされる三十路手前の裕子は、五年前に知り合ったスウェーデン人の男性と結婚し、現在は家族三人でキルナに住んでいる。高校を卒業してすぐに移住したので、もう母国語すら忘れているのではないだろうかと血縁はみな面白半分でひやかしたが、どうやら三つ子の魂は海外でも百まで忘れる気はないらしい。

 裕子がこの国にいるゆえに、従弟である慶がキルナを訪問する機会は普通の日本人よりはるかに多い。年に一度か二度、この極北の地を様子見ついでに訪れなければ裕子が怒る。自分が日本に帰ればいいのに、と愚痴をもらしたこともあるが、彼女本人は三年か四年に一度、正月にしか帰国しない。そこにどんな意地や信念があるのか、まったく謎である。

「はるか日本からご足労、感謝もうす」

「それはどうも」

「慶くん、もう高校生なの?」

「来月から。中学の卒業式は先週終わったよ。だからこっちに来たんじゃないか」

「じゃあ、とりあえず高校は決まったんだね。おめでとう」

「そんな大したことじゃないのに」

「大したことだよ。私なんてこのスウェーデンの大学に受かるために、試験内容よりもスウェーデン語のほうを勉強してて、二足の下駄をはいてめちゃくちゃ大変だったんだから」

「裕子さん、それはわらじだよ」

急にするどく間違いを指摘されて、裕子はうっと言葉につまる。そんな様子を見て慶が笑いをこらえていると、なーにが慶の分際で、と頭を軽くはたかれた。

「おねえさまをいじめるひどい従弟には何も買わないぞ。いじめられっこに非はないのが世の摂理。ということで、はいとっとと後部座席に乗って乗って」

 助手席といわない裕子に不信感を抱きつつ、静電気に気をつけながらドアを開ける。すると、座ろうとした後部座席にはすでに、コートを着た幼い少女がちょこんと乗っていた。彼女は慶を見るなりぱあっと笑顔になり、飛びかかるように慶に抱きついた。危うくあけはなたれたドアから転落しそうになった慶は座席をつかんで耐え、体制を立て直した。少女は慶の首にしがみついたまま、早口で何か歓喜の言葉を叫びながら暴れる。

「いたたた、おい、ハンナ、離れろって」

 思わず日本語で抗議するが本人は聞いていない。まだ四歳とはいえそれなりに重い彼女は逃れようとする慶から少し離れ、両手をふりまわして喜ぶ。裕子の一人娘であるハンナは、普通の日本人の四歳児とは違い身長が高く、百センチはある。当然そのぶんだけ重いので、のしかかられると慶のほうがもたない。子供特有の無邪気な笑顔で再会を全身で表現するハンナを見ていると、鬱陶しがっていた慶の表情にも自然と笑顔が浮かぶ。

 慶の高校受験で一年半ほどキルナに来ていなかったので、ずいぶん大きくなったな、と正直に思った。ハンナは赤ん坊のころから慶と仲がよく、会うたびに遊び相手になっていたので、離れていた期間はそれは寂しかっただろう。

 嬉々として飛びはねるハンナの頭を撫でて、座席にきちんと座りなおしてワゴンのドアを閉める。

「久しぶりだね。Trevligt att träffas, läget?」

 母国語でない日本語を把握しているかのように、ハンナは満面の笑みでうなずく。やはり母が日本人であるからか、自分は話せなくとも他者の日本語を理解することが彼女には、可能らしい。もちろん話すことは出来ないので、かわりに彼女の口からとびだすのは理解不能のスウェーデン語である。もちろん慶もスウェーデン語はある程度わかるのだが、何しろ彼女の言葉は幼児語、拾えるほどしかわからない。

 あまりまわっていない舌で、謎の言語をフルスピードで喋りだすハンナに、笑顔を保ちつつ動揺する慶。確信犯的な表情でにこやかに運転席に乗り込んだ裕子に助けを求める。

「あの、この子の早口宇宙語、分からないってば、裕子さん、訳して」

「慶がいない間、さびしかったってさ。確かに、ときどきすねられて私も苦労したわ、本当に」

 そんなに来て欲しかったのか? その言葉にハンナは足をばたつかせて答えた。裕子はそのようすを苦笑しながらながめ、シートベルトをおしめくださいませ、と言って車を郊外へ走らせた。



 キルナの町はど田舎である。駅の前に大きな時計台があり、教会や大きなデパートもあるが、一番ひろい町でも日本の町ひとつぶんもない。本当に小さな場所だ。だけど、空気は澄んでいて空も広く、この時期には天候条件さえ合えばオーロラも十分みることができる。慶としては巨大都市ストックホルムよりも、大自然といっしょに成長してきたようなキルナの方が気に入っていた。

 鉱山の街として発展し、人口は二万七千と少ない。町全体を原野が覆い、自然に囲まれた、最高峰ケブネカイザ山が拝める丘の上の街。西側にはキルナ鉄鋼山が見え、大きな穴や積もり積もった土の山であふれている。

 あまりにど田舎すぎて、隣の家まで車で十分、なんていうのも決して大げさではない。町のほとんどが森林でおおわれていて、そこを細い道路がほんの少し通っている。森の中にぽつぽつと民家が点在しているのがこの町の「市街地」と呼ばれる場所であるから恐ろしい。

 だから、一件分の所有土地は広く、庭が小学校の校庭の三倍はあるのがあたりまえなのだそうだ。実際、裕子たちの住む家の土地も広大で、はからずも湖や畑や広い原っぱが「庭」である。湖では冬に凍結した時期をねらってスケートもできるし、畑では野菜や果物を栽培している。野球が出来るほど広い野原もすべて裕子たちの土地だ。

 後部座席に座る慶のひざの上にのったハンナの頭を撫でながら、慶と裕子は久しぶりに日本の話題に花を咲かせた。北朝鮮問題や、阪神タイガースの優勝、学校の卒業式のこと、政治のことなど。スウェーデンではよほど大きなことがないかぎり日本のニュースが報道されることはないので、裕子は、日本の未来も終わったね、と苦笑していた。

 高い木が幾本もそびえたっている深い森を突き進んでいくと、やがて裕子たちの家に着いた。日本の家では少し金のある連中が買いそうな、大きめの小屋かコテージのような様式だった。裕子はいったん車から降りて門を開け、戻ってさらに車を走らせて車庫にいれる。門から家まで百メートル以上あるなど日本の庶民には考えられない。一面高い木で覆われた、森の中にただひとつ取り残されたような裕子の家は、昔の童話「赤ずきんちゃん」あたりに登場しそうな森の中のかわいい小さな家のイメージがつよかった。

 家の中にはいった慶たち三人をまっさきに出迎えたのは、裕子の夫のアルフだった。一瞬は目を見開き、目の前の少年が誰か分かると満面の笑顔にかわり、握手を求めてきた。

「Hej Kei!(やあ、慶!)」

 久しぶりに再会する義理の従兄の元気そうな姿に、慶も表情がほころぶ。がっしりと繋いだ手は、親戚というより年の離れた友人同士のようだった。

「ずいぶん久しぶりだね、アルフさん。死んでるかと思った」

「何をいうか、俺はまだまだ元気だぞ」

「でもお酒くさいよ。頭が元気でも胃がやられるんじゃないか」

「そんなもん、どうとでもなるさ。お前も飲むか?」

 まだ俺は十五歳だって、と苦笑するとその場に笑いが起こる。慶はスウェーデン語の勉強に関してはまだ基礎の段階で、日常会話向きの語学力はない。そのため、英語の会得率が九割を超えるスウェーデンでは町中でも英語でおしとおすし、日本語がわからないアルフとも英語で会話をしている。さっそく四人で空白の一年半の思い出を語った。英語を理解できないハンナは飼い猫のシーバスと遊んでいてほとんど聞いていなかったが、「日本の受験勉強は大変なんだな」と苦笑するアルフや、延々慶をこづきつづける裕子と話をすることは、久しぶりで、新鮮で、なつかしかった。

 気がつけば、キルナの町も夕方を迎えている。



「眠い」

 さっきからそればっかりね。裕子が正面から肩をすくめて言う。目の前の料理は半分ほど手をつけられたまま放置され、慶はめてにナイフ、ゆんでにフォークを持ったままうつろな目で座っていた。時差が時差であくびを繰り返す慶は、本当ならこの時間帯はもう体内時計としては深夜だ。スウェーデンと日本の時差は丸ごと十二時間ある。オーストラリアやニュージーランドならそんなに気にしなくてもいいのだが、何しろここは日本の裏側、そうもいかない。

 一週間もすれば慣れるがそれまでが大変だ。

「慶、ごはんはいらないの?」

「いらないわけないじゃん、もちろん食べるよ。眠いだけ」

「ジェット・ラグって厄介よね。どうしてお天道様はすべての世界に同時刻に昼と夜を分け与えてくれないのかな」

 妻と義従弟が理解不能の日本語でしゃべっているのを理解できず、アルフはハンナの間違ったフォークの持ちかたをなおしていた。慶は目の前にならべられたトナカイの肉にナイフをさしたままかたまっている。

 裕子が慶のスウェーデン復活祝いに買ってきた代物だが、トナカイの肉は匂いが強烈で、ごまかすのに膨大な量のハーブが皿の上にずんどこ添えられている。長年、サンタクロースは父親なのだという認識のもとで育ち、きっとトナカイはサンタの非常食なんだと信じてやまなかった慶なので、初めてトナカイのステーキを目の当たりにしたときはさすがにしりごみした。一度口にいれると神戸牛顔負けの美味なのでなんとも反論しがたいが。

 足元では、猫のシーバスが銀色の餌皿を相手にゆっくりと食事をしていて、時々顔をあげては人間四人の様子をうかがっている。

「気分が悪いんだったら、すぐに言ってよ」裕子の言葉に慶は首をふる。

「別になんともないよ。こんなの、受験中やテスト前にくらべれば」

「寝不足は受験生の大敵よ」

「もう終わったってば。しかも見事華麗に合格したんだから、睡眠時間をささげただけの対価はかえってきたっていうことだろ」

 話しながら意識をもどそうと頭を自分でこづき、食べかけの肉を口にぱくぱく運んでいった。やっぱりトナカイは文句なしにおいしい。匂いが悔しいが、こればかりはスウェーデンに来てはずせない。

 つけっぱなしのテレビでは日本の紅白歌合戦のような番組が放送されていた。夜空の下、ひろい平原の中央にまばゆいステージがしつらえてあり、その上で男女の歌手が踊りながら歌う。ステージをぐるりとかこむようにむらがる何万人もの観客も踊りくるう。日本人は日本語の歌を歌うのが普通だが、スウェーデンでは英語の歌が一般的らしい。背の高い男が女とまわりながら、高い声で歌う。

 Fly away together, we can touch the sky……

 スポットライトの強さと観客の数がとにかく半端じゃない。日本の音楽番組なんて小さな規模だとおもいしらされる。慶はスウェーデンの歌手については無知なので、トナカイを食べながらくいいるように見ていた。

 部屋の中では暖炉が燃えているからずいぶん暖かいが、日が落ちるとスウェーデンは一気に寒くなる。ロシアと同じかそれよりもずっと緯度の高い、北極圏をまたいださらに先にある町だ。アメリカのアラスカと同じ緯度に位置し、グリーンランドとならぶ。この季節なら真昼までも気温が零度以上に上昇する時間は長くなく、一日をとおして身も凍る寒さが国をおおう。路面凍結などあたりまえ、下水道の不通や湖の凍結、凍傷だってよくあるし、下手をすれば油断した観光客は肌や眼球まで凍ってしまう。

 そんな寒冷地域に人間が住んでいるという事実すら、温暖地域の人間には信じられない話だが、慶はここが気にいっている。寒いことなんて気にしていない、ただ風土や住民の人柄が好きなだけだ。不景気のどんぞこに突き落とされ、這い上がれずにいる祖国よりと比べるとなにかと明るい部分がめだつ。物価は少し高いが、治安はいたって平和な国だ。

 何度スウェーデンに移住しようと考えただろう。親に反対されなければとっくにスウェーデンの高校への進学をかんがえていた。しかし、語学的な問題などいろいろな障害がかさなって、結局無理だった。スウェーデンの寒さに慣れるまで、裕子ですらかなりの時間がかかったというのだから、慶にそれを乗りこえる自信がどうしてもなかった。結局は日本におちつくしかない。

 別に、年に一度は必ずスウェーデンに来るので大きな問題として取りあげてはいないのだが。

 出されたものをとりあえずすべて腹におさめきった慶は、ひとりで遊んでいるハンナに提案した。

「ハンナ、明日、一緒に町へ遊びに行こうか」

「どうしたの、珍しいわね」

 裕子が驚いたようすを見せずに驚いた。机に頬杖をつき、無表情のまま。ハンナはどうも慶の日本語が理解できなかったらしく、今度はスウェーデン語で、明日は町へ遊びに行こう、と提案するとハンナは口元にソースをつけたまま喜んだ。ハンナと一緒に散歩がてら町へおもむくのはこれが初めてではない。

「俺だって、久しぶりにキルナの地面を踏んでみたいさ」

「そんなものなの」

「そんなものだよ」

「寒いのさえ我慢すればいいものだからね、ここは」

 裕子は苦笑して食器をかたづけはじめた。かくいう彼女は長くスウェーデンに暮らしているから、もうここの気候に慣れてしまっているはずなのだが。慶も早くスウェーデンの大学に入ってこの寒さに耐えうる身体になりたい、と日々思っている。町ゆく人を見るたび、着膨れしなくても平気でいられるのがうらやましくてしょうがない。

 窓の外のひろい庭を、野生のイタチが駆けぬけていった。訃報侵入者と勘違いしたのか、猫のシーバスは窓をかりかり引っかく。アルフが彼を引きはがし、ハンナを連れてリヴィングに移った。

 紅白歌合戦もどきが、終わりを告げようとしている。



 翌日になって、慶はハンナを連れてキルナの中心街へおりた。馴染んだはずなのに一年ぶり。それで町の景観が新鮮に思えて、慶は久しぶりに肌で感じるキルナの空気を肺いっぱいに吸いこんだ。東京よりずっと綺麗な空気と朝の光が美しくて、自然と心が躍る。

 ハンナと二人で手をつないで駅周辺の町を歩く。フォルケッツフスまでの坂道を登り、大きな通りに出た。日本で駅前と言えば大きなビルなどが立ち並ぶ街をイメージしがちだが、キルナの中心街は目立つ高い建物は存在していなくて、小さな店や時計台、噴水、木々にあふれていた。駅前広場では子供たちが雪だるまを作って遊び、日差しで溶けてしまう前にとはしゃぎまわる。平和な街。真っ白な街。

 ハンナもどうやら山を降りるのは久しぶりらしく、声をあげてはしゃいでいた。ウサギの耳がついた帽子を深くかぶって、あちこちを飛びまわる。四歳の女の子らしい、微笑ましい光景だ。

 慶は凍った噴水によじ登ろうとしているハンナの首根っこを掴んで引き戻し、危ないから、とさとした。

「どっか行きたいところ、ある?」

 彼女は他人の話す日本語を聞き取り理解することができる。本人は日本語など片言しか話さないが。それも無意識だろうし、スウェーデンは英語教育が発達しているから将来は三ヶ国語を話すかもしれない。

「オーチャ、オモチャ!」

「何、おもちゃ屋さん?」

 彼女は満面の笑顔でキャッキャと喜びうなずく。納得はしたが、しかし店の場所をあまり詳しく覚えていない。久しぶりのキルナとはいえ、町の景観が変わっていてもおかしくない。迷子にだけはなるまい、と慶はため息をつき、ハンナを連れて歩いていった。大体覚えているのは、ヤルマル・ルンドボームス通りを南に下っていった周辺ということだけ。市庁舎のあたりまで行けば分かるかもしれない。

 ハンナが初めて日本語を話し始めたとき、慶はさして驚かなかった。日本人の母親を持つのだから、影響されるようになってもおかしくないと思っていた。裕子が時々日本語で彼女に話しかけたりするので、自然と覚えたのだろう。三ヶ国語少女は遠い先の話ではないかもしれない。

 昨夜、裕子は、ハンナが日本語を覚えたがっていると言っていた。

「来年になったらお兄ちゃん来るよ、って言ったら日本語を話したいって言うのよ。一大事でしょ。ことあるごとにあれこれは日本語で何で言うのって、いつも聞いてくるの。子供の好奇心は尊重したいし、いつかは日本語も覚えてもらわないと私が困るから、別にいいんだけどさ」

「裕子さん、嫌な親だね」

「やかましい。国際教養のいい機会じゃない」

「でも英語の方が優先順位が上じゃない? 日本語はその次でもいいと思う。この時代、アジアに進出を目論む世界の企業はまず最初に中国語を覚えるっていうんだから、日本語もいつかはマイナァになるよ。まず英語、それからスペイン語、そのあとでも構わないんじゃないかな」

「そう言われても、ハンナがやりたがってきかないから、本人がやりたきゃ勝手にやるでしょ、英語とかは。まだ英語は片言だから大したことないけどね」

 自分の娘に大したことないってひどいな、と慶が笑うと裕子が彼の頭を小突いた。そのとき、たまたまハンナがリヴィングから姿を消していたので、裕子が大声で、どこにいるの、と日本語で叫ぶとかすかに子供部屋の方から、こっちにいるよ、とハンナの返事が聞こえてきた。ほら、と裕子が自慢げに胸を張ると、まあなるようになるさ、と慶は答えた。

 年月が経つにつれてハンナもいくつか単語を話すようになった。英語はともかく、スウェーデン語は大まかにしか分からない慶にとって、ハンナが徐々に英語や日本語を会得していただけるのは歓迎ものだ。

 こっち、こっち、と慶の手を引っぱって走っていく彼女の背を見つめて、この金髪美女がいつかトライリンガルになったら、と思って苦笑した。

「よく道を覚えてるな。ちゃんとあってるのか?」

 クロスロードで立ち止まり、追い風で開いてしまったジャケットの前を片手で押さえながらハンナに訊くと、彼女はうーん、と首をかしげてしまった。ずいぶんとご無沙汰していて店や建物が変わっている箇所もあり、さすがの慶でも道が分からなかった。基本的にハンナも町の地理には無知である。市役所かタクシーの停留所に行けば地図があるが、このあたりにはないのでわざわざ行くのがまた面倒くさい。最後に来た時の町の風景を頼りにしていた自分が浅はかだった。

 昔から海外旅行が好きだが、「あの建物を目指せばいい」などと適当に歩き、地図などあてにしないのが普通だった。迷うのも慣れていた。去年、山手線に匹敵する広さのベルリンを一人で横断したが、途中で同じところをぐるぐる回ったり、片っ端から百人ほどにつたないドイツ語で道を訊いたり、コンシェルジュから教えてもらった道がまったく違う方向だったりとトラブルが相次いだ。別に方向音痴ではないのだが、知らない町を歩くのに地図を使うのはゲームの攻略にネットを見るのと同じぐらい邪道だ、と無駄なプライドを持っていて、結局慶は迷ったのだった。

 降参し、その辺の人にでも訊けばいいと思っていた矢先に、六十代後半ほどの白髪の男に逆に話しかけられた。

「Tjena ursäkta(ちょっとそこのお兄さん)」

 ゆっくりとしたスウェーデン語で、慶は一瞬戸惑った。何しろまともに慶がコミュニケーションをとれる言語は英語と中国語だけだ。他の言語はいろいろとかじったが基本しか話せない。

男はまったく邪気のない善意の目をもって反応を待っている。こういうときに役立つフレーズがひとつある。

「Jag kan inte prata svenska. Talar ni engelska?(スウェーデン語はあまり分からないので、英語でいいですか?)」

 発音にはあまり自信がないがなんとかそう伝えると、男はにっこり笑って「Okey」と答えてくれた。

「道に迷っているように見えたがね」

「キルナに来るのは久しぶりなので、町がすっかり変わっちゃってて。この子が行きたいって言うんですけど、おもちゃ屋さんってどのあたりでしたっけ」

 後ろに隠れているハンナの頭を撫でた。すると男は手で方向を指しながら詳しく道を教えてくれ、ご丁寧に雪の上に木の枝で地図を書いて示してくれた。そんなに遠くなかったので、ぼけっと突っ立ってる暇があれば歩けばよかった、と慶は肩を落とした。

 最後に礼を言って立ち去ろうとすると、男が呼び止めた。

「君は中国人なのかい」

「いえ、日本人の中学生です」

「日本か、ずいぶん遠いところから来たんだね」

「従姉がここに住んでるんですよ」

「賢そうな子だねえ。英語も達者で、いい目をしている。私にはもう何かを学ぼうという力も記憶力もないが、君のような若者がいると捨てたものじゃないと思うよ。これからいろんなことに興味を持って、たくさんのことを経験するといい。好きな国を飛び回りなさい。君とは、またどこかで会えることを祈ろう」

 そう言って男は笑顔で手を振って「Vi ses!(またね)」と叫んでその場を去った。慶はしばらくハンナの頭に手を置いたまま立ちすくみ、彼の背中を見送っていた。

 別に大したことをやろうと目論んでいるつもりはない。好きなことをしているだけだ。慶はぼんやりとそう思った。嫌な気はしなかった。


 ハンナの手を引き、教えられたおもちゃ屋へ行く。彼女の希望に沿い、女の子向けの人形と小さな絵本を買ってやった。長い間留守にして孤独な思いをさせてしまった、せめてもの侘びのつもりだった。日本のおもちゃがいくつか輸入されていて、これを買って日本に持って帰ったら逆輸入になるのだろうか、といたずら心がうずいたが結局やめた。

 その後、慶は本屋に入ってスウェーデン語の本を何冊か購入し、駅前の大きな公園に行ってハンナと遊んだ。まだ昼前だからか人は少なく、うず高く降り積もった雪をかき集め、雪だるまを作った。パンダのようになったと言ってハンナは腹を抱えて笑った。その日は雲ひとつない晴れだったので、きっとこの雪だるまはすぐに溶けてしまうだろう。

 一時を回り始めるころ、昼食を食べに開店したばかりのインディアンレストランに入った。看板、内装、従業員の服装もすべてインド風だったのだが、メニューを見てピザがあったことに慶は思わず笑ってしまった。インド料理店にイタリア料理とは。あまりに面白かったのでそれを注文すると、幅三十センチはある巨大なピザが運ばれたので、ハンナと二人で分けて食べた。

 店内ではかわいい子猫が何匹か放し飼いにされていたが、客の料理を食べるような粗相はしなかった。料理の到着を待っている客の相手をして遊んでいる。ピザの四割を食べてギブアップしていたハンナは、まだ生後一年も経っていない小さな黒猫を膝に抱きかかえて撫でていた。慶はその様子を、残ったピザを黙々と食べながらうっすらと笑みを浮かべて見ていた。

 キルナには動物が多い。それも飼い犬や猫に限った話ではない。店の窓際にバードケージが吊るされ、大きな四十雀が入っていた。街を歩いていても、ときどきリスやイタチなどの野生動物に遭遇して、まるでRPGゲームのようになっている。ほとんどの家庭で一匹何か動物を飼っているというが、あまりに獣に慣れすぎるのも慶はひきがあった。特に裕子が飼っているチンチラのシーバスはされど猫、あなどれない。初めてスウェーデンに来たときは一緒に遊ぼうとして拒否され、何度か手を引っ掻かれていた。裕子は他にも犬や牛などを飼っているが、極力避けるようにしている。別に動物嫌いではないのだが、言語が通じないあたり、人間と動物にはどうしても大きな境界線、マリアナ海溝のように壮大で深い溝があるのだと慶は思っている。

 英語がろくにしゃべれない時期は、言葉が通じないように、異国の人間同士では厚く高い壁があり決して相容れないものだと信じていた。

 清算の時、カウンターにいた妙齢の女性に韓国人と間違えられ、慶はそろそろ日本人でいることに自覚を失いかけた。日本人です、と強い口調で言い放つと、「日本人はみんなちょんまげをして刀を腰に差しているの?」と尋ねられ、慶はやっぱり田舎町だなと呆れた。遠い地球の裏側の情報が入ってこないのも無理はない。インターネットはまだ普及しはじめた段階だ。その女性がやけに期待に満ちた目をするので、ぜんぜん違いますそれは百年以上も前の話です、とは、言えなかった。結局無言で店を出る。

 外の空は一向に曇る気配がない。東西南北こぞって青色だ。しばらくは雪も降らないかもしれない。今夜は綺麗な夜空になることだろう。青い空に堂々と鎮座している日輪をながめ、慶はぼんやりと、それでも体感温度は上がらないのか、と文句を垂らした。

 慶が哀愁に浸っていることなどかまわず、ハンナは一人で交通量の少ない広い道路の真ん中で走り回っていた。すると突然、雪が吹き飛ぶ音と短い叫び声がした。あわてて振り向くとハンナが雪の上に横たわって泣いていた。どこかにぶつけたのか右膝を抱えている。

「また転んだのか。はしゃぎすぎだぞ、ハンナ」

 ため息をついて彼女を抱き起こした。さっきまでぱたぱたと走っていたハンナが急におとなしくなる。雪がクッションになっていて、膝もすりむくほどの怪我ではなかった。転んだ際に落としたウサギの帽子を拾い上げ、彼女の頭に深くかぶせた。彼女はすすり泣きながらそれを目の高さまで押し上げる。

「ここまで陽が高くなったら、雪が解けてくるかもしれないな。そろそろ帰ろうか。あとは、家で遊ぼう」

 怪我がなかったのだからさほど心配することでもないだろうと思ったが、雪が解けると滑りやすく再び転ぶかもしれない。慶の日本語を理解したのか否か、ハンナは曖昧に頷いた。はめていた手袋を脱ぎ、ジャケットのポケットからハンカチを出すと、彼女の目元の涙と顔についた雪を拭った。

行こう、と手を差し出すと、彼女の小さい手が力強く握り返してきた。

 すぐ近くで、市庁舎にしつらえてあるメタリックな造りの時計塔が、二十三個のカリヨンの鐘を一斉に鳴らしていた。



 タクシー停留所の事務室へ行くと、余っている車はないと笑いながら宣告され、その受付の男相手に向かって思いっきりため息をついた。どこが停留所だ、拾ったほうがいいんじゃないか、と本当はクレームをつけたかったが。

 無線を送って数分も待てば来る、という男の言葉に文句を言う気も失せ、事務所の隣の待合室で待機することにした。

 部屋では汗をかくほど暖房が効いていて、慶は入ってすぐにジャケットを脱ぎ、しばらくたってトレーナーも脱いだ。半そでのTシャツ一枚になってもまだ暑いと感じる。ここが北極圏だなんてにわかには信じられないこの暑さ。暖房の設定温度が高すぎて、しかしどこで設定を変えられるのか分からず、北極付近なのに環境破壊だ、とぶつぶつ文句を言いつつ、ソファに横たわって目の前のテレビのスイッチを入れた。

 チャンネルをバチバチ回してみるも、大して面白そうな番組はない。日本と似通ったプログラムなら世界中どこに行ってもあるが、その国の国民性を利用したバラエティ番組は日本人の笑いのツボに入らない場合が九割だ。うるさいCMを回避し、とうとう慶はあきらめて最初にまわしたチャンネルに戻した。画面では調理場を前にスポーツ体躯の男がエプロンをつけ、元気よく軽快におしゃべりしながら日本の料理を紹介している。三十路を過ぎたばかりの、若い頃のアル・パチーノ似の男が、腕まくりをして寿司飯を前に巻き寿司を作っている。スウェーデンでも寿司は人気の日本料理だが、ドイツを旅していたときに怪しいフルーツやアボガドなどとにかく食べられるものなら何でも巻け的ジャーマン精神にのっとり、イチゴ入り寿司を興味本位で食べて死ぬ思いをした記憶がフラッシュバックし、若干吐き気をもよおした。

 ソファに座ってクッション相手に殴りかかりボクサーごっこをしていたハンナが、何事かわけの分からないスウェーデン語を喚きながらテレビを指差している。

「あれは寿司だよ」と慶が答えるとハンナは首をかしげた。お母さんから教えてもらわなかったの、と聞くと彼女はぷるぷる首を振る。日本の子供は早いうちから寿司を食べるし、好きだという子も多いので、いささか不思議な光景だった。そういえば、何度もスウェーデンに遊びに来ているのに、生魚すら裕子の家の食卓に出たことがない。何か信条でもあるのか、慶には分からなかった。

 考えている矢先に待合室のドアが開いた。ここの従業員らしき三十路手前の男が両手にカップを持って入ってくる。彼は満面の笑顔で気さくに話しかけてくる。

「Tjena! Vad heter du?(やあ、失礼するよ。君の名前は?)」

 男は慶に温かいコーヒーが入ったカップを差し出しながら、少しノーウェジアン訛りのあるスウェディッシュで名前を尋ねた。ハンナにはココアが入ったもう一方を手渡す。ハンナはもらうが早いか、礼を言ってすぐに飲み始めた。

「Jag kommer från japan, Kei.(日本から来た慶です)」

 どうにも舌滑が悪いことに気づき、英語で話そう、と尋ねると男は腹を抱えて笑った。よろしく、慶。そう英語で言って握手を求めてきたので慶も握り返した。悪い人じゃないみたいだ、と彼はすぐに分かった。

「僕の名前はハロルド。今は休憩時間」

 握力が強い。しかし満面の笑顔。慶の倍は生きていそうなのに、慶よりずっと幼く見える無邪気な笑顔だった。

「学生さんなの?」

「中学生だよ。ちょっと小旅行に来てて」

「スウェーデン語も英語も上手じゃないか。もう海外旅行の達人か?」

「達人とまではいかないけど、旅好きな親に連れられて、小さい頃からいろんな国を旅して回ったね。それと、スウェーデン語はまだそんなに真面目に勉強したことがないから、まだこの程度の段階だよ」

「好きなものならいくらでも勉強できるものさ。君はまだ中学生なんだから、これから多くのことを学び取っていけばいいさ」

 道案内をしてくれた男と同じようなことを言うハロルド。慶はテレビを消し、他に何か勉強したことあるの、と彼に尋ねた。

「あるさ、もちろん。英語は学校で習ったし、スペイン語もやったよ。東洋の言葉は日本語を少しかじったぐらいだけどね。そんなに広くはない」

英語と中国語だけの俺に比べればいい方だと思うけど、と慶は思ったが口には出さない。

「英語ぐらいは当たり前でしょ。スウェーデンなんてすごい英語教育が行き届いてるから、高校を卒業したらみんなペラペラだし」

「日本はどうなんだ?」

「高卒で英語の習得率は二パーセントだって聞いた」

 ハロルドは目を見開き、二パーセント、と繰り返した。その驚きように、昔聞いた話だから今は知らないけどね、とあとから付け足した。中学一年生ぐらいの頃にネットで偶然見つけた話だが、はっきりとは覚えてない。

 少し無精ひげを生やした顎ごと口元を手で覆い、うーん、とハロルドは考え込んでしまった。その気持ちも分かる。スウェーデンの英語教育は最大限徹底している。最も英語習得率の高い国はオランダらしいが。

 慶は悩むハロルドの姿を見て、別にいいんじゃないの、と答えた。

「俺は小さい頃からいろんな国を旅して、親に英語を習いながら育ったけど、今の日本人は中学生になって初めて英語を勉強するのがほとんどで、しかも英語なんてどう考えたって中学生が嫌いな教科のひとつだし。日本の教育体制が変わらない限り、外国語なんて半分以上の人は熱中してやろうとしないよ」

「僕はね」ハロルドが顔をあげて話しはじめた。「たまに輸入版の日本のCDを買うんだ。日本人はよく歌詞やタイトルに英語を使いすぎだなあって思う。グループ名にもね。そして、今までたくさん日本人観光客を見てきたけど、誰もかれも英語やフランス語の文字が書かれた服を着てるんだ。それを見て、まともな英語を書いてある服は見たことがない」

 それは慶にも分かる。日本人があちこちで使う英語にはほとんど意味が存在しない。企業の名前や雑誌名、ロゴ、模様などの英語は意味が分からない。ときどき「モスバーガー」を見つけた外国人が驚いたという話を聞くし、意味の通っていないTシャツの文字に慶も気持ち悪くなるときがある。

「意味が分かってたら着なくなるかな」

「まあそうかもね」慶の言葉にハロルドが再び声を上げて笑う。「別にそれが悪いとは思わないよ。それはそれで国民性だと思うし」

「どんな国民性だか」

 慶もつられて笑った。英語を理解できないハンナはココアを飲みながら首をかしげている。慶たちの会話を理解しているとは到底思えない。

「まあ、大陸の方へ行けば英語なんて全く教えてない国もあるぐらいだから」

 ハロルドが肩をすくめて日本をフォローする。まるでワールドカップで負けた対戦国のサポーター相手に「そっちもいいプレーをしてたから」となぐさめているような口調だった。慶は苦笑し、俺は別にいいよ、とため息混じりに話した。

「俺は英語と中国語なら話せるし、この二つを覚えていたらとりあえず旅行には不便しないよ。近いうちにスウェーデン語とスペイン語をやろうと思うけどさ。就職とかにも有利だと思う」

「確かに。君はまだ若いんだし、思い切って日本の外交官を目指してもいいんじゃないか」

「急にハードルが高くなったな」思わず高笑いする慶。「まあどのみち、英語はこれから必要になってくるから、そのステップを今の段階でひとつすっ飛ばしてるのは便利だよ。スウェーデン語の勉強にも集中できる。いまどき英語が話せるぐらいじゃ優遇されないから、いろんな言葉を習得したい」

 ハロルドはその言葉をじっと聞いていたが、やがてふっと笑い、君は大人みたいな子供だよ、と答えた。

「君はどうして語学をやるんだ?」

 その率直な質問に、慶はしばし考え込んだ。それは哲学的な返答を求めてるの? と訊くとハロルドは笑って首を振った。

「どうかなあ」かなり時間が経って、慶はようやく絞りだした。「結局は人とのコミュニケーションツールじゃないか、言葉って。何万年も昔からあるんだし。他の動物にもきっと言葉みたいな意思疎通のための道具はあると思う。けど俺は、今までいろんな国をはしごしてきて、たくさんの人と話した。英語が母国語じゃない人ともね。本来ならお互い、自分の国の言葉を使っていたら何が言いたいのか分からなくて、もやもやした気持ちになるし、話をすることができない。それが嫌で英語をやり始めたんだ。生活スタイルも食べるものも、町の風景も、伝統や音楽も、何もかも違うまるで異次元に住んでいるような人たちと初めて意思の交換ができた瞬間って、すごく感動するんだ」

 話しながら、慶は小さい頃、最初に海外に連れて行ってもらったときのことを思い出した。六歳か七歳ぐらいのことだ。英語など簡単な挨拶ほどしかいえない慶は両親に連れられてオーストラリアに行き、オペラ・ハウスに行ったり現地の野生動物と触れ合ったりして楽しんだ。そのとき、夜行性動物鑑賞ツアーというものに参加し、そこで案内をしていた現地の青年につたない英語で「How are you?」と尋ねた。初めてネイティヴに話しかけた瞬間だった。その青年は「Oh, pretty good thanx!」と答え、慶の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。その返事の意味は当時の英語力では理解できなかったが、通じた、というその瞬間がうれしくてしょうがなくて、異国の人たちと会話をする喜びを初めて感じたのだった。

 それ以来、慶は外国語の習得に没頭している。

「何ていうのかな、違う世界にいるような、俺たちから見れば変な生活をしているっぽい人たちと話ができるって、暗号を解読したような、宇宙人と交信が成功したような、そんな達成感が得られるんだ。やったぜ! って感じ。分かりづらいけど。英語を勉強し始めたころは、洋画を字幕なしで見て意味が分かったり、毎日見ている看板や商品名を日本語に訳せたり、それこそいつも着ているシャツの柄の英語が変だと分かったり、とにかく楽しかった。周りの英語を探しまくった。その達成感は最初のころしか味わえない。マスターしてしまうと、こうして話をしていても達成感も何もない」

「そんなことはないだろう」

 話している慶の言葉をさえぎって、ハロルドが笑いながら言葉を挟んだ。え? と尋ね返して振り向くと、彼は頭ひとつ分小さい慶の頭を、さながらオーストラリアのツアー案内人の青年と同じように、めちゃくちゃに撫でた。

「少なくとも僕は、日本人の慶と話が通じるのは感動するよ」

 前髪が乱れて目にかかる。慶はぽかーんと口をあけたまま硬直してしまい、どう反論すればいいのか分からなかった。少し間をあけてため息をつき、肩を落として苦笑した。

 その直後に、タクシーが到着したとの連絡が入り、慶はジャケットを着ながら帰宅の準備をした。ハンナを連れて待合室を出て行こうとすると、ソファに座ったままのハロルドが肩越しに、いつかもう一度遊びにおいで、と笑った。

「Hej då!(またね)」

 ドアを閉める直前にハロルドが叫んだ一言に、慶も笑顔で手を振った。



 家に帰るともう夕食の時間だった。帰るなり裕子に飛びつくハンナを横目で見ながらジャケットを脱いでいると、遅かったじゃないか、と仕事から帰ってきたばかりのアルフに心配された。

「タクシーが全部出払ってるなんて間抜けな事態になってさ、かなり長い間待たされたよ」

「ああ、そういうことはよくある。仕方ないさ、お国柄なんだから。日本みたいにパンクチュアルな交通機関でもないし」

 仕事場から帰れなくて困るときもあったよ、とアルフは笑う。彼は手作りの家具を売る自営業を営んでいて、持ち前の体格と体力をフルに使って立派なテーブルや棚を造っている。スウェーデンクローネは高めなので慶には買えないが、しかし家具調度品に全く興味がない慶でさえ「欲しい」と思うほどのできばえである。

「それよりアルフさん、夕食が終わったらスウェーデン語、また教えてよ。日本じゃどこを探しても教えてくれる人がいないし」

 笑ってオーケーを出すアルフ。そのやりとりの一部始終を見ていた裕子が、遊んで欲しいとねだるハンナを引き剥がし、慶の頭を掴んだ。

「まだスウェーデン語を勉強しようとしてるの。熱心ね」

 慶はその手をやんわりと拒み、だってさあ、と言葉を濁した。英語講座はよくあるが、ラジオでも塾でも、日本ではスウェーデン語講座というものは滅多に存在しない。そのため、高い通信講座や知り合いのスウェーデン人から習いながら自主的に勉強をするしかない。現在慶が覚えているスウェーデン語は過去の滞在で覚えたものばかりだ。

 ここ最近、世界のスウェーデンへの注目はめざましいというのに。

「そんなにスウェーデン語を勉強したいなら、こっちに来ればいいのに」

「やだよ、寒いし。知ってる? 日本は温暖化の影響で徐々に亜熱帯地方になりつつあるっていう噂。そんな国にいるんだからいきなりスウェーデンなんて北の極地に住めば、半年も経たないうちに脳みそまで氷づけになるよ」

「まあ、君も日本の高校に合格したんだから、無理も言わないけど」

「大学は裕子さんと同じように、こっちに来るつもりだよ」

「ねえ慶、どうして私が日本に帰らないか分かる?」

「Förstår inte.(分かるわけないだろ)」

 見栄を張ってすっぱりとスウェーデン語で拒むと、おお発音上手くなったじゃない、と裕子に口笛を鳴らされた。彼女に言われてもあまりうれしくない。

 彼女が日本に滅多に帰ってこないことは親戚一同知っているし、それを良く見ているわけでもない。せめてお正月ぐらいは顔を出しなさい、と裕子の母親(つまり慶の母親の姉)にいつも言われているが、私だってスウェーデンでの年越しが好きなんだから、と言って憚らない。

「キルナがね、好きなのよ」裕子はにっこり笑って答える。

「それぐらいは分かるって」

「やっぱりさ、住めば都って言うじゃない。ここは緑も多いし、ごちゃごちゃしたビルもないし、景色も綺麗だし。冬は死ぬほど寒いけど、それを補って有り余るほど素敵な街だと思うよ。日本もいいけど、私はこっちが好き」

「だから日本には帰らないの」

「だから、とは一概に言えない。もっと他にもいろいろ理由はあるわよ」

 裕子は台所に引っ込み、料理を詰めた皿をテーブルの上に並べながら説明を続けた。

「ここの冬って、どこに行っても氷点下二十度とか当たり前でしょう。この家の窓からだって、今頃の時期になればオーロラが余裕で見れるわ。日本じゃあまり見れない、綺麗で大きなオーロラがね。光のカーテンって表現するのがぴったりくるよ」

 いくらなんでもそれぐらい慶にも分かる。

「どうしても都会育ちはね、カントリーサイドの自然に憧れるんだよ。私なんて、首都圏生まれの首都圏育ちだしね。緑の木の羅列を見るとほっとするし、遠足で山に登ってみればすごくはしゃいでたもの。そんな環境にいたから、このキルナに住み始めて、自然がすごく身近に感じられるようになったんだ。そうなったら、もう気に入っちゃって、一瞬たりともここを離れるなって思っちゃう」

「そんなものなのかな」

「そんなものだよ、ここに住めば」

「また夏休みにでも、一ヶ月ぐらい滞在に来るさ」慶はそういいながらため息をついた。

「どうせなら冬に来ればいいのに」

「寒いって、この時期でも十分凍えそうなのに。まだ凍死したくないよ。未来の日本経済を担う優良男児なのに」

 何が優良だ、と裕子が鼻で笑う。その背中に舌を出して口に出さず悪態をつくと同時に、ソファの下で尻尾をくるめて丸くなっていたシーバスがたったっとツーステップで音も立てず慶の膝の上にのぼった。ナァと一声鳴き、尻尾をふにふに動かしている。遊んで欲しいのか、と思い彼の背中を撫でると顎のあたりめがけて前足で盛大にパンチされそうになったので顔を引いてよけた。機嫌をとるために彼の顎をくすぐると気持ちよさそうに目を伏せて喉を鳴らす。どうもこの猫にはなめられているとしか思えない。

 慶は天井を見上げて後頭部を掻き、ひとつ大きなあくびをした。ひょっとしたらまだ時差ぼけが直っていないのかもしれない。滞在二日目なのだから仕方ないが。膝の上で寝てしまいそうなシーバスを掴んで隣に追いやり、立ち上がって食卓についた。

 裕子に呼ばれ、アルフとハンナも集まる。椅子を引いて、四人で食事に取りかかろうかというとき。

 あ、と声をあげて慶はスプーンを持とうとした手を止めた。

「どうしたんだ?」アルフが聞くが慶は動かない。

 彼の視線の先には、窓の外の夜空が写っていた。そこには月とは違う、白い光の玉が浮かんでいる。視線を窓の外に向けたまま慶は立ち上がった。そこで他の三人も気づき、外に目をやって目を見開く。まさかUFOだとは思わないが、それにしても、月よりも淡く白い光を発するそれは不気味でもあり、神秘的でもあった。

「まさか」と、慶は言うより早くジャケットを取って靴をひっかけた。家の者の異常行動に気づいたシーバスが後ろをついてくる。裕子、ハンナ、アルフも面白がりながら慶のあとに続いて家を出た。

 四人の視線は森のどこでもなく、夜空。月と無数の星が美しく輝く中、薄く溶いた白い絵の具がぽつんと落とされたように、白い透明な光の円球が静かに光っていた。発光しているというより、むしろ白いセロファンを黒い画用紙の上に貼りつけたようだった。

 時間を忘れて、四人はその円球を見守った。やがて目に見えてゆっくりと球体が横に伸び、釣竿のように細長い棒状のものに形を変化させていく。それも長い、どこまでも長いスケールで。スカンジナヴィア半島を東西横断してしまうのではないかという大きさだ。先の細い白のペンで、薄くすうっと引き延ばしたようなその線。

 こんなに大きいのは初めてだ、と慶はその様子に見とれていた。


 棒状の光はグネグネと曲がり、また形を変え、長く伸び、遠くのほうから頭上を越えてさらに遠くまで伸びてゆく。

 そしてその棒はやがて真下に伸び、徐々に長方形に形成されてゆく。

 ゆっくり、しかし肉眼で分かる早さで変わる。一本のラインが引き伸ばされ、夜空に広がるシルクの布へと、それは進化する。

 闘牛士の振り回す赤いマントのように。

 あるいは風に揺れる葉のように。

 またあるいは、たなびくカーテンのように。

 人々の目を奪うその光は、確実に、形となって慶たちを凌駕してゆく。


 月明かりだけで照らされていた真っ暗な闇を、まばゆいほどの美しい七色の光が覆った。

ふもとの町よりさらに先の方から、四人の頭上を通過し、また森の向こうのずっと向こうまで続いている。ゆらゆらと、くせのない波がところどころ偏光させながらたなびいている。

 光のカーテン、オーロラ。

 奇跡が生み出す現象。

 一目でもいいから見てみたいと憧れる温暖地域の人間なら、誰もが見た瞬間「光のカーテン」と装飾する。まさに、開けっ放しの窓から強い風が入り込み揺れるカーテンのよう。風に波打つシルクの布のよう。

 これほどまでに大きなものは、長年住んでいるアルフですら見たことがない。遠い山のふもとあたりで小さいものがうっすらと見える、ということはよくあるパターンで、観光客が残念がって帰っていくのだが、こんな、手を伸ばせば届くのではないかと思うほど大きい、自分の真上で揺れるオーロラは初めてだ。漫画や絵画でしかえがかれない大きさだろう。

 空想の世界ではなく、現実に、慶の目の前に、広大なオーロラがなびいている。紺色の空にゆっくりとその威厳を見せたオーロラは、白が大半を占め、少し青っぽく、上空にいくにつれて緑、赤、オレンジと色が変わっていた。それは揺れながら色が混ざり、分かれ、消えてはまた現れる。色のひとつひとつが輝き、重なり合ってゆらめいている。美しい光景。

 たくさんの色が輝いて、まぶしく光るオーロラ。違うから相容れない、なんてことはない。

本物のカーテンのように布を波立たせたような形状をしていて、それが揺れると時折伸びたり、縮んだりする。幕の中に、ところどころ小さな宝石のような光がきらめいていた。

「綺麗だ……」

 慶でさえ、思わず感嘆の声を漏らした。ハンナは飛び跳ねて喜び、裕子とアルフ夫妻は満面の笑みでじっと見つめている。

 暁の女神ともされるオーロラは、極北の寒さを忘れさせるほど美しかった。

 光のカーテン。

 永久に、人を魅了してやまないもの。

 キルナの街を覆ったその幕は、しばし慶たち四人の言葉を奪った。均衡を破ったのは、裕子のため息交じりの言葉だった。

「本当に綺麗ね」

「裕子さんも、やっぱりこんなに大きいのは初めて?」

 慶がオーロラから目を離さず言うと、裕子は大きくうなずいて、もちろんよ、と言った。歓迎するような言い方がうれしかったのか、オーロラが大きくふわりと揺れた。

 興奮のあまりシーバスを抱えて歓声をあげながら飛び跳ねていたハンナを押さえつけ、あんまり叫ぶな、と慶は諭した。

「オーロラは神様なんだぞ。叫んだら駄目なんだ。黙って見ていないといけない。分かる?」

 そう言い聞かせるとハンナは急におとなしくなり、オーロラを見つめたままシーバスをぎゅっと抱きしめた。シーバスは揺れ動く透明なカーテンにむけて、短い前足をしきりに動かしている。

 オーロラの滞空時間は比較的長かった。通常なら三十秒ほどで消えるところを、二分間はそこにいたような気がする。慶はその時間、オーロラの広大な姿に目を奪われていたが、しばらくしてハンナの体を抱え上げて肩車をした。オーロラへの距離が近くなったハンナは、一生懸命両手を空に向かって伸ばす。

「よし、明日はみんなでユッカスヤルヴィに行こう」

 急に笑顔で宣言した慶に、裕子がどうしたの、と苦笑する。

「自分から言い出すなんて珍しいじゃない」

「今の時期なら、あそこでアイスホテルが見学できるだろう? 汽車で行けばいい」

「怖いなあ、普段行動力のない人が、こんな経験を境に積極的になると」

「人間、いくつになっても成長していく生き物なんだよ」

 慶がそういうと彼の倍ほどの年がある裕子は、それ痛い言葉、と言って爆笑した。日本語の意味が分からなかったアルフは、その波に乗って苦笑いをした。ハンナも一緒になって両手を振り回し、声を上げて笑う。

「それにさ」

 慶はもう一度、オーロラを見上げた。

 七色の光を放っていたオーロラは徐々に薄くなり、やがて布を引っ張るように左右に引き伸ばされていった。カーテンを引きちぎるように。限界まで伸びてゆき、そのまま自然に消滅した。

 ずいぶん長い旅をしてきたような錯覚に陥る。慶はこれまで世界中を飛び回り、興味のあることはすべて自分の目で見てきた。知らないことをたくさん知った。その過程で慶は幾度も感動し、感銘を受け、多くのことを吸収してきた。その中継点を結ぶツールとして、言葉や笑顔、挨拶があるのだろう。世界中の人と交わしてゆくコミュニケーション。ただ笑うだけで通じる気持ち。何も知らなくても、何かを知ろうとする意欲があった。そこから生まれるものは現在進行形で増えていくのだろう。人が何かを知ろうとする限り。相容れないものも、マリアナ海溝のような深い溝も、壁もない。ベルリンの壁が崩壊した事実を目撃したように、いつか壊せるという幻想によって人は知ろうとするのだ。世界に壁はない。言語に隔たりはない。人の気持ちがそこにある限り、オーロラのようにすべての色は重なり合って輝き続ける。そして、人を魅了し続けるのだ。これから先も永久に。

 何もなくなってしまい、元の真っ暗で月ひとつと星しか見えない暗闇に戻った空の下、優しく笑って呟く慶。

「俺も、まだまだ成長していく生き物なんだ」

 だから感謝したい。



“Tack så mycket!”

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Tack så mycket! 真朝 一 @marthamydear

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ