第49話 世界で一番小さな美術館

 「泣き顔の女の子は誰?」


 私はあの歌を口ずさみながらレンゲ畑の中にいた。

 目の前には娘の梓が夫の哲司に手を引かれながら歩いている。




 4歳になる梓は保育園で嫌なことがあったらしく、昨日は家に帰ってきてからずっと泣きっぱなしだった。

 ようやく寝かしつけると、今朝は別人のように元気で、先に起きていた私の元にくると散歩に行きたいと言って哲司を起こしに寝室へ戻った。

 哲司は眠い目をこすりながらも、梓を抱いてリビングへと降りてきた。


「おはよう」


 梓が哲司にしがみついて嬉しそうに笑っている。


「おはよう。どうする?今日は休みだし、散歩する?」


「そうだな、そうしたらピクニックがてら散歩をして外で朝ごはん食べようか。俺も準備手伝うよ」


「わーい!ピクニックピクニック!」


 梓を床に降ろして、私たちは大急ぎでサンドイッチを作った。

 哲司はサイフォンを使ってコーヒーを入れて水筒に移した。

 コーヒーの甘い香りがキッチンに広がると、眠たそうにしていた哲司の目もすっかり冴えてきていた。

 梓はパジャマを着替えて、早く出かけようとベビーガードにもたれかかって催促していた。



 風に吹かれて、レンゲ畑はあの時と同じ様に淡いピンク色に揺れている。

 梓は精一杯腕を伸ばして、少し腰を曲げた哲司の手を握っていた。

 私はその少し後ろを2人の姿を眺めながら歩く。

 いつか、父と母と来たレンゲ畑。

 


 由奈先生は私が獣医師になると決めたことを伝えると心のそこから喜んでくれて、私は獣医大学を卒業した後は由奈先生の病院で修行をした。

 由奈先生の病院での修行は本当に厳しかった。

 指導の厳しさは動物への真摯さへの裏返しで、由奈先生がそれだけ動物のことを考えているのだと思うと、本当にこの先生にトロを診てもらえてよかったし、由奈先生に指導してもらえて幸せだと思った。

 言葉を話せない動物と向き合うのに、美術部で培った「観察」は何度も私を助けてくれた。

 新人の頃は自分の不甲斐なさが悔しくて、情けなくて、辛いことも沢山あったけど、由奈先生が厳しく優しく指導してくれたおかげで、私は3年前に自分の病院を開院した。

 実家の近くで開院したので、両親がよく梓の面倒を見てくれてとても助かっている。

 

 哲司は市立病院に勤めながら、大樹さんと連携して、悩みを抱えた子供たちの心のケアに力を入れている。

 仕事はとても忙しそうだが、夢を叶えて子供たちと接しているその瞳は相変わらず綺麗に輝いていた。


「ママ〜、早く来ないと置いていっちゃうよ!」


 梓の声に私は足を早めた。

 2人に追いついて梓の左手を取り3人で並んで歩く。

 4月の早朝はまだ少し肌寒いが、起きたばかりの体を撫でる風が心地良い。

 朝露に濡れる道端の草は冷たく輝いて、昇ったばかりの太陽がうっすらと空を青く染めていく中、ふと右側に視線を向けると子供1人分離れた距離にいる哲司と目が合った。

 梓を介して繋がる手と手が、不思議と私たちの気持ちも繋げてくれている気がした。


 時間の流れは誰にも平等で、気がつけば私は人生の半分以上を哲司と一緒に過ごしていた。

 喧嘩をしたこともあったけれど一緒にいるととても居心地が良くて、夫婦になってからも私たちはあの頃の様に過ごしている。

 高校生の頃、セネカの本を読んで自分の時間は自分のためだけにあって大切に使わなければいけないのだと思ったが、表面的にしか理解できていなかった。

 今ではその貴重な人生の一部を分け与えることのできる大切な誰かを見つけられたことが、私の人生に置いて1番の喜びだと感じていて、それは哲司も同じ様だった。


「その歌、懐かしいな」


 私はまた無意識に鼻歌を歌っていて、哲司に言われて気がついた。


「うん。何だか久しぶりに映画観たくなっちゃった」


 Teach your childrenの流れる中、小さなトロッコを漕いで田園の中に消えていくあの2人はその後どういう人生を送ったのだろうか。

 映画や小説には終わりがあっても、私たちの人生は続いていく。

 初めてのコーヒーの苦さにも似たあの恋は、いつしか愛に変わった。

 永遠に続いていく愛の歌。

 父と母が私を愛してくれた様に、哲司のお父さんとお母さんが哲司を愛してくれた様に、私も哲司を愛して、哲司も私を愛してくれて、新たな愛も生まれた。

 いつか梓も今日のこの日を思い出す日が来るのだろう。

 レンゲが田んぼの肥料となって命が循環していくのと同じ、きっと私たちの命も循環して次の世代に受け継がれていくのだと思えた。

 そう思えば人生は短くなんてなくて、永遠に続いていくもののように思える。

 小さな足で一生懸命に歩く梓の姿を見て、私は少し喉の奥が熱くなった。


 梓は急に立ち止まって、レンゲ畑の方を向いてしゃがんだ。

 どうしたのと、しゃがむとレンゲの花の下で小さい猫が鳴いていた。

 まるでトロの様に、白くて小さな猫だった。

 鈴の音の様にか細いその声は哲司にも届いた様で、私たちは顔を見合わせた。

 梓がそっと子猫を抱き寄せて、私たちは新しい家族を迎えた。

 あの時の私は何もできなかったが、今の私にはこの子を治すことができた。



 リビングではレンゲ畑の中で佇む小さい子猫の絵が春の柔らかい光に照らされて、私たちの帰りを待っていた。

 海辺の楓の樹、外国の街並み、上野公園の噴水、ホルンを持つ少女、夕暮れの美術室、森の中の暖かい木漏れ日。

 沢山の絵が白い壁を飾っている。

 今日は久しぶりに絵を描いてみよう。

 大切なものを集めたこの小さな美術館に、きっと新しい素敵な絵を飾れる気がするから。

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恋の短さについて 伊月美鳥 @itsukimidori

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