第48話 それから
2月の2週目の月曜日。
コンクールの結果が発表されて、瑞季先輩が神奈川県知事賞を受賞した。
未怜が優秀賞、祐一先輩は秀作賞で、私は佳作だった。
受賞した作品は国立新美術館に展示されることとなった。
私の作品は受賞を逃したので、近々返送されるとのことだった。
負け惜しみのようだけれど、今回私は賞を取れなかった悔しさよりも、満足する絵を描けた気持ちが大きかった。
そして、大好きな未怜や先輩たちの作品が受賞したことを聞いて心の底から嬉しかった。
その次の土曜日、コンクールの授賞式のために美術部メンバー全員で国立新美術館に向かった。
明莉先生も一緒で、哲司先輩も息抜きと言って一緒に来てくれた。
モネ展以来に行く新美術館は、土曜日だけあってかなり混んでいた。
展示されているコンクールの作品は、私が見ても素敵な作品ばかりで、早く絵を描きたい衝動を抑えられなくなった。
授賞式では瑞季先輩が表彰され、神奈川県知事から賞状を受け取った。
未怜と祐一先輩もその後で賞状を受け取ることとなっていたので、私と哲司先輩、明莉先生は式典が行われている部屋の後ろで様子を見ていた。
「浅井さんの絵、とても良かったわよ。描きたいものを描くことって、中々できないのよ。特にコンクールに出す作品はね、審査員受けを考えたりしてしまって、だんだんと自分の理想から乖離してしまうことが多いの」
明莉先生は次々名前を呼ばれる受賞者に拍手を送りながら、真面目な顔をして私の方を向いた。
「浅井さんが獣医さんを目指すこと、私も賛成よ。浅井さんは繊細な分、人の気持ちがよくわかる子だからきっと良い獣医さんになれると思う。獣医大学は倍率も高くて難しいみたいだから、これから頑張らないとね。私は美術教諭だからあまり役に立てないけど、浅井さんの夢を応援してるわよ」
いつもの優しい表情で笑う明莉先生に、私は力強く返事をした。
「明莉さん、結奈の絵が入選しなかったの聞いてめちゃくちゃ荒れてたんだよ。審査員は分かってない!って言って悪酔いして絡まれて大樹さんがなだめるの大変だったって」
私を挟んで哲司先輩が意地悪そうに笑うと、明莉先生は口を膨らませて笑いながら怒った。
その日、日が沈む頃には家に帰ると、私の描いた絵が戻ってきていた。
私は自分の部屋に運んですぐに包みを解いて、哲司先輩がくれた私の絵のとなりに並べた。
淡いピンクのレンゲ畑の中、穏やかな風に白い小さな猫が吹かれている。
透明な水みたいに澄んだ冬の夕暮れの中、机の上に置かれたトロの首輪の鈴が小さく凛と鳴った気がした。
相模線から見える景色には、春めく季節が梅の花で彩りを加えた。
哲司先輩は無事に第1志望の横浜の公立大学の医学部に合格をした。
今日は3年生の卒業式。
式に出席できるのは2年生までだったが、私と未怜は美術室で式が終わるのを待っていた。
美術室の窓からは、式が終わってG線上のアリアが流れる中、3年生が体育館から出てくるのが見えた。
それから少しして、廊下から笑い声が響いてくるとドアが開いて明莉先生、哲司先輩、瑞季先輩、祐一先輩が入ってきた。
瑞季先輩は泣いていて、祐一先輩がなだめている。
「哲司先輩、卒業おめでとうございます!」
サプライズのクラッカーを鳴らすと同時に、未怜が元気な声で祝福した。
私は哲司先輩の近くに駆け寄って胸に飾られた花に触れた。
「卒業、おめでとうございます」
離れるわけじゃないのに、会えなくなるわけじゃないのに、なぜだか寂しくなってしまって、口に出すのがやっとだった。
哲司先輩は私の頬に触れて、優しく微笑んだ。
「ありがとう。いやーなんかまだ実感湧かないな。明日とかも来ちゃいそう」
哲司先輩は卒業証書の入った筒で肩を叩きながら、美術室を見回した。
「哲司くん、この絵たちどうするの?」
明莉先生はグレーのスーツと春らしい淡いピンク色のブラウスに身を包んでいた。
「あれ、明莉さん、下の名前で良いの?」
「もう卒業したんだから、うちの生徒じゃないから良いのよ」
哲司先輩を笑いながら見つめる明莉先生の目は、どこか潤んでいて、年の離れた弟の卒業を心から喜んでいるように見えた。
「うーん、こんなに持って帰れないし、このまま置いとかせてよ。俺、あの2つの絵だけ持って帰るから」
哲司先輩は美術準備室に入ると、あの「眠られぬ朝の木漏れ日」と美術室の絵を持ってきた。
「そういえば哲司さん、この絵、「無題」でしたけど名前つけないんですか?」
祐一先輩は私たちが用意したお菓子を口にして、美術室の絵を指して尋ねる。
瑞季先輩はようやく泣き止んで、ハンカチを手に持ったまま椅子に座っていた。
「題名かぁ、そうだなぁ」
哲司先輩は窓を開けて、手すりに背中をもたれた。
上半身を窓から出して空を見つめたまま呟く。
「「それから」、かな」
「「それから」、ですか?」
「そう、描いた時に題名をつけてたら「これから」だったけど、もう時間経ったし、「それから」。みんながいてくれたからこの絵が描けて、今の俺がいるからスタートって意味を込めて」
哲司先輩は一息置いてから続ける。
「明莉さん、瑞季、祐一、未怜、結奈。みんなありがとう」
窓から差し込む光を背にして笑う哲司先輩の目には少し涙が浮かんでいるように見えた。
6人で過ごす最後の美術室への餞の様に、春の始まりを告げる気持ちのいい風が窓から入ってきて、閉じ忘れた美術室のドアを通って旧校舎の廊下へと吹き抜けていった。
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