第47話 Old Dream Maker
あれだけ時間が止まることを望んだのに、今では少しもそんなことを思わなかった。
永遠より価値のある今この瞬間を大切に過ごすことが何よりも大切なのだと、哲司先輩が教えてくれたのだ。
季節が街から彩りを奪って、1月も2週間を過ぎ3学期が始まって少しした頃、トロが旅立った。
がんと診断されてから53日目だった。
1月に入ってから、トロは少しずつ弱っていった。
食べる量は日に日に減っていき、だんだんと寝ている時間が多くなり動かなくなっていった。
由奈先生は休診日にも関わらず、トロの再診を受け入れてくれたりもした。
私は早朝散歩もやめて、朝早く起きてトロを撫でながら一緒に過ごす時間を作った。
その日、学校から帰ってくると、母の腕の中で朝とは明らかに様子が違っているトロを見て、私は覚悟を決めた。
父も仕事を切り上げて早く帰ってきて、私たちは3人でトロを囲んだ。
トロはもう自分で起きあげることができない。
私はトロを抱き上げて、大好きだよ、ありがとうと何度も伝えた。
涙がトロの白い毛を濡らして床にこぼれていく。
母も泣きながらトロを撫でた。
父の目にも涙が浮かんでいて、母をなだめながら、時々トロを撫でた。
トロは私の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らすのを最期までやめなかった。
そして大きく息を吸ったかと思うと、そのまま息をしなくなった。
腕の中で力が抜けていくトロを私は改めて強く抱きしめた。
次の日、私は休まずに学校に行った。
トロとの別れは辛かったが、強くなると決めたトロとの約束を守るためだった。
一晩中泣いて腫らした目を見て、未怜はすぐに何があったのかを察したらしく心配してくれた。
私の涙が流れる前に、未怜の涙が流れた。
美術室では私を見て瑞季先輩もトロのために泣いてくれた。
祐一先輩は黙ったまま、学園祭以来、勝手に自由に使っているサイフォンを出してコーヒーを私に入れてくれた。
ブラックが飲めない私のためにわざわざ自販機で買ってきたミルクを入れて。
コーヒーで体を温めてから、私は部活を少し抜け出して図書室へ向かった。
冬の旧校舎の廊下はとても寒くて、私は哲司先輩からもらったマフラーを巻いて軋む廊下を歩いた。
図書室の中は今時珍しくストーブが焚かれていて、ストーブの上のヤカンから出る蒸気が冬の乾燥を防いでいた。
哲司先輩を見つけて、少し外に出てくれるよう促す。
哲司先輩も私の顔を見て全てを察したらしく、少し悲しそうな顔をした後に、すごく優しい顔をして席を立った。
歪んだ窓ガラスは冬の澄んだ光を映して、旧校舎の廊下を照らしていた。
廊下が軋む音が隣り合って2人分、旧校舎に響いた。
「…トロ、頑張ったな」
渡り廊下まで来ると、哲司先輩が口を開いた。
「うん」
「結奈も、頑張ったな」
「うん」
渡り廊下は隙間風が吹いていて寒くて、冷たくなった頬を温かい涙が伝っていく。
ハンカチを出して涙を拭おうとすると、哲司先輩が指で涙を拭ってくれた。
旧校舎からは吹奏楽部の合奏の音が聞こえてきた。
クラリネットの優しい音が奏でるムーンリバーのメロディーが1月の冷たい空気を揺らした。
胸の奥からこみ上げてくる涙が、嗚咽が、声を遮ろうとする。
それでも私は絶対に今言葉にしなければいけないことがあった。
伝えなければいけないことがあった。
深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「……私、決めたんです。」
「ん?」
「私…やりたいこととか、将来の夢とか、今まで何もなくて。未怜も瑞季先輩も祐一先輩も芸大行きたいっていう目標があって。哲司先輩も絵画療法のためにお医者さんになるっていう素敵な夢があって。でも…私には何もなかったんです」
哲司先輩は黙って聞いてくれている。
今日も柑橘類の香りが風に乗ってふわりと香った。
「昨日、トロが旅立って、お母さんとお父さんと話したんです。トロとの想い出。トロを見つけた時のこと、初めてお風呂に入れた時のこと、お母さんのお気に入りのコップを割った時のバツの悪そうな顔、お父さんの足の上で寝ちゃってお父さんがソファから動けなくなったこと、撫でてあげると喉をゴロゴロ鳴らして喜んでくれたこと。トロがいっぱい、私たちに想い出をくれたんです」
窓ガラスの外では桜の木の枝が揺れている。
「泣き虫だった私を強くしてくれたのもトロでした。私は、トロが大好きだから、動物が大好きだから、動物を助ける獣医師になろうと思います。動物を助けて、それで、動物を愛してる家族のことも支えてあげたいんです。それを、哲司先輩に1番に伝えたくて」
人生の目標と呼べるものを持つことなんて、高校生には難しいと思っていた。
ずっと、哲司先輩や、未怜たちは特別なんだって思っていた。
でも、トロが私たちにくれた幸せな家族の時間を、たくさんの人たちにも経験して欲しかった。
大好きな動物を通して幸せな家庭を作る手助けができたら、こんなに素敵なことはないと思ったのだ。
そして、その夢を伝えても、哲司先輩は真剣に聞いてくれると分かっていた。
「ありがとう。素敵な夢だな。応援するよ」
哲司先輩は私が手に持っていたハンカチをとって私の涙を拭った。
そして優しく頭を撫でて、私を見つめるその瞳は、どこまでも優しく穏やかなあの綺麗な瞳だった。
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