第46話 幸福な生について

 季節の変わる瞬間は曖昧だけれど、気持ちの切り替わる瞬間は明らかだった。


 

 翌日の放課後、私は美術室に向かうと瑞季先輩にコンクールに絵を送るのを待ってもらうようにお願いした。


「え?これから手直しするの?30日締め切りだから、…遅くても明日の17時には発送するよ?間に合う?」


「はい。絶対に間に合わせます。わがまま言ってすみません」


 私は深く頭を下げた。


「…結奈がそう言うなら、いいよ。あまり時間がないけど、頑張ってね!結奈なら大丈夫」


 突然の不躾なお願いにも関わらず、瑞季先輩は私を否定することもなく、暖かい笑顔を向けて快諾してくれた。


 明莉先生にもその旨を伝える。


「…コンクールの審査員の方が浅井さんの絵、賞もとれるかもって褒めてたって言ったのは覚えてる?その評価が変わってしまうかもしれないわよ?」


 咎めるような鋭さはなく、どこまでも優しい声だった。


「はい。覚えてます。それでも私、描きたいものが描けてなかったんです。明莉先生が教えてくれた、どうして描きたいのかが抜けてました。きっと、今しか描けないんです」


 放課後の美術室、野球部の練習の掛け声はわずか数日ぶりなのになんだかすごく懐かしく感じた。

 美術室の床に影を落としながら、窓のそばでは乾いた風でカーテンがそよいでいる。

 少しの間、明莉先生は私の目をまっすぐに見つめた。


「分かったわ。しっかりと想いを筆に乗せるのよ」


 春に比べて短くなった夕焼けの光の中、厳しさと優しさが同居したいつもの笑顔で明莉先生は微笑んだ。

 未怜も瑞季先輩も祐一先輩も明莉先生も哲司先輩も、私を信じてくれた。

 自分で自分を信じられなくたってみんなが私を信じてくれる。

 それだけで、私も私を信じてみようと思った。



 それから私は自分の絵と向き合った。

 レンゲ畑が目の前に広がっている。


『キャンバスと向き合うことは、自分との対話だから』


 あの時、夕日を背に哲司先輩の言った言葉の意味はよく分からなかったけれど、今なら分かる気がした。

 どうして気が付かなかったんだろう。

 いや、気が付いていた。

 全体の構成とか、バランスに気を取られてわざと描かなかったんだ。

 コンクールに出す絵にふさわしくないと無意識に思ったんだ。


 絵が出来上がったあの日、哲司先輩の表情が一瞬曇っていたように見えたのはこのせいだったのかもしれない。

 

 このまま絵を出せばもしかしたら賞をもらえるかもしれない。

 でも、今の私にはそんなものどうだってよかった。

 手を加えることで、この絵の評価が台無しになるかもしれない。

 でも、そんなことどうだって構わなかった。

 

 人からの評価なんていらない。

 私が描きたいことを描きたい。

 この瞬間、私の胸の中にあるこの気持ちを、想いを、感情を筆に乗せて、絵にして閉じ込めることが、今の私にできるたった一つのことだった。




 茜色の夕焼けに染まる美術室で、私は筆を動かすより先にあの時のレンゲ畑を思い浮かべている。





 目を瞑ると、懐かしい香りがした。

 幼稚園に行きたくなくて、泣きながら歩いた道。

 あの日、朝から泣き止まない私の為に父は会社を休んで一緒にいてくれた。

 母と3人、田んぼ道を散歩していると薄いピンク色が一面に広がった。


「ほら結奈見てごらん、これがレンゲだよ。ピンク色で小さくて可愛い花だろう。一生懸命咲いているね。レンゲはね、田んぼの肥料になるんだ」


 父はそう言ってレンゲ畑を指差した。

 母が微笑む中、私はまだ泣いていた。

 父の指の方向へ目をやると、まだ小さい幼稚園児にはまるでレンゲが地平線を作って、透き通るような空に繋がっているように思えた。

 その中で、小さく動く白い塊を見つけたのだ。

 始めはシロツメクサが風に揺れているのかと思ったが、近くに行ってみるとまだ小さな子猫だった。


「…パパ、ママ。ねこがいる!」


 驚いて涙も止まって、私が子猫を指差すと父も母もしゃがんだ。


「…本当だ、小さいな。母猫は…近くにいないか」


 目やにで目がぐじゅぐじゅの子猫を拾い上げると、私の顔を見て、レンゲの花が揺れるようにニャーとか細く泣いた。


「ねぇ、連れて帰りましょう。きっとここにいたら死んじゃうわよ」


「…ねこちゃん、…しんじゃやだよ」


「そうだな、連れて帰ろうか。結奈、見つけてくれてありがとう。結奈はこの子の命の恩人だよ」


「一生懸命生きるんだよ」


 母の声は小さな子猫を通して、私にも向けたものだったかもしれない。

 そうして私たちは子猫を連れて帰り、近くの動物病院へ向かった。

 まだ若い由奈先生に診察をしてもらい、子猫は2、3日してすぐに元気になって、泥だらけだった体は母と一緒にシャンプーをしてふわふわになった。


「レンゲの花言葉はね、心が和らぐとか、幸せとか、感化とか」


 トロと名付けたその子猫にミルクをあげながら、母は私に教えてくれた。

 トロは小さな舌を一生懸命動かしてミルクを飲んでいる。


「かんかって、なぁに?」


「そうね、人の心を変える力かな?」


「こころを…かえる」


「トロは、レンゲ畑の中にいたから、人の心を変える力を持っているのかもね。結奈、最近元気になったもんね。トロのおかげかな?」


「うん!トロのおかげだよ。結奈、トロがしんぱいしないようにようちえんもちゃんといくの!」




 昔を思い出すと、何だか胸の奥が暖かくなる気がした。

 あの時の情景は今でも思い浮かぶ。

 大切な想い出を想い出す時、きっと、脳ではなくて心に浮かんでいるのだろう。

 形のないものをいつまでも大事にしまっておける大切な引き出し。

 私はその引き出しを開けて初めてりんごを描いた日のことを思い出しながら、絵の具を筆に乗せてキャンバスと向かい合った。

 そして私は、淡いピンク色のレンゲ畑の中に猫の絵を描いた。

 心を和らげてくれた、幸せを運んでくれた、泣き虫だった私の心を変えてくれた小さな小さな白い猫の絵を。

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