第45話 声・夏の夜
電車の窓をスライドして流れていく街の風景の中で、十六夜の月が夜を照らしている。
明日は哲司先輩とムンク展を観に上野に行くこととなった。
楽しみな反面、トロのことが気になって複雑な気持ちだったけど、哲司先輩が私を気遣ってくれたのが嬉しかった。
家に着くと、今日はトロが出迎えてくれた。
由奈先生の治療のおかげか少し楽になったようで、病気の診断前よりもむしろ元気になったみたいだった。
「…トロ、ただいま。ごはん食べられた?」
抱き上げたトロの体は軽くて、ふわふわだった毛も少しぱさぱさしていた。
トロは私の腕の中で相変わらず喉を鳴らしている。
母に様子を聞くと、夕ご飯も8割くらいは食べてくれて薬もお利口に飲んでくれたそうだった。
夕食と着替えを済ませて、部屋へ戻るとトロも一緒についてくる。
痩せたトロの体を撫でると涙が出そうになったが、哲司先輩のくれた絵を見て、私はトロを抱きしめて眠りについた。
平日なのに上野駅には人が多かった。
今日は30分前には駅に着いて入谷改札のパンダ像前に向かう。
哲司先輩はまだ来ておらず、ガラスケースの中のパンダの前で私は本を読んで待つことにした。
「結奈、おまたせ!」
声に頭をあげると、紺のジャケットに青のチェックのマフラーをして哲司先輩が立っていた。
「おはようございます。今日は少し暖かいですね」
哲司先輩は優しく微笑んでから、冷たくなった私の右手を取ってゆっくりと上野公園の方へ歩き出した。
春に来た時とは違って公園内には紅葉した銀杏や楓が並んでいて、色とりどりの落ち葉が敷き詰められた道を美術館へと向かう。
私は哲司先輩のお母さんの木が綺麗に紅葉している姿を想像しながら、手を繋ぎながら哲司先輩の隣を歩いた。
ムンク展は国立西洋美術館で開催されていて、今日は平日というのもあって比較的空いている方だった。
少し肌寒い風から逃げるようにして私たちは館内に入る。
展覧会は「吸血鬼」から始まった。
赤髪の女性が男性の首筋に顔を近づけている絵だ。
男性は顔色が悪く、確かに生気を吸い取られているように思える。
「この絵はさ、吸血鬼って正式な名前じゃなくて、愛と痛みっていうモチーフの中の1枚なんだよ」
哲司先輩は絵をまっすぐに見ながら小さな声で私に囁いた。
その横顔ではいつもの綺麗な瞳がまっすぐに絵を見つめている。
その後も様々な絵が並ぶ中、私はあの絵を見つけた。
「声・夏の夜」はモネの「カササギ」とともに今の私を作ってくれた始まりの絵だった。
あの日、美術室で哲司先輩による模写を見ていなかったら、私は今ここにいないかもしれない。
突然、外の冷たい空気を打ち消す様に、美術館にいることを忘れさせる様な、遠い外国の真夏の夜の夢のような景色が目の前に広がる。
月影が揺らす水面は立ち並ぶ木々に遮られて全貌が見えないが、きっと静かな夜なのだろうなと思った。
こちらを向いて佇む女性は今にも何か歌い出しそうで、私はつい耳を傾けてしまった。
水面から空へと繋がるムーンロードはどこまでも続いていって、明るく夜に浮かび上がっている。
見惚れてしまうほどの美しさが私の足をそこから動かしてくれなかった。
流れていく人から離れて、私は一歩引いた場所からしばらくその絵を眺めていた。
哲司先輩が横に来て、ようやく我に返った私は次の絵に進んでいった。
出口まで来ると、私は哲司先輩にお願いをして順路を戻った。
他には何を見たのか思い出せない位、私はあの絵に恋をしていた。
「気に入った?あの絵」
美術館の外は冷たい風が吹いていて、私はストールを巻き直した。
「すごかったです。なんていうか、目が離せないっていうか。絵の世界に包まれるっていうか」
「俺も好きなんだよ。声・夏の夜。いつかあの水辺に行ってみたいよな」
落ち葉を踏みながら哲司先輩は話す。
「私も行きたいです」
私はすかさず顔を覗いた。
「大人になったら一緒に行くか。他に行きたい場所はある?」
「うーん…いろいろありますけど、あ、あのメロディーが金魚と遊んでた通りも行ってみたいです。あれ、イギリスですか?」
「イギリスのランベス通りってところらしいよ。父さんは母さんと一緒に行ったことあるって言ってた」
「えーいいですね!私、海外行くなら英語頑張らないと」
「そうだな、ヨーロッパなら美術館もいろいろ行きたいな。メトロポリタンにルーブルに…」
上野公園は秋風に吹かれて葉っぱが擦れるささやかな音でいっぱいだった。
哲司先輩は踏んだ落ち葉がようやく気持ちよく崩れたらしく、どこか満足気だった。
それから私たちはファーストフード店でお昼を買って、ベンチに座って食べることにした。
紅葉した銀杏と楓と常緑樹が上野の森にを彩っている。
平日昼間の上野公園は人もまばらで、秋も終わりに近づいた乾いた空気に噴水の音が響いていた。
4人は座れるであろうベンチを贅沢に2人で使って、私たちは温め合うようにくっついて座った。
「…哲司先輩、勉強どうですか?」
ハンバーガーを食べ終えて、暖かいカフェオレで手を温めながら私は尋ねた。
「まぁ順調かな。元々対策してたし」
「今日、忙しいのにありがとうございます」
「ううん、俺もムンク展行きたかったから。結奈とデートするのも久しぶりだったし、むしろ付き合ってくれてありがとうな」
哲司先輩は白い息を吐きながら、冷たくなった手で私の手を握る。
寒がりのくせに冷たいコーラを飲んでいたので、私の手の方が暖かかった。
「……結奈、気持ち、落ち着いた?」
コーラをベンチに置いて、哲司先輩の両手が私の手を包み込んだ。
「はい…。だいぶ落ち着いたんですけど、私、もっと早くトロの病気のことに気がついてあげられたらとか、何かしてあげられたかなとか。本当にこのままの方針でいいのかな…とか。…ふとした時に考えちゃって」
冷たい秋の風が私の髪をすり抜けて、長く下ろした髪が風に揺られて流れていく。
「それでも…トロのために強くなろうって思って、前を向こうと思ってるんですけど、…中々気持ちの整理がつかないっていうか。…頭では分かってるはずなんですけどね」
「……過去はさ、」
哲司先輩は小さく白い息を吐いた。
「過去は、戻れないから価値があるんだって、父さんが言ってた。出会いも、別れがあるから愛おしいって。…だから、今のこの瞬間を生きるんだって」
あの綺麗な瞳で、まっすぐに前を向きながら哲司先輩は丁寧に言葉を紡いでいく。
「俺、まだ結奈と知り合って1年も経たないけど、結奈がトロのことを本当に可愛がってるの知ってる。…俺、上手いこと言えないけど。だから、気持ちに整理がつかなくたって、今結奈がトロにしてあげたいことをしてあげて、沢山、大好きだよって、伝えてあげることが、トロにも幸せなんじゃないかな」
最後に私の方を向いた。
その顔はいつものいたずら好きな顔でもなく、優しい笑顔でもなく、どういう顔をしていいか分からないといった顔だったが、それだけ哲司先輩が私とトロのことを真剣に考えてくれているのが分かった。
特別なことを言わなくたって、相手を想う気持ちがあればそれで十分なんだ。
「うん。ありがとう」
不器用に笑うと、哲司先輩は遠い空を見つめた。
「…俺たちが見てる星の光って、何光年も離れてる過去の光なんだよ。今この瞬間を一生懸命生きるから、未来に光が繋がる。それって、絵も同じ。今この瞬間に気持ちを込めて描いたら、未来にも気持ちが伝わるんじゃないかな」
哲司先輩に体を預けながら、私も空を見上げる。
「…モネもムンクも、きっとそうしてたんですよね」
「そうだね」
「…哲司先輩も、そうしてるんですよね」
私の方を向いて、哲司先輩は静かに笑った。
「私…コンクールの絵、手直ししようと思う。大切なことを描き忘れちゃった気がして」
哲司先輩は静かに頷いた。
右手に置かれた哲司先輩の冷たい手が暖かく感じる。
11月の空は高くとても透き通っていて、まるで水彩絵の具で描いたような雲がゆっくりと流れていった。
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