第44話 展覧会の終わり

 見た人に影響を与えることが名画の条件なら、この絵は紛れもなく名画だった。

 どこかの偉い人が決めなくたって、人にはそれぞれ、人生において名画と呼べる絵との出会いがあるのかも知れない。

 あれほどの絶望を感じていたのに、トロと過ごすこれからの時間を大切にしようと思えたのは哲司先輩の絵のお陰だった。



 翌日、私はいつも通り目覚まし時計よりも先に起きた。

 トロはまだ枕元で眠っている。

 静かな吐息をしばらく聴いて、私は久しく行けていなかった早朝散歩に出かけた。

 秋の終わりの冷たい空気が肌に触れて、眠気が一気に消えていく。

 11月ももうすぐ終わる。

 海辺の楓の木もきっと色を身に纏っていることだろう。

 マフラーを顎まで上げると、湿った吐息が白くなって消えていった。



 学校に着くと、未怜が心配してすぐに駆けつけてくれた。


「結奈!大丈夫?」


「うん…未怜、昨日はありがとう。…当番ばかりになっちゃってごめんね」


「ううん…そんなこと。トロちゃん…心配だね」


「うん…。でも、私がくよくよしてるとトロもかわいそうだから、しっかりしなくちゃって思って」


 今までの私ならこんな風には考えられなかっただろう。

 高校に入って、みんなとの出会いが私を変えてくれたのだ。

 きっかけを作ってくれたのは未怜だった。


「未怜…ありがとう。私、未怜と友達になれて良かった」


「え、どうしたの急に?嬉しいけど。私も結奈と友達になれて良かったよ!」


 照れながら笑う未怜の顔を見て私も笑った。

 手を握ってくれた未怜の手が、冷たくなった私の手を温めてくれた。




 午前中はクラスの片付けをして、放課後は部活の片付けの時間だった。

 美術室に入ると瑞季先輩がすぐに駆け寄ってきてくれた。


「…結奈、大丈夫?」


「はい。…昨日はご迷惑をおかけして本当にすみませんでした」


「ううん、いいんだよ。私も昔犬飼ってたから分かるよ。…トロちゃん、どうなの?」


「リンパ腫っていうがんみたいです。あと…1ヶ月持たないかもって」


 瑞季先輩と未怜の目に涙が浮かぶ。


「昨日はショックで動けなかったんですけど、私、トロのために頑張ろうと思って。…だから、今日はしっかりと片付けを手伝わせてください!」


 強がりの様に見えたかも知れない。

 2人は涙を拭きながら無言で頷いた。


「…結奈、無理するなよ。…何かあれば遠慮なく言えよ」


 祐一先輩がサイフォンをしまいながら低い声で励ましてくれた。


「はい、ありがとうございます」



 少しすると勢いよく美術室のドアが開いて、哲司先輩が入ってきた。

 私と目が合うと、安心した様に微笑む。


「…結奈、昨日は送ってくれてありがとうな」


「ううん、私こそ。絵も、ありがとうございます」


 哲司先輩は少し間を空けて、良かったと呟いた。

 美術室の片付けはあっけないほどすぐに終わった。

 途中、明莉先生もやってきたので、昨日のことを謝罪すると優しく微笑んだ。


「はい、みんな片付けお疲れ様。売り上げも好評でなんと利益も出たので、吉井くんの引退記念も兼ねて軽く打ち上げにしましょう」


「え、いいの?明莉先生?やったー!」


「決まりね。それじゃあ買い出しに行きましょう!」


 明莉先生は勤めて明るく振舞ってくれている様に見えた。

 後で母から聞いたのだが、母からの欠席の電話を受けてくれたのは明莉先生だったらしい。

 私を心配してくれているのが電話越しの声でも分かったと言っていた。

 自分にはまだ自信が持てないけど、私の周りにいるこの素晴らしい人たちと出会えたことは、私は私を信じていいんだと思わせるのに十分だった。


 私たちはみんなで近くのスーパーへと向かった。

 茜色の夕日が照らす中、明莉先生も入れてこのメンバーで歩くのはきっとこれが最後だろうと思うと何だか少し切なかった。


「それじゃあ、学園祭お疲れ様でした!そして哲司先輩ありがとうございました!」


 瑞季先輩がオレンジジュースの入った紙コップを持って挨拶をして乾杯をした。


「どう、一年生は学園祭、楽しかった?」


 明莉先生がお菓子をつまみながら尋ねる。


「楽しかったでーす!来年が楽しみ!」


 未怜は両手を挙げて大げさに答えて見せた。


「私も、1日だけしか参加できなかったけど、楽しかったです。自分の絵を目の前で見られるのって何だか新鮮で」


「そうそう、1日目に高校生国際美術コンクールの審査員の人がいらしてたんだけど、みんなの絵、今年、賞取れるんじゃないかって。浅井さん、あなたの絵も褒めてたわよ」


「えー!そんな人来てたんですか?でも、知らなくて良かったかも。緊張しちゃう」


 未怜も驚きを隠せない様で、食べる手を止めて明莉先生の話を聞いていた。


(私の絵を…褒めてくれた?)


 2学期の全てを捧げた絵を褒めてもらえたのは素直に嬉しかった。

 賞が取れるかもしれないという期待も、胸の中で一度大きく脈を打ってから少しずつドキドキしてきた。


「今月末が締め切りだから、振替休日が明けたら提出しようね」


 そう言って瑞季先輩は小分けになったチョコレートの袋を開ける。


「今年こそはいい賞取れるといいんだけどなぁ」


 祐一先輩は紙コップを口で持ってぶらぶら揺らしていた。


「……さて、そろそろ哲司君に挨拶してもらわないとね」


 哲司先輩のコップにジュースを注いで、明莉先生が催促する。

 下の名前で呼んでしまったのには気がついていない様子だった。


「…え、俺?」


「そうよ、引退なんだから当然でしょ?」


「参ったなぁ、何にも考えてないよ」


「哲司さん!よろしくお願いします!」


 祐一先輩の催促に合わせて瑞季先輩が拍手を始めたので、みんなもそれに続く。


「…あぁー、とりあえず、学園祭お疲れ様。瑞季、祐一、未怜、明莉さんも2日目は助けてくれてありがとう」


 明莉先生も手伝ってくれたのかと思って、急いで目をやると、明莉先生は少し頷いて優しく笑った。

 私も黙って頭を下げる。


「俺が美術部入った時は結構人いたんだけど、みんな辞めちゃって、それで1人で腐ってた時に瑞季と祐一が入ってきて、それから結奈と未怜が入ってきて。俺は部長もやらずに幽霊部員だったけど、楽しく過ごせたのはみんなのおかげだと思う。俺が今回あの絵を描いたのも、みんなへの感謝の気持ち。…恥ずかしいから口に出さないつもりだったけど、ありがとうな」


 誰からというわけでもなく、小さい拍手が起こった。


「そうだな…祐一、お前が入ってきた時は本当どうしようもないやつが入ってきたなと思ったけど、」


 哲司先輩は意地悪そうに笑った。


「えぇ?」


 祐一先輩は目を大きくして哲司先輩を見た。


「最初はすぐやめるかと思ったけど、絵に向かう時のお前は結構かっこよかったよ。お前がいてくれて本当に楽しかった。瑞季とうまくやれよ」


「「えぇ?」」


 私と未怜は瑞季先輩と祐一先輩を交互に見つめた。


「ごめん、何だか話す機会を逃しちゃって」


 顔を赤くして下を向く祐一先輩に変わって、瑞季先輩が照れながら笑った。


「そう…瑞季、瑞季がいてくれたから俺は好き勝手できたよ。本当感謝してる。お陰で絵画教室にも沢山顔出せて、これからの事を考える時間が沢山持てた。お前は部の運営もしっかりこなして、後輩にも優しくて…」


 瑞季先輩は涙を浮かべながら頷いている。


「実力もあるし、だから、来年も部長頑張れよ」


「えー?また私ですか?」


「部長は3年がなるものだろ、俺は例外。よろしくな」


 哲司先輩はまた子供みたいに笑うと、瑞季先輩も頬を膨らましながらも笑った。


「未怜は本当に絵が好きなんだなって思ったよ。前にミレーについて2人で話したろ。目が輝いてたよ。すげー詳しいし。他にもセザンヌとかいろんな画家についてお前と話すのは本当に楽しかったよ」


「うぅ、先輩、引退しないでくださいよー」


「美術についての知識は十分だから、あとは学校の勉強も頑張れよ」


「もー!頑張りますよ!せっかくいい話してるのに、最後に落とさずにはいられないんですか!」


 未怜もふてくされて笑ったが、私はきっと哲司先輩の照れ隠しなんだと思った。


「結奈…いや流石に照れくさいな。初心者で入部したわけだけど、本当うまくなったよ。絵を始めて、色々あって、付き合うことになって、俺、今本当に幸せだから。ありがとうな」


 照れくさいなんて言葉とは裏腹に、まっすぐに私を見て真面目な顔をして話すので、私も哲司先輩を見つめたまま目を離せなかった。

 みんなの前で少し恥ずかしかったけど、何だか嬉しくて私は静かに頷いた。


「哲司さーん、ノロケるのやめてもらえます?」


「お前だってこの間散々瑞季のことかわいいかわいいってノロケてたろ」


「ちょっと、それは言わない約束じゃないですか」


「祐一せんぱーい、言葉にしなくちゃ伝わらないこともあるんですよー」


「未怜、お前まで…」


「そうよ広瀬くん。瑞季ちゃんのことちゃんと大切にしなさいよ」


 そう言って、明莉先輩が瑞季先輩の肩を抱く。

 瑞季先輩はさすがに照れていたが、幸せそうに見えた。


「明莉先生まで。分かってますよ、瑞季は俺が幸せにします!」


「祐一先輩かっこいー!」


「…もう、祐一くんのバカ」


 笑い声が美術室に響いて、夕日の中に溶けていった。


 私たちは哲司先輩に花束と色紙を送って、茜色に輝く美術室でみんなで写真を撮った。

 それから、学園祭の思い出、瑞季先輩と祐一先輩のこと、コンクールのことを話しては、私たちは大きな声で笑った。

 私も、心の底から笑った。

 トロのことは頭を離れなかったけど、こうしてみんなと過ごすことで私はみんなに支えてもらえている気がした。

 無理に強がらなくたって、いつだってみんなが私を強くしてくれた。

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