第43話 あなたと夜と音楽と

 ノックの音で目が覚めた。

 気が付くと私は眠っていた様で、枕元の腕時計を見ると夕方の4時を回っている。

 ドアから母の声が聞こえた。


「結奈?哲司くん、来てくれたわよ。開けてもいい?」


(…え?哲司先輩?…学園祭は?)


 突然のことで頭はパニックだったが、あまり待たせても悪いのでドアを開けてもらった。

 制服のままの哲司先輩が大きな荷物を持って母の後ろにいた。

 母に軽く会釈をして部屋に入る。


「…哲司先輩、学園祭は?」


「うん、途中で抜けてきた」


「そんな、…大丈夫なんですか?」


「大丈夫。美術部もみんながうまく回してくれてる。みんな結奈のこと心配してたよ」


 ベッドの脇に腰を下ろして、哲司先輩はまだベッドに入ったままの私の手を握った。


「急に来ちゃってごめんな。トロのこと、お父さん、お母さんから話は聞いたよ」


(…そうだ!トロは?)


 私はハッとしてあたりを見渡す。

 窓の外は薄暗くなってきていた。


「トロなら1階。俺が話してる間、お父さんが抱っこして眠ってたよ」


「トロ、がんなんだって。…あと、1ヶ月もたないかもって」


 哲司先輩は私の目を見て、手を握りながら静かに頷いた。


「…私、何でもっと早く気付いてあげられなかったんだろうって思って。…どうしたらいいか分からなくて」


 哲司先輩の手は暖かいのに、私の手は細かく震えていた。


「お父さん、お母さんからトロの昔の話も聞いたよ。レンゲ畑で出会ったんだってな」


 私は頷く。


「トロが、私の人生を変えてくれたんです。トロのおかげで私は色々と頑張れたの。吹奏楽部で辛いときだって、トロが慰めてくれたの。だから、今はトロが頑張ってるから、今度は私が支えなくちゃって。私は泣かないの。トロが教えてくれたの」


 強がりを言う声はかすかに震えていた。

 哲司先輩は少しだけ立ち上がってベッドに座ったままの私の頭を抱いた。


「…結奈。泣きたい時は泣いていいんだよ」


 哲司先輩の胸の中で、張り詰めていた気持ちが緩んで涙が溢れ出していく。

 あの日、トロと出会ってから10年間、私は悲しみの涙を流さない様にしてきた。

 全国大会が銅賞だった時だって、町田で哲司先輩と明莉先生を見た時だって必死に涙を堪えてきた。

 私は声をあげて泣いた。

 10年分、まるで子供みたいに。


 泣きながら、頭の中はトロのことでいっぱいだった。

 レンゲ畑での出会い。

 初めてシャンプーをした時のこと。

 一生懸命ミルクを飲む小さい舌。

 ピンク色の可愛い肉球。

 枝毛になったひげ。

 トロが走るたびに凛と鳴る鈴の音。

 気がつくとホルンのケースに入っていたこと。

 家に帰ると必ず出迎えにきてくれたこと。

 窓辺で外を眺める姿。

 枕元で眠る姿。

 撫でると喉を鳴らすこと。

 その間、哲司先輩は何も言わず、その両腕はただ私を優しく抱きしめてくれていた。



 部屋の明かりをつけ忘れていたので、気がつけば窓から差し込む光は月明かりだけになっていた。

 欠けることのない完全な円は夜を明るく照らしていて、いつもは冷たい月の光も今夜はどこか暖かく思えた。


 赤く腫れた私の目尻は涙が乾燥してカピカピになって、枯れることのない様に思えた涙も今では止まって、時々出るしゃっくりだけが部屋に響いていた。


「…ありがとうございます。先輩…最後の学園祭なのに」


 腕の中で小さく呟く。

 哲司先輩のカーディガンは私の涙でびしょびしょになっていた。

 ハッとして顔を見上げると哲司先輩の目にも涙が浮かんでいて、それでも、ふんわりと差し込む月明かりの中でガラス玉みたいに輝く瞳はいつもの優しさを携えている。


「…俺もさ、母さんががんになったって聞いた時、今の結奈みたいに大泣きしたよ」


 少し間を置いて、哲司先輩は右手で優しく私の涙をぬぐいながら寂しそうに笑った。


「母さんがいなくなることなんて考えられなくてさ。今までの思い出が次々浮かんできて。それでも泣いた顔を母さんに見せて心配かけたくなくて隠れて泣いてた。でも、涙で腫らした目に気がつかれて、「哲司、泣きたい時は泣いてもいいのよ。」って言われて。もうそこからボロ泣き。母さんは俺を強く抱きしめてくれて、その日はそのまま同じベッドで眠った」


 私の頬で哲司先輩の右手が止まる。


「母さんさ、俺の前ではそぶりも見せなかったけど、初めは残された時間を考えて絶望したんだって。どうして?何で?って。それでもそういう気持ちを少しずつ乗り越えて、病気と向き合うことができるようになったって。それができる様になったのは、父さんや俺のおかげだって。病気のお陰で、父さんや俺とより深く絆ができた気がして、1日1日を一生懸命生きることができるようになったって言ってた」


(一生懸命生きる。昔、母が伝えてくれた言葉だ)


「そこからはさ、これからをどうやって生きていくかって考える様になった。母さんと過ごす時間を大切にして、今まで伝えられなかったことも伝える様にしたよ。恥ずかしいんだけど、大好きだよって。何も伝えられずにさよならをしなくちゃいけない人もたくさんいる中で、俺は幸せだったのかも。だから、人生について考えた時に、俺はだらだら過ごすわけでもなくて、生き急ぐわけでもなくて、今を生きようって。大切な人と過ごす大切な時間を大切にしようって思ったんだ」


 一度は止まったはずの涙がまた流れてきて、ムンクのあの絵みたいに月明かりが涙でぼやけた。


「だから、今日は学園祭切り上げてきちゃった。結奈の大切な時に一緒にいてあげたいなって思って。俺にとっては結奈の方が学園祭なんかより大切だから」


 水彩絵の具みたいに滲んだ窓の外の星が次々に流れていった。


「…せっかく泣き止んだのに、泣かさないでください」


「ごめんな」


「…嘘。嬉し涙です」


 私は泣きながら笑顔を作って哲司先輩を見つめると、哲司先輩も優しく微笑んで、私のまぶたにキスをした。


「だからさ、結奈、トロと過ごす時間を大切にな。結奈の気持ち、きっと、ちゃんとトロに伝わってるよ」


 悲しげに微笑むその笑顔の奥に、私は底知れぬ優しさを感じた。


「うん。ありがとう。…哲司」


 私はようやく力が入る様になった腕を回して、哲司先輩を抱きしめた。

 それに呼応するように、哲司先輩の腕にも力が入ると、また、2人の鼓動が重なった。


「…そうだ、これ、渡そうと思って。後で見てみてよ」


 哲司先輩は壁に立てかけてあった荷物を見てそう言った。


「これ、絵…ですか?」


「そう、見てのお楽しみ。って言っても検討つくだろうけど」


「ありがとうございます」


 きっとあの絵だろうなと思って、私は少し笑顔が溢れてしまった。

 それを見て哲司先輩も笑った。




「それじゃあ、俺、そろそろ帰るよ。明日は来れそう?」


 暗い部屋の中で壁のスイッチを探して哲司先輩が電気をつけると、急に部屋が明るくなって、2人とも目が眩む。


「はい、今日の分、片付けしっかりと働きます」


「はは、そうだな。よろしく頼むよ」


 ドアを開けると、トロが階段を登って部屋の前で待っていた。

 哲司先輩はトロを抱き上げて、強く抱きしめた。

 トロは喉を鳴らしながら目を細めている。

 点滴が効いてきたのか、ぐっすりと眠ったのもあって朝よりは機嫌が良さそうだった。


 階段を降りると母が夕飯に誘ったが、哲司先輩はそれを丁重に断り、相模線は電車が少ないので海老名まで父が車で送ることになった。

 私たちは一緒に後部座席に座った。

 父に見えない様に、私たちは最初から最後まで手を繋いで。

 海老名駅のロータリーで車を降りた哲司先輩は、車が見えなくなるまでその場で見送ってくれた。


「……哲司くん、いい子だな。結奈のことを大切にしてくれてるのが分かるよ」


 父は田んぼ道を運転しながら、バックミラーで私をちらっと見て言った。


「うん…ありがとう。私…お父さんも、お母さんも私のこと大切にしてくれてるの分かってるよ。…いつもありがとう」


 普段なら照れてしまって言えない気持ちだけど、哲司先輩の話を聞いたせいかすんなりと言葉にできた。


「……結奈、大きくなったな。こちらこそありがとう。…さぁ、早く帰ってトロを励まさないと」


 少し震えた声で父は答えた。

 窓の外を見ると、田んぼの中を走る幹線道路の街灯が流れては消えていく中で、月だけは赤く、丸く、同じ場所で輝いていた。



 家に着いて私は自分の部屋に戻ると、トロも少し調子がいいのか一緒に部屋に入ってきた。

 壁に立てかけてある哲司先輩がくれた絵の布を解くと、瞬間、夏の薫りが部屋を満たした。

 きらきらと宝石みたいな木漏れ日の中、ホルンを持つ私がそこにいた。

 ホルンは太陽の光をランダムに反射しながら鈍く輝いて、木漏れ日に佇む私は、少し斜めを向いて座っている。

 緊張して表情を作れなかったように思っていたが、絵の中の私はとても幸せそうに微笑んでいた。

 私はしばらく絵の前から離れられなかった。

 トロが絵の匂いを嗅いで、足元でにゃーと鳴いた。

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