第42話 Quality of ...

 月の綺麗な夜だった。

 私は指先から全ての力が抜けていくようで立っていることすらできなくて、何とか階段を上った私の部屋で、膝の上のトロは丸くなって寝ている。


 

 母によれば、学園祭から戻ってくると部屋に5箇所くらい吐いた痕があってトロがぐったりしていたとのことで、すぐに動物病院に連れていったのだそうだ。

 血液検査やレントゲン、超音波検査を行った結果、お腹にしこりがあることが分かった。

 細い針を刺してしこりの検査を行ったところ、がんと診断を受けたとのことだった。


 悪性腫瘍で、トロの場合には悪性度も高いタイプの腫瘍とのことだった。

 手術をすればどうにかなるものではなく、抗がん剤が一つの方法だがあまり効果も期待できない様で、もしかしたらあと1ヶ月の命かも知れないとのことだった。


 学園祭の思い出などもうどこかに吹き飛んでしまって、今は膝の上で眠るトロをそっと撫でてあげることしかできなかった。

 トロの呼吸とともに胸に乗せた手が動く。

 その日、私は何もする気が起こらなくて、母に言われてかろうじてお風呂に入ったが、夕飯も食べずにトロと私の部屋で過ごした。



 望まなくても朝は来る。

 こんなに時が止まることを望んでいるのに、時間の流れは残酷だった。

 太陽が昇るたび、トロとの別れの日が近づいていることを日差しが教えてくれた。

 昨日はほとんど眠れなくていつも通り目覚ましより早く起きたが、枕元で眠るトロの吐息を感じながらベッドから起き上がることができなかった。


 6時を過ぎて目覚まし時計は珍しくベルを鳴らした。

 アラームを止める気力すら湧かなくてそのままにしておくと、母がドアをノックして入ってきた。

 ベルを止め、母はそのままトロを撫でる。


「…結奈、今日学園祭2日目でしょ。…どうする?」


 ベッドの上に腰を下ろして、私の肩に手を置いていつもよりも優しい声で母は尋ねる。

 私は何も考えられなくて、しばらく沈黙が続いた。


「…うん、…私、…今日はトロと一緒にいたい」


「…そうね、それじゃあ、学校に連絡しておくわね。朝ごはん、少ししたらできるから」


「………いらない」


 駄々をこねる子供の様に取りつく島もない答え。

 母も悲しいはずなのに、私は母を思いやることができなかった。

 今はとにかく1秒でも時間の流れが遅くなって欲しくて、その分トロと過ごす時間を作りたかった。


「トロ…、ごはん、食べられる?…少し持ってこようか?」


 トロは体勢を変えてまた横になった。

 トロの自慢だった真っ白な綺麗な毛並みは、パサパサして束になってしまっている。

 皮膚には弾力がなく、少し摘んだ皮膚は元に戻るのに時間がかかった。

 いつも一生懸命に研いでいた爪も、よく見ると分厚いままだった。


 何とか体を動かして1階へ降りて、トロのカリカリを器に入れる。

 トロはカリカリの匂いを嗅いだが、顔を背けて1口も口にしない。

 もうどうしたらいいのか、やり場のない気持ちが体の中でハウリングしてどんどん増幅していった。

 今日も動物病院へ行くことになっているとのことで、私は10時を過ぎてやっと起き出して着替えて、父と母とトロとで病院へ向かった。



 トロを拾った時にトロを助けてくれた先生がいる動物病院は車で少し離れたところにある。

 当時獣医さんになりたてだった女医さんはいまではベテランと呼べる年齢になっていて、3年前に自分の病院を開院したので私たちは先生を追う様にして転院をした。

 私はトロが病院へ行く時にはいつも一緒だったので、その女医さんとはもう顔見知りだった。

 高橋由奈先生という名前で、ひょんなことで私の名前を知った時に、自分も「ゆな」で、同じ名前だねと微笑んでくれたのを今でも覚えている。


 診察室に入ると、由奈先生も悲しそうな顔をしていた。

 優しくトロの体を触って診察をして、最後に頭を撫でてくれた。


「結奈ちゃん、お母さんから聞いたと思うんだけど」


 日曜日で忙しいにも関わらず、私にもトロの病気の説明をしてくれた。


「トロちゃんね、病気が進行しちゃってるの。抗がん剤も一つの手だけど、このタイプの腫瘍にはあまり効果が期待できないのよ。獣医学的な正解は抗がん剤だけど、それが必ずしもトロちゃんにとって最良な治療なわけじゃないの。最高の治療と最良の治療は違うのよ。お母さんとお父さんの意向は昨日聞いたんだけど、結奈ちゃんは…どうかな?」


 由奈先生は一つ一つ、丁寧に言葉を選びながら私に語りかけた。

 たかだか16歳になったばかりの私をトロの家族として、いや、1人の人間として接してくれる由奈先生の優しさが心に沁みる。


「……どうすればいいか、分からないです。トロはどうして欲しいか、考えても分からなくて」


 由奈先生は静かにゆっくりと頷く。


「…悩むのは、それだけ結奈ちゃんがトロちゃんのことを愛してるからだよ」


 その言葉に私は背中を押された。


「私は…トロが、……一番楽になるようにしてあげたい…です」


 トロを撫でながら、私はエアコンの音にかき消されてしまいそうな声を振り絞る。


「うん。そうだね。お父さんお母さんも同じ気持ちだって言ってたよ」


 由奈先生もトロの喉を指で撫でた。


「…Quality of Deathって、聞いたことある?」


「クオリティオブライフ、じゃなくてですか?」


 由奈先生は「Quality of Death、死の質」についてゆっくりと話をしてくれた。「Quality of Life、生活の質」ももちろん重要だけれど、最期の時をどの様に過ごすのかもとても重要だと言っていた。

 入院をして点滴をすれば寿命は延びるかもしれないけれど、入院中に亡くなってしまう可能性もあるし、それよりは住み慣れた家で過ごす方がトロにとって幸せじゃないかとも提案してくれた。

 丁寧に言葉を選んで話す由奈先生の声はどこまでも優しくて、不安定な私たちの心をそっと支えてくれながら、トロにとって最良の治療を一緒に考えてくれた。


 結局、私たちは点滴をしたりして自宅でトロを看取ることを選択した。

 手術をして弱ったり、入院をして寂しい思いをさせたくなかった。

 嘔吐が今後強くなることが予想されるため、吐き気止めの薬を処方してもらった。

 何かあれば些細なことでもいいから連絡してと由奈先生は言ってくれて、どこまでもトロと私たちを中心に考えてくれる由奈先生には感謝をしてもしきれなかった。

 ごはんを食べないことが心配だと伝えると、今は食べられるものは何でもあげてみてもいいと言われたので、病院でもらったご飯に加えて、帰りにスーパーで色々なタイプのご飯を買って帰った。



 家に着いた頃にはお昼を回っていた。


(今頃、美術部のみんなどうしてるだろう。当番入ってたのに迷惑かけちゃったな。哲司先輩も、一緒に回ろうって約束してたのに。ごめんなさい)


 家に入ってからは、リビングで父と母とトロと過ごした。

 トロはフラフラしながらもリビングの中を少し歩いて、水を飲んだ。

 私達は椅子に座ってその様子を眺めた。

 母は泣き続けていて、母をなだめる父の目も赤くなっているのに気付く。

 水を飲んだトロはどうにかソファの上に乗って横になると、点滴をして少し気分が良くなったのか、そのまま静かに目を瞑って眠った。


 トロが眠るのを見て少し安心すると、昨夜は全然眠れなかったのと、学園祭の疲れとが相まって私も眠くなってきた。

 父と母に部屋に戻ると伝えて、私はそのままベッドに倒れこんだ。

 頭の中をぐるぐるとトロのことが巡っている。

 気持ちのいい秋晴れの日差しが差し込む窓辺には、トロのお気に入りのクッションが置いてあった。

 日差しに照らされたクッションの白さがまるでトロのようで、私は見ていられなくて目を閉じた。

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