第41話 Working on it Night and Day
秋晴れの1日だった。
美術室には私たちの作品をイーゼルで展示して、テーブルを6つとそれぞれ椅子を2脚ずつ部屋の中央に設置した。
開会式が始まって10分、まだお客さんは来ない。
私はドキドキしながら、サイフォンの手順を頭の中で確認していた。
ようやく1組目のお客さんが来た。中学生の女の子2人で制服を着ていた。
2人は席に着いてカフェオレとスコーンを1つずつ注文すると、出来上がるまでの時間、席を立って絵の方へと向かう。
私の作品は入口から見て回ると2番目に展示してあったので、次は私の絵の番だった。
サイフォンの泡がどんどん大きくなる中、横目でつい様子を伺ってしまう。
(…どうしよう、次、私の絵だ)
心臓の動きが早くなって何だか胃が痛くなるような思いだった。
サイフォンが噴水となってコーヒーの香りが漂い始めると、2人は一度こちらを見てサイフォンに感動したようで興奮していた。
そしてすぐに私の絵に眼をやって、長い間眺めると、次の作品へと移っていった。
(どうだったかな、下手って思われたらどうしよう)
そんな私の不安を察してか、となりでスコーンを温めている未怜が背中を叩く。
驚いて振り返るといつもの調子で笑っていた。
「そんなに気にしてたらお客さんも居づらくなっちゃうよ!結奈は精一杯描いたんだから、自信持って!」
私は小さくうなずいて、微笑み返す。
今の一撃で心のモヤモヤはどこかに消えていったようだった。
出来上がったカフェラテとスコーンを席まで運ぶと、2人は私の方を見た。
「先輩があの絵描いたんですか?色使いもすごく綺麗ですね!」
どうやらエプロンにつけた名札を見たらしく、ポニーテールの女の子がまだ若いキラキラとした笑顔で私を見つめる。
「あ、ありがとうございます。2人とも、絵、好きなんですか?」
まさか話しかけられると思っていなかったので、私は少しおどおどしながらそう尋ねる。
「はい、私たち2人とも美術部なんです。先輩たちの絵、どの絵も本当に素敵です!」
もう1人の女の子がスコーンをかじりながら答えてくれた。
「そうなんだ、ありがとう。ゆっくりしていってね」
2人はその後カフェオレを飲みながらゆっくりと絵を眺めた後、頭を下げて美術室を後にした。
「…ふー、緊張したー」
私は急に力が抜けてしまって、危うくトレイの上の紙コップと紙皿を落としてしまいそうになった。
安心したのもつかの間、それからは次々とお客さんが入ってきた。
私は接客中だったので、父と母が来たのに気が付くのに遅れて未怜が教えてくれた。
急いで振り返ると席に着いた父と母が手を振って笑っている。
2人は哲司先輩にも会いたかったようで、今はクラスの方に行っていると伝えると残念そうにしていた。
両親に先輩たちを紹介して、コーヒーを待つ間に2人は絵を見ていた。
コーヒーが出来たというのに一つ一つの絵をじっくりと眺めて、また私の絵の前に戻ってしばらく眺めている。
私は何だか照れ臭かったが、そのままコーヒーを配膳するのを待った。
やがて席に戻ってきたのでコーヒーとスコーンを運ぶと、母の目は何だか涙で潤んでいる。
「…結奈、良い絵を描けたわね。レンゲ畑。懐かしいわね」
「あぁ、素敵な絵だよ。来年の春には久しぶりにまたみんなで見に行こうか」
「うん、家族のことを思って描いたから、2人のおかげ。来年、楽しみにしてる」
コーヒーとスコーンを置いて、私は逃げるようにその場を去った。
心臓がドキドキ脈打っている。
お客さんが増えて忙しかったのもあるが、2人に絵を褒められたのが嬉しくて、何となくその場にいられなかったのだ。
2人はその後も席からゆっくりと絵を眺めて、飲み終わると私に手を振って帰っていった。
13時を回って少し人の流れが緩やかになったところで、私と未怜はお昼を食べに出かけた。
旧校舎内はいつもの放課後と違って人で溢れている。
誰かが歩くたびに軋む廊下はそのうち抜けてしまうのではないかと思うほどだった。
廊下の窓は全て開け放たれて、熱気の中に秋の涼しい風を送っていた。
美術室の隣の3年A組は焼きそばを出していて人の列ができていて、焼きそばの香ばしい匂いに食欲をそそられて私たちは列に並んだ。
少し待って教室の中に入ると哲司先輩が焼きそばを焼いている。
「いらっしゃい、ってあれ?結奈と未怜か!」
「せーんぱーい、結構似合ってますね!かっこいいですよ!ね、結奈!」
私は無言で頷いた。実際、普段の哲司先輩からは想像もつかないアクティブな格好だった。
クラスTの上から羽織ったシャツを腕まで捲って鉄板の上で焼きそばを作る姿は新鮮で、いつもとのギャップにドキッとしたのは事実だった。
「はいはい、少しおまけしておいてやるから、美術部の方はどう?」
哲司先輩は出来上がった焼きそばをお皿に盛りながら尋ねる。
「結構お客さん入ってますよ。順調です」
私は笑ってうなずいて、心ばかり大盛りになった焼きそばを受け取って哲司先輩と別れた。
哲司先輩の作った焼きそばは少ししょっぱかったけど疲れた体が塩っ気を欲していたので美味しかった。
食べ終わると未怜が今度はたこ焼きともつ焼きが食べたいというので、旧校舎を出て校庭へ向かう。
校庭も人がごった返していて、目当てのお店に行くのも少し大変なくらいだった。
自販機で買ったペットボトルのサイダーが太陽に照らされて水滴が次々とこぼれていく。
そうこうしているうちに、吹奏楽部の演奏の時間が近づいてきて、私たちは体育館に移動して、席に座った。
未怜が開演前にトイレに行ってくるというので、私はしばらく1人で配られた曲の演目を見ながら過ごしていた。
開演時間になり、照明が落とされても未怜は戻ってこない。
どうしたんだろう、大丈夫かなと心配していると隣の未怜の席に人が座った。
別の席に移ってもらおうと勇気を出して声をかけようとすると、その人は微笑んだ口の前に人差し指を当ててシーっと言った。
哲司先輩だった。
「え、哲司先輩?どうしたんですか?未怜は?」
驚いたけど、もう演奏者が席についているので小声で尋ねる。
「俺が美術部の当番やってたら未怜が走ってきてさ、当番は私が変わるからさっさと体育館に行ってくださいっていうから、走ってきたんだよ。あいつ、いいやつだよな」
笑みを浮かべたその顔は少し汗がにじんでいて、私はハンカチで優しく撫でて拭いた。
哲司先輩からはさっきまで焼いていた焼きそばの匂いがして、お世辞にもロマンチックなムードとは言えなかったが、2人で吹奏楽の演奏を聞くことができて夢みたいだった。
(未怜に後でお礼言わないと。アイスでも買っていこう)
拍手とともに演奏が始まった。
不思議なことに、人間の吐息は無機質な金属の管を通ると暖かい音色に変わる。
耳にお腹に懐かしい音圧を感じた。
聴き慣れない人には退屈かと思って哲司先輩の方を見ると、真剣な顔をして聞き入っていた。
私は何だか嬉しくて、哲司先輩の膝の上に置かれたままの左手の上にそっと私の右手を乗せると、哲司先輩は横目で私を見ると軽く微笑んで指を組んできた。
少し肌寒い、薄暗い体育館の隅で私たちは手を繋いで音楽に包まれた。
「あ、ホルン!見つけた!」
曲の合間に哲司先輩は全体を見渡してホルンのパートを指差した。
「合奏の時はだいたいあの位置なんですよ。さっきのホルンの音良かったですね」
詩的間奏曲が演奏された。
私にとっては思い出深い曲で、2年のコンクールの自由曲でもあったのだ。
演奏を耳で追いながらも、つい指が動く。
初めてのコンクール出場で緊張した時のことを思い出した。
私、やっぱり音楽も好きだ。
そう気付いたのは芹ヶ谷公園で久しぶりにホルンを手にして座った時だった。
哲司先輩が気付かせてくれた。
4月の教室で哲司先輩と出会った時に流れていたあのメロディーを、今は手を繋ぎながら聴いているなんて、人生というのは不思議だった。
緩やかに流れる時間を絵の具で彩りながら、私たちは1秒ごとに大人になっていく。
「みんな、お疲れ様!結構お客さん来たね、売り上げよかったら打ち上げでもしよう!」
「スコーンが結構売れたな。まだまだ冷凍してあるし、明日も期待できそうだな」
「明日も頑張ろうね!」
軽く片付けをして解散となり、私は未怜と一緒に帰った。
校庭には今日もまだたくさん生徒が残っていて、明日の準備をしているようだった。
「未怜、あのさ、今日、ありがとうね」
「どういたしまして!哲司先輩、すごい速さで走っていったよ。結奈、愛されてるね!」
未怜はからかうように肘で私をつつく。
私は何だか照れ臭かったので笑ってごまかした。
作り笑いでなく、心からの笑いだった。
電車に乗ると何だか1日の疲れがどっと出て、くたくたになりながらも家に帰ると、トロが迎えにこない。
こんなこと今まで一度だってなかった。
家の中の雰囲気が暗いので、そのままリビングに入ると母がトロを抱いて泣いている。
「…ただいま、…どうしたの?」
父に肩を抱かれて、母は涙を携えた瞳でゆっくりと私の方を見た。
「……トロがね、がんなんだって」
涙声の母の腕の中で、トロは私に気がついたようで顔を上げてか細い声で鳴いた。
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