第40話 Waltz for Debby
学園祭に向けた絵の製作は順調で、明莉先生からもアドバイスをもらいながら十分余裕を持って完成した。
思い出のレンゲ畑。
哲司先輩もたまに部活に来ては、私の絵を褒めてくれた。
でも、少しだけ表情に曇りがあるようにも思えた。
新校舎の模型作りでお茶を濁したクラスの準備も手伝いながら、私たちは美術部のカフェの準備をした。
展示する作品を決めて、カフェのメニュー表も作って、当番表も作る。
お店で流す音楽は落ち着いたジャズのCDを祐一先輩が持ってきてくれた。
飾りつけは最小限で、「美術館の中で飲めるコーヒー」というコンセプトでお店作りをした。
少ない部員でお店を回すのは大変そうに思えたが、例年そんなにお客さんは来ないとのことで心配いらないよと瑞季先輩は笑った。
構内の銀杏並木も少しずつ色づいてきて、いよいよ明日が学園祭当日。
「哲司さんも作品持ってくるって言ってたけど、明日になりそうかな。準備もできたし、今日はもう帰るか」
(哲司先輩も絵を提出するんだ。一体いつ描いたんだろう。もしかして、私の絵だったりしないよね?)
最後に部屋の掃除をして、私たちは部室を後にした。
校舎の中や校庭ではまだ作業をしている生徒が残っていた。
「いやーとうとう明日だね!楽しみー!何食べようかなぁ。結奈、当番じゃない時、一緒に回らない?」
自転車を押しながら未怜は早くもテンションが上がっている。
「うん、いいよ!未怜何食べたい?」
私もお祭り前の高揚感を隠しきれず、駅の前の街灯の下で未怜と一緒に明日の学園祭のパンフレットを眺めて吟味した。
「うーん、焼きそばでしょー。たこ焼きにー…」
「いいね!一緒に行こう!」
「結奈はどこか行きたいところある?」
「あ、私は吹奏楽部の演奏聴きに行ってみたいかな、せっかくだし」
「いいよ!演奏は14時からだから、当番にかぶらなくてちょうどいいね!」
いよいよ明日が学園祭だ。
私の作品を美術部以外の人に見てもらうのは初めてだった。
わざわざ美術部の作品を見にくるくらいだからきっとうまい人も来るだろう。
始めは戸惑いが大きかったが、店番をしながら絵を見た人たちの反応を直接見られるのは考えてみると貴重な機会なのかもしれない。
ここ数日の疲れが一気に出たのか、私は珍しく電車で席に座った。
座席の暖かさと、心地よい揺れが眠りを誘ったが、うつらうつらとしながらも私は何とか寝過ごすことなく電車を降りた。
「おかえり、準備お疲れ様。明日はお父さんと一緒に見に行くからね」
「ただいま。うん、ありがとう、何時くらいになりそう?」
「うーん、午前中の内には行けそうかな。結奈の当番の時間はいつ?」
「午前中だよ、お昼には未怜と一緒に色々回ろうと思ってるから、それまでに来てくれれば会えるよ!」
「分かったわ、疲れてるだろうから、今日は早めに寝なさいね」
階段を上る私の後をついてくるトロはいつもよりも動きが鈍かった。
いや、私が早く登りすぎたのかもしれない。
部屋に入って着替えをして、トロを抱きかかえるとトロは相変わらず喉を鳴らしていた。
「あれ?トロ、軽くなった?ちゃんと食べないとダメだよ」
ひとしきり撫でてブラッシングをしてあげてから、私は明日の準備を始めた。
学園祭当日、秋の朝はまだ暗かったが今日も準備のためにいつもより早めに家を出た。
薄明の中いつもより早い電車に乗ると、乗っている人たちの様子も違っている。
次第に高くなってくる太陽の光線に目を細めながら、私は学校へ向かった。
旧校舎の軋む廊下を一歩一歩踏みしめて、美術室のドアを開けるとジャズの音楽の中、コーヒーのいい香りが漂っている。
「結奈、おはよう。ちゃんと眠れた?」
白い光に包まれて、哲司先輩は窓に寄りかかってコーヒーを飲んでいた。
「おはようございます。あー、勝手にお店のコーヒー飲んじゃダメですよ!」
「いいだろ、瑞季には内緒な。ほら、これ結奈の分」
哲司先輩はサイフォンに残っていたコーヒーをコップに淹れてくれた。ブラックのままのコーヒーはやはり苦かったが、疲れが取れていない早朝の体には不思議と沁みて美味しく感じた。
「これで、結奈も共犯な」
コップで顔を半分隠し、哲司先輩が意地悪そうに笑う。
やられた。
11月の朝はカーディガンをブレザーの下に着ても少し肌寒くて、コップに入ったコーヒーの熱が冷たくなった指先から伝って体を温めてくれた。
「先輩、絵、完成したんですか?」
「あぁ、これだよ」
イーゼルに立てかけられたその作品にかけられた布を外すと、見慣れた私たちの美術室の絵だった。
それなのに一瞬で目を奪われて、ついコーヒーを飲むのも忘れてしまった。
立ち上がる湯気をかき消すように長い溜息をついたのは、そうしないと呼吸すらも忘れてしまいそうだったから。
夕焼けが朱く照らす絵の中の部屋には5人の人影があって、4人はそれぞれキャンバスと向き合っていて、1人は他の4人の様子を眺めていた。
決してリアリティがあるわけではないのに、すぐに私たちだと分かる。
まるで絵本の中の世界の様で、それでいて、いつも私たちが過ごしてきた美術室の空気が25号のキャンバスの中に広がっていた。
あの窓もあの机もあの柱も、全てが私に訴えかけてくる。
感動という言葉ではとても片付けることができない感情が、私の胸の中でリフレインしていた。
いったいどうしたらこんな素敵な絵が描けるのか、私は一度哲司先輩の眼を通して世界を眺めてみたいと本気で思った。
「…これ、私たちの美術室」
「うん、そう。高校最後の年だし、何を描こうかなって思ったら、これしか描くことがなかった。3年間過ごした部屋だし、それに、みんなとも会えたしな」
青春と呼ぶには私たちはあまりにも多くの時間を夕焼けの赤色の中で過ごしてきたのかもしれない。
旧校舎の歪んだガラス窓から差し込む光はいつもこの部屋を暖かく染めていた。
私には分かっている。
この光は哲司先輩なんだ。
「そうですね。私、美術部入ってよかったです。この光、いつも私たちを包んでくれていましたね。いなくなっちゃうの寂しいな」
手の中のコーヒーの湯気がまだ空調の効いていない美術室へと消えていく。
飲み終わったコップをテーブルに置いて、哲司先輩は私の頭をぽんと叩いた。
「結奈も、いい作品が描けたな。この絵、家族を思って描いたんだろ。ちゃんと伝わってくるよ」
哲司先輩はそう言って、私の大好きな顔で微笑んだ。
私も微笑んで答える。
飲みかけのコップをテーブルに置いて、コーヒーの香りに包まれながら私たちは軽く抱きしめ合った。
「俺今日はクラスの当番と美術部の当番もあるから、明日は一緒に回ろうか。今日は未怜と回るんだろ?」
「はい。未怜、たくさん食べるって意気込んでましたよ」
そうこうしているうちに、瑞季先輩と祐一先輩がやってきた。
ドアを開けた瞬間、私はつい反射的にコップを隠したが部屋に漂う香りは消せなかった。
「あー!コーヒー飲みましたね、もう!結奈を巻き込んじゃダメですよ!」
「ばれた?味見味見。良い豆仕入れたな」
「俺たちも飲もうぜ!寒い朝のコーヒーはうまいんだよな」
「もう、祐一君まで。じゃあ、4人分淹れてね。明莉先生と未怜もすぐ来るから」
2人ともカバンを置くと、哲司先輩の絵をみて言葉を失った。
祐一先輩は絵に気がつくと手元が狂って轢いたコーヒー豆をこぼしてしまった。
瑞季先輩は涙ぐんでしまって、ハンカチを取り出すと口元を押さえた。
すぐに未怜もやってきて、元気な声で挨拶をしたかと思うと固まった。
「…やっぱり、哲司先輩すごいです。私…、先輩と一緒の部活で良かったぁ」
瑞季先輩は涙をこらえながら何とか言葉を口にする。
「学園祭で引退かぁ、また勉強の息抜きに遊びに来てくださいね。哲司さんいないと、男俺だけになっちゃうから」
祐一先輩はアルコールランプに火をつけながら笑った。
「私、先輩が新しい絵を描くの楽しみにしてたんです。先輩の絵、見られて嬉しい」
未怜はカバンをおろすのも忘れて近づいて絵を眺めた。
サイフォンの温度は頂点に達して、沸騰したお湯の泡が静かにコポコポと音を立てる。
新たにコーヒーの香りが広がってきた頃、明莉先生もやってきた。
明莉先生は哲司先輩と絵を見て、微笑みながらウインクした。
「さぁ、作品も揃ったわね。お店の準備はできた?今日、明日とみんな楽しみながら頑張ってね!」
私たちはコーヒーで乾杯をした。
こんなに良い香りなのに、口にすると少し苦い。
まるで初恋みたいだと思った。
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