第39話 memories of You

 日中はまだまだ暑い日が続いていたが夜はだいぶ涼しくなってきて、秋めく季節に夜のBGMは蝉の声からコオロギの声に変わってきた。

 


 2学期が始まると、私たちは早速学園祭に向けて動き始めた。

 夏休みの間に瑞季先輩がほとんど段取りをしてくれていて、コーヒー豆の仕入れやサイフォンの準備など全て手配済みだった。


「よし、じゃあ試しに飲んでみようか」


 紙コップに少しずつ入れて私たちはブラックのままコーヒーを飲む。


「やっぱりコーヒーはブラックだな。うまいよこれ」


「祐一くん、強がってない?ミルクもあるよ?」


「大丈夫。俺最近本当にブラックが好きになってきたから。結奈平気なの?」


「う、私はやっぱりブラックは苦手です。ミルク入れていいですか?」


「私もミルク入れてー!」


 4人で一息を着くと、明莉先生と哲司先輩がやってきた。


「お、コーヒー!俺たちにも一杯入れてよ」


「いいですよ。哲司さんはブラックでしょ?明莉先生は砂糖ね。」


「ありがとう。いただくわね」


「あ、私淹れてみたいです!」


 未怜は手順を確認しながらサイフォンの噴水を見てまた興奮していた。

 明莉先生はいつかのマグカップにコーヒーを受け取った後、スティックシュガーを丸々2本入れて、スプーンでかき回している。


(あれは甘いわけだ)


「今日はみんなに報告があるの。…前から噂はあったんだけど、今年でこの旧校舎…取り壊しが決まったの」


 明莉先生はうつむきそうになるのをこらえて、私たちをまっすぐに見て話した。

 強がりを隠してセリフにしたみたいで、声のトーンがいつもと違う。


「…え?そうしたら美術室どうなるんですか?」


 未怜がすがる様に明莉先生の腕を掴む。

 私は胸の奥が痛くなって言葉が出てこない。

 コーヒーを持つ手に力が入らなくて落としてしまいそうだったので、紙コップを近くの机の上に置いた。


「新校舎の4階の使ってない部屋に移動になるみたい。部活動は今まで通り続けられるわよ」


「噂、本当だったんですね。何だかさみしいな」


 瑞季先輩は紙コップを両手で持ったまま、ゆっくりと椅子に座りながら呟いた。


「そうね。私も寂しい。この部室で過ごすのもあと半年くらいね」


 明莉先生も椅子に座った。

 哲司先輩が静かに窓際まで歩いて窓を開けると、涼しい風が入ってきて机の上のルノアールの画集のページを何枚かめくった。

 私は深く息を吸ってから上を向いて、それから教室を見渡した。

 黒板の上の時計も、年季の入った机も、波打ったガラス窓も、壁に飾られたたくさんの絵もみんなみんな大好きだった。




「…さぁ!みんな学園祭に向けた製作は準備できたかしら?気を取り直して、この部屋での最後の学園祭、盛り上げないとね。もうあまり時間もないから、気持ちを切り替えて早速取り掛かるわよ」


 グレーのジャケットをハンガーにかけて、明莉先生も作品製作に取り掛かるようだった。

 わざと明るく振る舞う明莉先生を見習って、私たちも気持ちを切り替えて、いい作品が描ける様に頑張ろうと誓った。


「…じゃあ、俺は今日も失礼するよ。コーヒー、ごちそうさま。あ、そうだ。メニューにさ、ジュースも入れておいてもらえる?多分あいつらくると思うから」


「あぁ、こども達ですね。去年も来てましたしね。了解しました!」


 ニコっと笑いながら私に飲みかけのコーヒーを手渡すと、哲司先輩はジャケットを腕に抱えて美術室を後にした。

 あまりにも美味しそうに飲んでいたので、私は受け取ったばかりのブラックのままのコーヒーにチャレンジしてみたがやっぱり苦い。



 それぞれが製作に向けて準備を始めていると、


「浅井さん、製作はどうするか決まった?」


 明莉先生は椅子を私の隣に持ってきて座った。


「はい。レンゲ畑を描こうと思います」


「レンゲ畑?いいわね」


「でも、私の記憶を絵にしようと思うと何だかうまく構成が浮かばなくて…」


「そうね、確かに記憶の中の風景を描くのは難易度が高いかもね」


「写真とかを見て、下調べした方がいいでしょうか?」


「うん、それも一つの方法だと思うけど…」


 明莉先生は少し上を向いて何か考え込んでいた様だった。


「5W1Hってあるでしょ?」


 何かを思いついたように、目を見開いて表情が明るくなる。


「英語の疑問詞ですよね?」


「そう。いつ描くか。どこで描くか。誰が描くか。何を描くか。どうやって描くか。足りないの分かる?」


「…Why?」


「そう、どうしてその絵を描くのか。どうしてその絵を描きたいのか。一番大切なこと。自分の気持ちと向き合うこと。」


 明莉先生は私の肩に優しく左手を置いた。

 白くて線の細い指は綺麗に磨かれた爪が似合っていて、薬指には銀色の指輪が輝いている。


「浅井さんが描きたいのは想い出の中のレンゲ畑なんでしょ?写実的に描くわけじゃないんだし、おぼろげでも、記憶を頼りにして描くのも面白いんじゃないかしら?キャンバスの上ではね、誰もが自由なのよ」


 明莉先生はそう言って微笑むと、未怜の方へと向かった。


(キャンバスの上では自由、か)


 私は哲司先輩が私の絵を描いてくれた時のことを思い出していた。

 あの時、モデルをしながら私は吹奏楽の曲を思い浮かべていた。

 練習の辛さやコンクール前の緊張、部内での人間関係や合奏時の一体感、全国大会での、一つの声に導かれる時の出だしの呼吸まで、今では全てが何だか懐かしく思える。


 それから、あの夏の花火。

 七里ヶ浜の哲司先輩のお母さんのお墓参り。

 カササギの雪景色。

 不安で潰されそうな時に未怜が支えてくれたこと。

 放課後の教室で本を読む哲司先輩。

 哲司先輩の絵を初めて見た日のこと。


 音楽も絵画も想い出も、記憶ではなく心に残るのだ。

 私の心の中の全てを筆に乗せて、誰かの心に残る絵を描けたらいいなと思った。

 絵が下手くそだと、自分を卑下しながら作り笑いをしていた4月の私の姿はもうそこにはなかった。

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