第38話 静かの海で

 この広い海のどこから産まれるのか、潮風が優しく私の頬を撫でて鎌倉山の方へ吹き抜けていく。

 風の行方は分からないが、夏草とともに、きっとお母さんの木を優しく揺らしているだろうと思った。


 坂を降りて七里ヶ浜へ向かうと太陽が海面に乱反射をしてキラキラと輝いていて、あまりの眩しさで目を細めて見るその光は海全体に広がり、水平線と空の境界を曖昧にしていた。


 私たちは砂浜に降りると、しばらく海岸にそって歩いた。

 哲司先輩は初めこそ海から離れて歩いていたが、波に近寄りたい衝動を抑えられなかったらしくその足跡は次第に深くなっていき、ついには裸足になって波打ち際に立った。


「結奈も来いよ。水冷たくて気持ちいいよ」


「えー、私着替え持ってきてないですよ」


「俺だって持ってきてないよ。多少濡れてもこの天気なら乾くだろ。ほら」


 パンプスを脱いで砂浜に裸足になり、少年に戻ったような哲司先輩の差し出した手を握って急いで海に入った。

 太陽で熱くなった砂から逃げたかったわけじゃなく、単純に、私も哲司先輩と海に入りたかったのだ。


「わ、結構冷たい!」


 引き波で倒れそうになりながら右手を繋いで姿勢を保った。

 足首で崩れる波が飛沫となっては、また海に戻っていく。

 湘南の海にしては今日の七里ヶ浜はとても静かで、波の音だけが一定のリズムを刻んでいた。


「…結奈、今日本当にありがとう」


「いいんですよ。私もお母さんに挨拶できて嬉しかったです」


「―――――――」


 突然の風で私は哲司先輩がなんと言ったのか聞き取れなかった。


「え?何ですか?」


 顔を近づけると、哲司先輩の顔も近づいてきてキスをした。

 全てを蒼く染めるような海の中で、私はバランスを崩さないように哲司先輩の袖を掴んだ。

 目を閉じているのに、照りつける太陽は私のまぶた越しに赤く輝いている。


「誕生日おめでとう」


 唇を離すと、右手で潮風に流れる私の髪を撫でて哲司先輩は微笑んだ。


「うん、ありがとう」


 高鳴る心臓の音を潮騒がかき消してくれて、私も少し背伸びをして哲司先輩の髪を撫でる。

 まるで猫のように目を細める哲司先輩が何だか可愛らしくて、初めて私からキスをした。

 時間が止まったように動かない私たちのそばで、左腕の時計と波の音だけが時間の流れを教えてくれた。


「昼飯でも食べようか」


 私たちは踵を返して、砂浜へ向かった。

 途中、哲司先輩はもう我慢ができなくなったようで、私に少し海水をかけた。

 私も何だか楽しくてやり返しているうちに、2人とも下半身はびしょ濡れになってしまった。


 濡れた足を砂浜で乾かしながら私たちは手を繋いで、反対側の手で靴を持って裸足で歩いた。


 海沿いを歩きながら乾いた砂を払い落とし、再び江ノ電に乗って私たちは江ノ島駅で降りた。

 江ノ島駅を出た後は私の希望で新江ノ島水族館まで歩いた。

 薄暗い明かりの中、色とりどりの魚が泳いでいる水槽はアクリル板でできた宝石箱みたいで、私たちは繋いだ手をひと時も離すことなく見学をした。

 イルカのショーでは水しぶきが飛んできたが、やはりこの暑さですぐに乾いてくれた。


 私の左腕の時計は14時48分を示していた。

 結局昼食も取らずに沢山歩いたが私は何だか胸がいっぱいで少しもお腹が空いていなかったので、私たちは売店でホットドックを買って食べた。

 哲司先輩は誕生日だからもっとおしゃれなものにしようと言ってくれたが、私は哲司先輩と一緒なら何でもよかった。


「水族館、好きなの?」


「はい、小学生の頃、江ノ島水族館には行ったことあったんですけど、こっちは初めてだったんで楽しかったです」


「それなら良かった。イルカを見る目が輝いてたよ」


「哲司先輩だって、ペンギンに手を振ってたじゃないですか」


 売店で買った星の砂をテーブルの上に置いてカフェから海を眺めながら、私たちはデザートにソフトクリームを食べた。

 太陽の熱でソフトクリームがすぐに溶けてしまいそうで、急いで食べると頭が痛くなってそれを見た哲司先輩は意地悪そうに笑った。


「江ノ島行ってみようか」


 水族館を後にした私たちは弁天橋へと向かった。

 弁天橋の始まりには天の北極と書かれたオブジェが置いてあって、何かと思ったら日時計だった。

 日が落ちるのも気がつけば早くなってきていて、果てしなく続くように感じた夏も確実に終わりに近づいてきていた。


 潮風に吹かれながらゆっくりと弁天橋を渡っていくと、江ノ島に着く頃には日もだいぶ傾いてきていて七里ヶ浜が遠くに見えた。

 強い風が吹く中で波の音が規則的に響いている。


「ちょっとこっち来て」


 しばらく波の音を聞いていると、哲司先輩は私の手を引いて仲見世通りへ向かった。

 食べ物屋さんやお土産屋さんが並ぶ中、郵便局を超えて少し歩いたところの小道を横に入っていく。


「ちょ、ちょっと、哲司先輩、ここって通っていいんですか?」


「大丈夫だよ。早く行こう」


 とても観光客が通る道には見えない細い道を通っていくと、小さな海岸に出た。


「ここ、夕日が綺麗なんだよ。墓参りの後、よく父さんと来たんだ。間に合って良かった」


 私たちは砂浜の上に腰を下ろした。

 あれほど私たちを照らしつけた太陽は海の向こうに沈み始めていた。

 今この瞬間、旧校舎の美術室もきっと夕日に包まれているのだと思うと何だか不思議な気分だった。


「結奈、手出して。これ誕生日プレゼント」


 手のひらに置かれたのは、ピンクゴールドの細いチェーンの先に猫のチャームが付いたネックレスだった。


「え?いいんですか?」


「うん。これさ、尻尾がトロっぽくない?」


 確かに、途中で2回曲がる鍵尻尾がトロのようだった。


「…本当、トロだ。かわいい」


 私が夕日に照らしながらネックレスを見ていると、哲司先輩が私からネックレスを受け取ってフックを外した。


「付けてあげるよ。髪、上げて」


 髪をたくし上げた私の首に哲司先輩の指が触れる。

 哲司先輩は右隣から私の顔の前と後ろに腕を回して、ネックレスをつけてくれた。


 私の胸元でトロが揺れた。


「…かわいい。大切にします。哲司先輩、ありがとうございます」


「どういたしまして。じゃあさ、お礼に哲司って呼んでよ」


「うぅ、意地悪…」


「んーー?」


 いつもの意地悪な顔をして哲司先輩は微笑んでいる。

 私は気恥ずかしさを胸にしまって、喉の奥から振り絞るようにして声にした。


「…哲司、ありがとう」


「おめでとう、結奈」


 夕焼けのせいか顔が赤くなっていくのを感じた。

 いつになったらこの呼び方に慣れるだろう。

 そう思っていると、哲司先輩の手が私の頬に触れてそのままキスをした。

 世界中を朱く染めるような夕焼けの中で、隣り合って座る私たちの影は重なって一つになる。

 目を閉じていたのに、先ほどまでの夕日がまぶたに焼き付いて離れなかった。



 夕日が沈んだ後、うっすらと夜の帳が降りてくるまで私たちは海岸で過ごした。

 その後、私たちは片瀬江ノ島駅から小田急江ノ島線で藤沢まで一緒に帰った。

 哲司先輩はわざわざ電車を降りて、東海道線の改札まで送ってくれた。

 茅ヶ崎で乗り換えて、相模線に揺られながら電車の窓に映るトロのネックレスを眺めているとあっという間に門沢橋に着いた。

 夢見心地で家に入ると、いつも通りトロが出迎えてくれた。


「ほらみて、トロ。トロのネックレスだよ。哲司先輩がくれたの」


 そう言って抱き上げると、トロはネックレスの匂いを少しだけ嗅いだ。


「海の匂いがするかな?」


 トロはそれより体を撫でて欲しかったようで、首筋を撫でるといつものように喉を鳴らした。

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