第37話 海辺の木にそよぐ風

 それから1週間、残暑はまだ続いていた。


  

 今日、私は16歳になる。


 

 トロは今日もごはんを残していた。

 それでも元気そうに私の足元にすり寄ってはゴロゴロと喉を鳴らして、横になりお腹を見せて撫でろと要求してきた。

 この異常な暑さにトロもきっと参っているのだろう。

 私はトロが飽きるまでお腹を撫でながらブラッシングもした。



 哲司先輩とは藤沢駅で待ち合わせた。

 私は相模線に揺られて茅ヶ崎まで行き、次に東海道線に乗り換えて藤沢まで向かった。

 江ノ電乗り場までコンコースを歩いて行くと、哲司先輩が改札で待ってくれていた。


(何だかいつも待たせちゃうな。今度はもっと早く来よう)


 駆け足で向かって挨拶をする。


「先輩、おはようございます」


「おはよう。結奈、誕生日おめでとう。今日、ありがとな」


「ありがとうございます。私こそ、付き添わせてくれてありがとうございます」


「鎌倉高校前で降りてちょっと行ったところだから、じゃあ行こうか」



 江ノ電は4両編成の緑色の可愛い電車で、私は乗るのが初めてだった。

 デパートの2階から出発して、川を下りながらゆっくりと海へ向かっていって、江ノ島駅で停車した時、開いたドアから少し潮の香りがした。

 住宅街の間をすり抜けてようやく七里ヶ浜沿いに出ると、目の前に広がる湘南の海が太陽を反射してキラキラと眩しかった。


 鎌倉高校前で降りた私たちは、線路沿いを少し歩いてそれから坂を登る。


「今年はまだまだ暑いな。結奈ちゃんと水分取れよ」


「ありがとうございます。この坂、結構きついですね」


 8月も下旬だというのに太陽は容赦なく私たちを照らした。

 時折吹く海風が私の帽子を吹き飛ばそうとして頭を押さえたが、火照った体に染みる潮風がどこか気持ち良い。

 前を見ると大きな積乱雲と真っ青な空が広がっていて、坂の上の雲は頂上まで行って手を伸ばせば届きそうなくらいに近く感じた。

 息を切らして坂を登りきり、少し歩いたところにお寺があった。


「ここ。じゃあ行こうか」


 古いお寺の門をくぐると、中にはお墓が沢山並んでいる。

 この下にたくさんの人が眠っていて、私たちもいつかこうなる日が来るのかと思ったが、不思議と子供の頃のように怖くはない。

 それは私が成長したからなのかは分からなかったが、もう私はベッドで1人怯えていた子供ではないのは確かだった。

 生きて行く強さを父、母、トロ、未怜、先輩達、明莉先生、そして哲司先輩からもらったのだ。

 立ち並ぶお墓には目もくれずに、哲司先輩は少し高くなった広場へと向かう。

 そこには様々な木が立っていて、その内の青々とした葉をつけた楓の木の前で立ち止まった。


「これが母さんの墓なんだ。樹木葬にしたんだよ」


「樹木葬?」


「石のお墓じゃなくて、木を墓標にするんだ。母さんの名前、楓っていうんだけど、だから楓の木にしたんだって」


「そうなんですか、そういう方法もあるんですね。何だか素敵ですね」


 素敵なんて言葉は場違いだったかもしれないと思って私が口に手をやると、哲司先輩は振り向いて微笑んでいた。


「素敵だろ。母さん自然が好きだったし、冷たい石の下じゃかわいそうだから。毎年、来るたびに少しずつ木が伸びててさ、母さんの代わりに大きくなっていくのを見ると何だか嬉しいやら切ないやらで。いつか俺が母さんの歳を超える時にはどれくらい大きくなってるかな」


 優しい枝ぶりで海風に揺れる楓の木を見つめながら、哲司先輩は笑った。


「きっとお母さんも哲司先輩の成長を楽しみにしてくれてますよ。ここ、海が見えて景色もいいですね」


「あぁ、母さん鎌倉生まれなんだよ。それで、海が見えるところがいいって父さんと話してたんだって」


 哲司先輩は花束をプレートの前に手向けた。

 プレートには、「吉井楓 平成6年8月22日」と刻んでる。

 私たちは楓の木の前でしゃがんで、静かに目を瞑った。



 私は目を瞑りながら、お母さんに伝えたかったことを胸の中で想った。

 ふと横目で哲司先輩を見ると、まだ手を合わせて目を瞑っていて、潮風にそよぐ髪は今日も柑橘類の薫りがした。


 少しして、哲司先輩は目を開いた。


「よし、行くか。母さん、また秋に来るよ。紅葉、楽しみにしてるから」


 哲司先輩は私の右手を取った。

 私もお母さんの木に挨拶をして、哲司先輩と一緒に手を繋いでお墓を後にした。


「ずいぶん長く手を合わせてたけど、何て想ってたの?」


「内緒です。哲司先輩も長かったですよ」


「俺は目を開けたら結奈がまだ目を瞑ってるから、また目を閉じたんだよ」


「そうだったんですか。伝えたいことが沢山あったんです。お母さんの木、素敵な木でしたね」


「ありがとな。結奈、このまま海でも行こうか」


 駅への道は来る時にはあれほどきつい坂だったのに、今では目の前に広がる海へと続く1本道となっていた。

 少しも曲がりくねることなくまっすぐなその道は、まるで海の向こうへと続く滑走路のようだった。

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