第36話 Close to you
口に出した言葉が全て真実とは限らないけれど、今この胸に響く感情は紛れもなく真実だと思えた。
「俺さ、結奈の絵を描きたいんだよ」
突然のことで私は思わず聞き返した。
「…私の、何ですか?」
「結奈の絵。人物画」
「…え、え、ちょっと待ってください、恥ずかしいです」
「あ、また敬語に戻ってる。さっきはタメ口だったのに。敬語使ったら罰ゲームの約束だったよな。モデルになってよ」
「う、またそういういじわるを…」
「この公園で、ホルンを吹く結奈が描きたいんだ。それで持ってきてもらったんだよ」
笑いながら話す姿に先程までの迷子のような面影はなかった。
「えー、本当に書くんですか?」
「うん。俺さ、結奈の家に行った時、結奈が吹奏楽のことを楽しそうに話すのを聞いて、あぁ結奈は本当に音楽が好きなんだなって感じたんだ。…ホルン、今は吹けてないけど、いつかまた吹けるといいな」
喋りながら哲司先輩はStrawberry Fieldsから持ってきたキャンバスを用意していく。
テーブルの上に、デッサン用の木炭を置いて、油彩セットも準備をして早くも書く気満々だ。
「私、まだモデルになるって言ってませんけど」
私は頬を膨らませる。
「描かせて!一生のお願い!」
「一生のお願いをこんなところで使って良いんですか?もう、適当なんだから」
そう言いながらも、あの子供のような笑顔を前にすると私は断れなかった。
「…それで、どうすればいいんですか?」
「そうだな、テーブルを背にして、いつもホルンを吹くみたいな姿勢取ってくれる?顔は正面じゃなくて少し斜めを向くといいかな。結奈、横顔綺麗だから」
「もう、おだててもダメですよ」
私はホルンをケースから出しながら答えた。
「いやこれは本当」
「うー、こうですか?」
私は頬が赤くなるのを感じながら、マウスピースを口につけて口を膨らませた。
「うーん、ホルンは口から外そうか。抱えるように持ってみて。そうそう、その感じ。うん、いいね、良い絵が描けそう」
哲司先輩は木炭を動かし始めた。
絵と向き合う、あの真剣な眼差しでスケッチブックと私を交互に見つめている。
木炭のデッサン音が噴水で遊ぶ子供たちの声と奏でるハーモニーとなってまだ暑い夏の公園に響き渡る。
あの瞳で見つめられるとどうも照れてしまって、つい下を向きそうになると、
「動かないで。でも辛くなったら言ってな」
ひたすら右腕を動かしながら、哲司先輩は私を気遣う様にそう言った。
それにしても私が絵のモデルをやるなんて、考えたこともなかった。
人生には色々なことが起こるものだ。
4月まで美術のびの字も知らなかった私が、今こうして自画像を描いてもらっている。
何だか不思議な感覚だった。
私はモデルをしている間、ホルンを眺めていた。
中学3年間、1日も触らない日はなかった。
ベルについた小さな傷は先輩の譜面台にぶつかってしまった時の傷だ。
買ってもらって3日目だったので、とてもショックだった。
ぐるぐると廻るチューブに映る私の顔は様々に歪んでいて、同じように歪んで映る空の青さの中で、野球部の応援に駆り出された時のことを思い出したりした。
私は無意識にたなばたのメロディーを思い浮かべて指を動かしていた。
吹奏楽部に入って、初めての合奏で演奏した曲だった。
叙情的なメロディーが頭の中で再生される。
もう七夕は終わってしまったが、織姫と彦星は会えただろうかなどと考えたりした。
たなばたを皮切りに、数々の曲が再生されていった。
アメリカンパトロール、ワシントンポスト、詩的間奏曲、アルヴァマー序曲、宝島、ラプソディーインブルー、そして一つの声に導かれる時。
何だか人間関係がギクシャクして嫌になってしまったけど、それでも一度合奏に入ると指揮者の下みんなの気持ちが一つになっている気がしたものだった。
「結奈、辛くない?平気?」
優しい声で尋ねながらも、右手はずっと動いている。
いつの間にか木炭は筆に変わっていて、油彩絵の具の匂いが風に乗ってほのかに香った。
「大丈夫です。私、哲司先輩が絵を描くところ初めて見ました」
「あれ?そうだっけ?」
「そうですよ、先輩部活でも描かないんだもん。ずっと先輩が絵を描くところ見たかったのに」
その夢が今この場で叶っている。
しかも私をモデルにして。
「そうだな。俺、ずっと描きたいものを探してたんだよ」
「私を、描きたいと思ったんですか?」
「そうだよ、やっと見つけた」
そう言って右手が止まって、あの優しい眼で私を見つめて微笑んだ。
それから、哲司先輩は描きながら色々な話をしてくれた。
お母さんとの思い出、お父さんとの思い出、明莉先生との出会い、コンクールで賞をとった時のこと、部員がやめてしまった時のこと、瑞季先輩と祐一先輩との出会い、カササギや声・夏の夜を模写した時のこと。
中でも、小学校4年生の時、明莉先生が初恋の人だったという話は何だか可愛くて笑ってしまって、姿勢を崩してしまい怒られた。
私の知らない哲司先輩は沢山いて、その隙間を話してくれた言葉が埋めていってくれた。
これから先はもっとたくさんの時間を共有していくことができると思うと、何だか自然と笑顔がこぼれてきた。
どれくらいの時間が経っただろうか、噴水のモニュメントの影が長く伸びてきたころ、哲司先輩の腕が止まった。
「よし、お疲れ様!結奈、サンキューな」
筆をテーブルの上に置いて、片付けの準備を始め出した。
「え、ちょっと待ってください!見せてくださいよ!」
「だめだめ、楽しみに取っといて!」
「えー、見たいのに。可愛く描いてくれました?」
「あぁ、めちゃくちゃ可愛いよ」
真面目に返されると何だか恥ずかしい。
「俺、ずっと結奈のこと想って描いたから」
西日を背にして表情が読み取れないが、哲司先輩は照れているのか頭を掻いた。
「そういえば、8月22日、結奈誕生日だろ。実はさ、その日母さんの命日なんだ。父さんが今海外に出張で行けないから俺が墓参りに行かなくちゃならなくて。ごめんな」
「誕生日覚えていてくれてありがとうございます。…お母さんの命日だったんですね。私のことは気にしないで、お母さんと会ってきてください」
「悪いな。俺、結奈のこと報告してくるから。結奈も誘おうかとも思ったんだけど、流石に誕生日に墓参りは嫌だろ?」
「…嫌じゃないです。哲司先輩が良ければ私一緒についていってもいいですか?」
「え?良いの?きっと母さんも喜ぶよ。結奈、ありがとう」
「ううん、私、哲司先輩のお母さんにお礼言いたいんです」
「お礼?」
「哲司先輩と一緒になれたお礼。お母さんの光のおかげだから」
「そういうことか」
哲司先輩は可笑しそうに笑った。
「もう、私本気で思ってるんですよ」
「そうだな、悪い。俺もお礼言わないと」
「そうしてくださいね」
私も何だかおかしくて笑った。
私がお礼を言いたいのはそれだけじゃなかったけれど、何だか照れ臭くて言えなかった。
「ところで、結奈さ、文化祭の絵、何描くか決まった?」
片付けをしながら、哲司先輩は話を逸らした。
「ええと、さっき決めました」
「さっき?何にするの?」
そう、哲司先輩の思い出話を聞きながら、私も自分の思い出を振り返ってみた。
ホルンを抱えながら、私が今こうして絵と向き合うことができているのも全て父と母のおかげだった。
あの日、父と母と歩いた田んぼ道、泣きながら歩いた田んぼ道。
私はあの風景を絵に閉じ込めたいと思ったのだ。
「レンゲ畑を、描こうと思います」
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